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「貴女があちらの世界に戻られてから、いろいろあったのです。その件については、話すと長くなりますからおいおいお話させていただくこととして、要点だけ説明すると、ファーノ王国は八年前に近隣の数か国を吸収合併し、私を皇帝とする神聖ファーノ帝国として生まれ変わりました。父上は御存命ですが、現在は隠棲されて母上と共に静かに暮しておられます」
両頬に手を当てて口を開いた ――― まさにムンク状態でエヴァンジェリスタの言葉を聞いていた八重は、彼の両親が健在だと言われてホッと胸を撫で下ろした。
彼の父親は若かりし日の八重を勇者としてこの世界に召喚した張本人だが、八重の意思を尊重してくれる好人物でもあったのだ。
もちろん多少は恨んだりもしたが、時間の流れはある程度の恨みや憎しみは浄化する作用を持っている。
すでにおばさん領域に達し人生の甘いも辛いも酸っぱいも、そこそこに経験した八重には、エヴァンジェリスタの父に対するわずかな怒りも恨みも存在しなかった。
「そうか、王様は隠居しちゃったんだ。考えてみると、もうお年だもんねー。でも健在ってことは、会おうと思えば会えるということよね。会いに行っちゃおうかな」
「ええ。貴女がそれを望まれるのならばできるだけ早いうちに時間を作りますので、二人で会いに行きましょう」
何とか話をそらせようと話題をずらすが、あっさりと軌道修正されてしまう。
「えー、別にエヴァがいなくても、場所さえ教えてもらえればわたし一人で行くわよ。というより、なんで二人で行かなきゃいけないの?」
「それは貴女が私の伴侶となる女性だからです」
サラリと言ってのけるエヴァンジェリスタに、八重のこめかみが引きつる。
「いやいや、それについてはさっきからお断りしているでしょう。大体、皇帝の奥さんになるなんて絶対ムリだから。断ってるのに無視するとは、その耳は飾り物か?」
「わかっていますよ。ですが、一度断られてくらいで諦めるほど軽い想いを抱いてはいません。ヤエだって、一度断られたくらいで諦めるなと言う趣旨の話をしてくださったではないですか。それに私が貴女に求めているのは皇妃になっていただくことではなく、私の妻になっていただくことですので、お間違いなく」
「……」
エヴァンジェリスタの瞳が熱を持って輝き、八重は胸の奥が熱くなるのを感じた。
だがその感じが、なんであるのかまではわからない。
「……しっ、しつこい男は、嫌われるわよ」
「本当に私のことを嫌いになりますか?」
ポツリと漏らした八重に、間髪いれずエヴァンジェリスタが問う。
「っ! な、なんでそういうこと聞くかな? 一般的な、たとえ話よ。今のところはまだ嫌いじゃないわ」
「よかった。ところでもうひとつ気になっていることがあるのですが、伺ってもよろしいですか?」
「何よ?」
「……これについては、正直、伺うのも怖いので後回しにしていたのですが…」
それまでの勢いが急に減速し、歯切れの悪い言葉がエヴゥンジェリスタの口から紡がれる。
「何それ? どんな質問かは知らないけど、聞くと決めたからには男らしくチャチャッと聞きなさい」
八重がそう言うと、
「貴女がそうおっしゃるのなら、伺います。ヤエ、貴女には特別な男性がすでにおられますか?」
不安げに瞳を揺らしてエヴァンジェリスタが問うた。
それを見つめながら、八重はなぜか一瞬だが、彼を可愛いと感じてしまった。
『ちょっと待てー、可愛いってなに? 不安そうなエヴァを見て可愛いって、そんなバカな! 私にはSの気はない…うん、そんなものないはずよ!』
「特別な男性って、だん、じゃなくて、夫って言う意味?」
「そう受けとめられて結構です」
「そっか。えっと、まぁ…あー、もし“いるわよ”って答えたらどうするの?」
素直に“いない”と答えるのも癪なのでそう聞いてみると、エヴァンジェリスタは噛みつくかのような勢いで八重の手首を掴み、
「いらっしゃるのですか!?」
と動揺をあらわにした声を上げた。
「えー、別におかしなことじゃないでしょう? これでも三十八の立派な成人女性だよ。はっきり言ってしまえば、子どもの一人や二人いっておかしくない年齢だよ。この世界の女性だと孫がいたっておかしくないんだよ? そんなわたしに特別な男性がいないと思う?」
特別な相手などいないのだが、エヴァンジェリスタがどう反応するのか気になって、そんなふうに切り返してしまった。
「そ…それは確かに……で、ですがそのくらいで諦められるほど軽い思いではないのです。…それでは、本当はこれ以上聞きたくはありませんが、特別な相手がおられるのであれば、子どもがいてもおかしくはないですよね…貴女に子どもはいるのですか?」
「お子さんって、私の子どものことよね? 残念ながらいないわ。それと今更、前言撤回なことを言うのはものすごーーーく癪だけど、結婚だってしてないわよ!あーやだ、何でこんなことを第三者が見ているところで言わなきゃいけないのよ」
フン、とエヴァンジェリスタから視線をそらしてふて腐れてみせる。
片やエヴァンジェリスタは、思いがけない言い直しに目を見開く。
そして脳裏で彼女の言葉を何度か反芻しながら、その顔を綻ばせた。
「そうですか。それを伺って安心しました。もちろん、貴方が人妻だったとしても母親だったとしても諦めるつもりはありませんでしたが」
目の前でホッと安堵の息を吐くエヴァンジェリスタに、今度は八重が首を傾げた。
「安心って、どういうこと?」
思わず声が低くなる。
「それは……ここではなく、落ち着いてお話ができる別の場所で改めてお話させていただきます」
不安と動揺が混じった表情で答えるエヴァンジェリスタに、
「ダメ。今すぐに答えなさい!」
八重は掴まれた手首から彼の手を振りほどくと、幼いエヴァンジェリスタに対していた時と同じ口調で言い切った。
「………ですから、後で、」
「い・い・な・さ・い!」
強気な口調にエヴァンジェリスタは息を吐く。
「わかりました。でも、怒らないでくださいね」
「怒ること前提ってことね ――― まあ怒るか怒らないかは内容次第ね。約束はしないわよ」
無理やり召喚されたのだから遠慮などしてやるものか、と言わんばかりに答える八重に言い返す言葉もなくエヴァンジェリスタは頷く。
「仕方がありません。どうかお手柔らかに願います。まずヤエに伝えなければならない最重要事項ですが、貴女はもうあちらには戻れないということをご理解ください」
「へ?」
間抜けだとわかっているが、そんな声しか出てこない。
八重は呆然とエヴァンジェリスタを見つめながら、彼の言葉を頭の中で反芻した。
『なになに、どういうこと? あちらには戻れないって…戻れない? ……戻れない…って、えぇぇっ』
「戻れないぃぃぃっ!?」
叫び声と共に、八重の内側から先ほどの比ではない力が放出される。
「ヤ、ヤエっ、落ち着いてください!」
エヴァンジェリスタが慌てて叫ぶが八重の耳にその声は届かず、召喚の間は真っ白な輝きに包まれたのだった。