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「それは、あの…十八年前に…」
エヴァンジェリスタは歯切れの悪い口調でつぶやきながら、八重から視線をそらした。
「十八年前? ああ、こちらの時間でいう十八年前ね。私にとっては二十二年前になるけど。そのエヴァのいう十八年前にどうしたっていうの? ほら、こっち見て答えなさい」
エヴァンジェリスタのそらされた顔に両手を当てて、自分の方へ強引に向かせる。
彼女以外には決して許されない行為だ。
「十八年前、ヤエがニホンに戻られる先に交わした約束を覚えていますか?」
「約束……………そんなもの、したっけ?」
八重は何とか思い出そうとしながらも、結局そう答える。
エヴァンジェリスタには悪いが、あの時は自分の世界に還ることしか考えていなかったのだ。幼い彼と言葉を交わした記憶はあるが、内容まで覚えているはずがない。
悲しげな瞳で見つめてくる彼に悪いとは思うが、取り繕っても仕方がないだろう。
「しました。貴女が忘れてしまったとしても、私は一日も忘れたことはありません。今でも一文一句違えず覚えています」
その発言に八重は、『エヴァって粘着質だったの!?』と心の中で叫ぶ。
口にしなかったのは八重なりの優しさだ。
「このままこの世界に残ることになっていたら、僕のお嫁さんになってくれた? 僕と結婚してもいいと思ってくれた? 本当の気持ちを教えて! と迫った私に、
『大人になったエヴァの気持ちが、若くて可愛い女の子に向かずに私に向き続けてくれたなら、結婚してもいいかも、くらいには思っていたわよ』と答えてくださいました。
だから私はそれを信じて今日まで生きて来たのです」
「ああ、そういえばさっきもそんなこと言ってたわね。でもごめん、それについては正直言って覚えないのよ」
その言葉にエヴァンジェリスタは項垂れた。
明らかにショックを受けている姿に、八重もチクリと胸が痛む。
だが十歳の少年相手に二十歳の成人女性が本気で恋をするなんてありえないだろう、と声高々に言いたいと八重は思った。
性別が逆、あるいは二十歳の男と三十歳の女であれば恋愛感情も成り立つかもしれないが、少なくとも八重はショタの気は一切持ち合わせていないので、当時十歳のエヴァンジェリスタに恋心を感じたことはないのだ。
「そう…ですね……確かにあの頃の私はまだまだ子どもでした。成人していたヤエが本気で私に恋してくださるはずなどないほどに……でも、私は本当に貴女のことが好きで好きで、大好きで、誰にも渡したくなかった。私だけのただ一人の女性でいてほしかった。
ですからあの日、貴女がニホンに還られる直前、貴女にくちづけをして私の印を刻み込んだのです。皮膚の上に印を刻むより体内に刻んだほうが跡も残りませんし、より魂の奥深くまで印を浸透させることができますから」
まっすぐな視線を向けて印をつけた理由を告げるエヴァンジェリスタに、八重はドキリとする。
「ヤエ」
エヴァンジェリスタは椅子から立ち上がると一歩前へ足を進め、八重の前で再び片膝をつくと彼女の両手を柔らかく包みこんだ。
「私は貴女を魂の底から愛しています。どうかこれからの長い人生を私と歩んでいただけませんか? 貴女以外の女性に目移りすることは生涯ありえません。私が愛せるのは後にも先にも貴女ただ一人だとこの命に誓います。ですから私の妻になってください」
そう言うエヴァンジェリスタの指先が、わずかだが震えていることに八重は気づいた。
今まで誰からも向けられたことのない真剣な愛の告白に戸惑わずにはいられないが、その言葉を告げている彼自身も緊張と恐れを抱いているのだと、指先の震えが教えてくれる。
これでは勝手に印とやらを刻んだことをとがめることもできない。
「そんなに、わたしのことが好きなの?」
「好きです、愛しています!」
即答だった。
「でもエヴァと比べると所詮おばさんだよ。見た目がどんなに若くったって、どうなんだろ…」
八重がやれやれとため息を吐いてボソリと呟くと、耳ざとくその言葉を拾ったエヴァンジェリスタが首を傾げる。
「わずか十年の年の差をなぜそこまで気にされるのかがわかりませんが、私たちの寿命は魔力の強さからいって、フリオ・アラーニャよりも長いでしょう。これから続く千年以上の年月からすれば十年の年の差など瞬きの間のような時間です」
「え、千年以上って、バカヤーロと同じくらい生きるの!?」
「最低で千年です。ですが貴女は当時最大の魔力保持者であった魔王の抵抗をすべて封じ、あっさりと奴を滅ぼした。それはつまり魔王を上回る魔力を持っていることになります。魔王の正確な享年はわかりませんが、おおよそ千二百歳程度だったと考えられていますので、貴女は千年もしくは二千年は軽く生きるでしょう。ちなみに私の魔力も貴女とほぼ同等ですので、同じくらいのときを生きることができます」
その言葉を聞いた八重は、『私たちって化け物というより仙人なのね』と思った。まさかそこまで寿命が長いとは想定外だ。
しかしそれが事実だとすると、日本いや地球で生きていくことは不可能だ。
「はぁーっ。確かにそんなに寿命が長いと日本で生きていくのは無理だわね。それはまあ、納得する」
納得したいわけではないが、するしかない。
そんな八重の言葉に、エヴァンジェリスタが目を輝かせる。
「では結婚してくださいますか?」
「いや。だから、それは無理無理無理って言ってるでしょ」
「なぜ無理なのです? 私に至らぬところがあるのならおっしゃってください。すぐには無理かもしれませんが、貴女のお気に召すように努力しますから」
無理を強調する八重に、エヴァンジェリスタは絶対に諦める気はないのだと詰め寄った。
「いや、エヴァに至らないところはないでしょう? 容姿にも地位にも恵まれたまさに理想の王子様、じゃなくて皇帝陛下だもん。若いお嬢さんたちが放っておかないと思うわ。ただ私はね、何というか、もういい年なわけよ。恋に恋して突っ走れるほど精神的に若くはないし、恋愛に対しても相手のことを十分に知った上で慎重にコトを運びたいわけ。勢いで突っ走って結婚に失敗しましたなんて笑えないじゃない」
「そうですか。ヤエの考えは大体把握できました。それではまず、慎重にお付き合いするところからはじめましょう」
「は?」
「ですから、まずはお互いをもっと知ることからはじめることにしましょう。私に至らぬところはないと言われましたよね? それはつまり、私にもまだチャンスが残されているということだと判断させていただきます。考えてみるとこの十八年、私たちは離れ離れになっていたのです。貴女の記憶の中にいる私は今だ十歳のまま成長していないようなので、これからは大人になった私のことを知っていただくことにします」
逃がしませんよ、とでも言いたげに口元に笑みを浮かべるエヴァンジェリスタを、八重はポカンと口を開けたまま見つめる。
「私以外に貴女にふさわしい男がいないことを教えて差し上げます。覚悟してくださいね、ヤエ」
ターゲット・ロックオンな視線に晒され、八重は生まれて初めて蛇に睨まれた蛙の気持ちを味わうのだった。