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肩甲骨のあたりまで伸ばされた艶やかな黒髪。
瞳は黒く澄みきり、乳白色の肌色の上に赤く可憐な唇が配置よくのせられた可憐な少女が、飼育園に飛び込んだエヴァンジェリスタを驚いた顔で見つめていた。
だが驚いたのは少女だけではない。
六歳にして大の大人をもやり込める天才児であるエヴァンジェリスタも、驚愕し、目を見開いた。
勇者がいると教えられた飼育園に、三六〇度どの方向から見ても勇者には見えない少女がいたのだ。驚くなという方が無理だろう。
「あ、あの…貴女が勇者様、ですか?」
どう年長に見ても十三歳くらいにしか見えない少女が勇者などであるはずがない、と思いながら尋ねると、
「んー、まあ、そうらしいわね」
と鈴を転がすような可愛らしい声で、緊張感のない答えが返ってきた。
それを確認したエヴァは、『あり得ない!』と心の奥底で叫びを上げる。
幼い自分のかわりに魔王を倒すため召喚された勇者が成人男性ではなく、自分よりいくらか年上なだけの少女だなんて、あっていいはずがない。
確かに父王をも上回る驚異的な魔力を彼女の内から感じるが、それでも自分と同じ子どもに勇者となるかどうかを決めるよう迫るなど父王たちの正気を疑ってしまう。
「あの…勇者様、本当に魔王を倒しに行かれるのですか?」
承諾するなどあり得ないだろう、と思いながら問うと、
「ああ。返事はまだ保留中よ。とりあえず半年くらいこの世界のことを勉強してどうするか決めることにしたの。すぐに帰るのもいいけど、王様は召喚されたもとの時間に還してくれるって言ってたし、こんなラノベ的な経験は人生に一度きりだと思うのよね。だったらこの際、納得できるまで悩んじゃおっかなーって」
一部、意味のわからない単語があったが、エヴァの予想をはるかに超える答えが彼女から返される。
「そ、そうですか……」
見かけからは想像もつかないほど豪胆な少女にエヴァはたじたじになってしまう。
「ところで僕、お名前は? あ、私は遠野八重。こちら風に言うとヤエ・トウノよ」
戸惑うエヴァを気にすることなく彼に近づいた八重はその場に膝を折り、目線をエヴァに合わせると、彼の金色と銀色が混ざり合った珍しい配色の頭を優しく撫でながら尋ねた。
『なっ、なんだ、この状況!? これって、まるっきり子ども扱いじゃないか』
見た目年齢はどうあれ、精神年齢はすでに大人並みのエヴァを子ども扱いする者などこの城には存在しないのだ。
そんな中で久しぶりに子ども扱いされたエヴァは、明らかに動揺していた。
「やだ! そんな困った顔しないでよ。もしかして、僕に名前聞くのは反則だった? だとしたら、無理して名乗らなくていいのよ。まあ、お城にいる子どもの正体くらい、大体想像はついているから」
動揺するエヴァに慌てて八重が告げ、撫でていた頭から手を離した。
「エヴァンジェリスタです。僕はエヴァンジェリスタ・グイド・ファーノといいます」
暖かな掌の温もりが去っていく中でエヴァは大きな声で名乗りをあげると、ひっこめられていく八重の手に自分の手を伸ばし、
「ヤエ。僕、ヤエにお願いがあります。どうか僕のお友達になってください!」
と、実に子どもらしい言葉を彼女にぶつけたのだった。
自分の口から出たセリフに誰よりも驚いたのは、エヴァ自身だ。
しかし今更前言撤回などできるはずもないし、する気もなかった。
「お友達? 私と友達になりたいの?」
エヴァの手を握り返しながら、八重が首を傾げる。
「はい。僕、ヤエと友達になりたい。なってくれますか?」
軽く小首を傾げてエヴァに尋ねる仕草は子リスのようで、とても可愛らしい。
「もちろん、いいわよ。こんな可愛い男の子とお友達になれるなんて、日本にいたら絶対にあり得ないもん。むしろこちらからお願いしたいくらいだわ。えーっと、エヴァン…エヴァ…ン…ゲ…リ……オ、ン?」
長ったらしい欧州風のネーミングに慣れていない八重が、一度聞いただけでエヴァンジェリスタなどという名を覚えられるわけもなく、言った後で『これってアニメのタイトルじゃん。バカか私は~』と後悔するようなとんでもない名前を口にしてしまった。
「エヴァンジェリスタだよ。覚えるのが難しかったら、エヴァって呼んでいいから」
恥ずかしそうに頬を染める八重を見つめながら、家族だけが呼ぶことを許される愛称を迷わず口にした。
「エヴァ?」
「うん。エヴァ!」
八重の口からその名が出た途端、背筋をゾクリとしたものが這い上がる。
だがそれは決して不快なものではなく、むしろ気持ちがいいとすら思える感覚だった。
「ん、それなら覚えられるわね。じゃあこれからは僕のこと、エヴァって呼ばせてもらうわ。よろしくね、エヴァくん」
完璧に子ども扱いされるが、全く嫌な気がしない。
それどころか、彼女が自分を見た目通りに子ども扱いするのなら、彼女の前でだけは子どもらしく振舞おうとすら思った。
きっとその方がヤエに警戒心を持たれずに済むだろうし、安易に触れることができるだろう。
天使の微笑みの下でエヴァが子どもらしからぬことを考えているなどとは思ってもいない八重は、その後、二十年近い年月のあいだ彼を可愛い弟だと信じていくことになるのであった。