1
「たっだいまー、って、誰もいないか」
部屋の電気を点け、狭いながらも楽しい我が家(家賃は格安三万円。でも築40年の古びた2Kマンション)に彼女―――遠野 八重が帰宅したのは、0時まであと十五分に迫った時間帯だった。
かつて異世界に召喚され、勇者となり世界を恐怖で支配しようとしていた魔王を倒した八重だったが、日本ではただの一庶民でしかない。
異世界から帰還したものの、召喚されていた四年の間にそれまで学んでいた高二の授業内容のほとんどを忘れ去っていたため二学期の通知表が赤く染められたことは彼女の黒歴史だ。
その後は血の涙と汗を流しながら必死で勉学に励み、何とか地元の女子大に合格することができた。
そして大学卒業後は地元にある中堅企業に事務員として採用され、以後十五年に渡って真面目にOLとして勤めていたのだ。
ちょうど今は会社の決算期にあたるため、いつにもまして残業が増えていた。
八重は三十八歳になった今でも独身街道爆走中の、いわゆる干物女という奴なので、遠慮なくこき使われていたのである。
「あー、疲れた。なんだかんだいってここ二週間、ほとんど午前様じゃないの。労働基準法って何? 美味しいのそれ? って感じよねぇ」
帰宅途中のコンビニで買ってきた夜食用のおにぎり(鮭入り)と、朝食用のあんパンが入った袋をテーブルの上に放り投げて、別に見たい番組などないのだがテレビをつけてからまず何をしようかと考える。
『着替えて化粧落としておにぎり食べて寝るか、シャワー浴びながら化粧落として、着替えておにぎり食べて寝るか。どっちがいいかな~。うーん……そーいえば昨日、シャワー浴びずに寝ちゃったっけ。さすがに二日連続は女としてヤバいわよね』
ブラウスのボタンをはずしながら、「仕方ない。シャワーにするか」と決断を下して、下着類を用意するとバスルームに向かった。
「よし。では奥義“カラスの行水”スタート!」
誰も聞く者のないバスルームで景気づけに合図をして、八重はシャワーコックをひねった。
――――――――――
約十分後、奥義の技を駆使して全身を洗いあげた八重はバスルームを出て洗面台の前に立っていた。
『ぎゃー、今まで気づかなかったけど頬にゴマ粒大のシミができてる~~』
心の中で、可愛らしさの欠片もない悲鳴をあげて鏡に顔を近づけてシミの大きさを確認すると、慌てて一本で三役をこなすマルチ?ジェルを塗りたくった。
『マズイわ、気持ちはいまだに二十代前半だけど、身体は確実に老化しているのね。あぁ、ショック! これからはさぼらずにお手入れしなきゃ。私はまだ女を捨てたわけじゃないんだからね』
そうして簡単なワンステップのスキンケアを施すと下着姿のまま、バスルームを出る。
ちなみに部屋のカーテンはここ二週間閉めっぱなしだ。
フローリングの六畳間に戻ると引き出しからパジャマ代わりに愛用している男もののデカTシャツを着て、下には短パンをはく。
「うーん、女を捨てていない割には色気のないパジャマよね。でもまあ、見せる相手はいないんだから気にしない気にしない」
呟きながら、髪を乾かす前におにぎりでも食べようと思った八重は、テーブルの上のビニール袋を手に取った。
その瞬間、フッと世界が闇に包まれる。
「えっ、停電?」
大雨が降っているわけでも、雷が聞こえたわけでもないのに、突然電気が消えたのだ。誰もが停電だと思うだろう。
「ちょっと待ってよ、私まだ髪の毛乾かしてないのよ。このまま寝たら明日の朝には好き放題の方向にはねまくっちゃうじゃない」
冗談じゃないよ、と悪態をつきながら目を瞬かせながら、周囲も停電しているのかどうかを確かめるため窓の方に目を向けた。
「うわ、カーテンの隙間から街灯の明かり一つ差し込んできてない。本格的な停電なの? 雷ひとつなっていないのにどういうこと?」
髪の毛を自然乾燥させるには、すでに夜遅すぎる。
明日の朝も定時に出社しなければならないのだ。一分でも早く寝た方がいいに決まっている。
「数分で点けばいいけど、期待はできないだろうなぁ。しかし停電の原因は何なんだろ」
起こってしまったことに文句を言っても仕方がないのだが、釈然としないままため息をつくのだった。
ちなみに八重の肉体年齢は三十八歳ですが、異世界で四年間過ごして再び若返った分も合わせると、精神年齢は四十二歳に匹敵します。
話を進めていく分には大した問題はありませんが、念のため。
第一章は2011.8.10から2012.10.25までムーン様に投稿。
2014.2.1 なろう様に再投稿。