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どのくらいの時間が経ったのだろう?
ほんの数秒のようでもあり、数時間、いや数日のようにも思える時の流れを感じる中で、八重は意識がはっきりとしてくるのを感じた。
「あれ? わたし、どうしちゃったんだっけ? 何かすっごく悪い夢を見ていたような気がするけど…」
「ヤエ。気がついたのですね!」
いまだ正気に戻りきっていない頭の中で、何が起こったのかを思い出そうとする八重の頭上から第三者の声が降ってくる。
『あ…誰かいる…この声ってエヴァだよね?』
そんなことを考えながら、八重は自分の背中がやけに暖かいことに気がついた。
『よくわからないけど、背中がポカポカする。このクッション、暖かくて気持ちいいなぁ』
「大丈夫ですか? 吐き気などはありませんか?」
大きな掌がそっと髪を梳く。
その感触を心地よく感じながらゆっくりと視線を上げると、心配げに自分を覗きこむエヴァンジェリスタがいた。
幼い頃と変わらず、まっすぐに八重を見つめる瞳に懐かしさがこみ上げる。
記憶にある彼の瞳の色とは異なっているが、間違いなく彼だ。
「エヴァ…」
小声で彼の名を呟いてゆっくり上体を起こそうとしたところで、後ろから拘束された。
見下ろせば、腰に回される腕がある。
「エヴァ、何してるの?」
「ヤエを抱きしめています」
声のトーンを落として尋ねると、エヴァンジェリスタは悪びれることなく真剣な声音で答え、腰に回した腕に力を込めた。
「…離してほしいんだけど」
「嫌です」
言いながら、ますます腕に力が篭もる。
だが細心の注意を払っているのか、決して痛みは感じない。
「嫌って、あんたは子どもか!?」
皇帝陛下に対する言葉遣いとしては明らかに不敬な物言いだろうなと自覚しつつ、突っ込みを入れる。
「子どもだと思われても構いません。今は貴女を離したくないのです」
「……」
開き直ったとしか思えない返答に八重はため息をつきながら、腰の辺りに絡んだエヴァンジェリスタの
手の甲を見下ろした。
八重の記憶に残っているのは、自分よりも小さな十歳のエヴァンジェリスタの姿だけだったのに、今、視界に飛び込んでくるのは立派な成人に成長した男の手だ。
壊れ物を包み込むようにやわらかく、しかし決して離さないといわんばかりに回されたそれ。
相手がエヴァンジェリスタでなければ問答無用で振り切って、ついでに蹴りでもかましていることだろう。
普段は特大級の猫をかぶって生活しているが、八重の本質はおとなしげな見た目とは裏腹に口よりも手が出るタイプなのだ。
はあ、と大きく息を吐き、八重はさきほど彼の口から告げられた言葉を脳裏で反芻する。
『大体、日本には二度と戻れないってどういうことよ? 前の召喚の時にはちゃんと戻れたじゃない。それに背中からエヴァの魔力を感じるけど、はっきりいってめちゃくちゃ強い魔力だよ。これだけの魔力をもってたら、わたしを向こうに還すのは簡単だと思うんだけど』
そう思うと、八重は黙ってなどいられなかった。
「あのさ、エヴァ。わたしが向こうに戻れないっていうのは嘘でしょ?」
「……」
「否定しないってことは、戻れるってことね」
八重がそう言うと、背後から深く息をつく音が聞こえた。
「……確かに、戻せないわけではありません。ですが、戻れないと思ってください」
「はぁ? 何でよ?」
「その理由については今から説明しますので、とりあえず私の話を最後まで聞いてくださいませんか?」
納得できないとばかりに声のトーンを上げた八重を名残惜しそうに離して、エヴァンジェリスタは指をパチンと鳴らした。
次の瞬間、八重の正面に二脚のイスが現れる。
初めて見る魔力の使い方に驚愕しながら、八重はエヴァンジェリスタの方を振り返った。
「力の使い方はのちほどお教えします。まずは貴女がニホンに戻れない理由を説明させてください」
『その魔力の使い方教えて!』と言わんばかりに目を輝かせる八重に言って、座るように促す。
「仕方ないわね、説明とやらを聞きましょう。でもその後で絶対に、指パッチンの方法を教えるのよ!」
偉そうに答えながら八重は女性用と思しき細身の、だが高価なものであることは一目でわかる王族仕様の椅子に腰を下ろした。
「では、説明させていただく前にお聞きしますが、ヤエ、貴女はご自分の実年齢と容姿が年相応ではないことにお気づきですか?」
「はぁ? 何でそんなこと聞くの? 大人の女に年齢のことを聞くのは失礼じゃない」
「失礼だということは承知の上です。ですがこれはとても大切なことなのです」
正面の椅子に座って、エヴァンジェリスタは真剣に答える。
冗談などいえそうにない雰囲気に、八重は大きく息を吐いた。
「………確かに、35を越えた頃から見た目が若すぎるんじゃないかなと感じるようにはなったわよ。でも日本には実年齢より若く見える人は多いし、わたしもそのタイプなんだろうなと思ってたんだけど、その質問から判断すると単なる若作りとは違うみたいね」
「はい。私も再召喚させていただいたヤエの姿を見て驚きました。同時に安堵もしましたが」
「安堵?」
「そうです。以前わが国にいらした時に学ばれたと思いますが、この世界では魔力が寿命を決定します。魔力が強ければ強いほど長寿、しかもほぼ不老に近いと言っても間違いではありません。外見年齢は個々の持つ魔力の絶頂期に止まるのが普通です」
「あー、そういうば、そんなことを聞いた記憶があるわねぇ。わたしがブッ倒したフリオ・バカヤーロも魔王なんて呼ばれていたけど、結局は当時の最高の魔力の持ち主だったってだけなのよね。確か年齢は千才を軽く超えてるって聞いてたけど、見た目は三十代前半のナイスガイだったわね。そっかー、改めて考えてみると、魔力が強ければ千年でも二千年でも生きれるんだね。すごい世界だ」
ヤエはまるで他人事のようにのんびりと答える。
「バカヤーロではなくアラーニャですが、亡き魔王の名などどうでもいいですね。他人事のようにおっしゃいますが魔力の強さと寿命に比例するという事実は、ヤエ自身にも当てはまることなのですよ」
……………
……………
長い沈黙が流れる。
「…………………………へ?」
色気のかけらもない声を出しながら、エヴァンジェリスタを呆然と見つめる。
「貴女の寿命がこちら側に適応してしまった可能性があるという仮説が立てられたのは、ニホンに戻られた後になってからです。
あちらには魔力というものが存在しないということから、魔道師たちは密かに50人がかりで貴女の魔力をも封じたそうですが、それが永続するとは思えないと後に父上に訴えてきました。そして魔力を得た貴女の魂の寿命はこちら寄りになっているのではないか、とも言ってきたのです。
当然その報告を受けた父上は、慌てて貴女を再召喚するよう命じられました。貴女の世界の人々の寿命が長くとも百年ほどしかないことは教えていただいていましたから。
ですが魔道師長はそれは不可能だと答えたのです。召喚後の送還は貴女自身が還りたいという強い意志をお持ちだったので可能でしたが、さすがに二度も同じ人物を召喚することは不可能だと言いました。それができるのは、貴女と同等かそれ以上の魔力を持つ者だとも」
「……それがエヴァってわけね」
「そうです。ただその仮説が立てられたときの私には、貴女を安全に呼び寄せるだけの力はありませんでした。まかり間違えば貴女を異空間に放り出してしまう危険性がありました。だから私の魔力が安定しするまで待つことにしたのです。幸い貴女には送還時に私がつけておいた目印がありましたから」
その言葉にピクリと八重のこめかみが引きつる。
「あのさぁ、エヴァくん。君がつけておいた目印ってどういうことかな?」
聞き捨てならない言葉に八重の目が据わる。
十八年前のエヴァンジェリスタには向けられることのなかった射るような視線を向けられ、これまで誰に対しても怯んだことなどない彼が生まれて初めて彼女を前に怯んでしまった。
八重が美しい外見からは程遠い性格の持ち主であることは王城内では有名な話だったし、エヴァンジェリスタもその手の噂は何度も聞いていた。
しかし幼いエヴァンジェリスタに対して、八重は怒りを向けたことなどなかった。
それは当時の彼が幼く、彼女にとって弟のような存在でしかなかったからなのだが今は違う。
エヴァンジェリスタは立派な青年に成長し、八重にとって子ども扱いする対象ではなくなっているのだ。
「そういえばこっちに引きずり込まれる直前、『印見つけたー』みたいな声が聞こえたのを思い出したわ。考えてみればわたしを引きずり込んだのはエヴァなんだから、あの台詞を口にしたのもエヴァなのよね。
わたしが向こうでは化け物としかいえないくらいの長寿になっちゃったって話は納得したくはないけど、理解はできたわ。
だから『印』のことを話しなさい。いつ、どこで、どうやって、なんのために、そんなものつけたのかを!」
八重は胸の前で腕を組んで、偉大なるファーノ帝国皇帝エヴァンジェリスタに解答を迫ったのだった。