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「ようこそ、我が花嫁。ずっと貴女を待っていました」
目を焼かんばかりの輝きに包まれる中、八重をこちら側に引きずり込んだであろう人物の美声が耳元で響いた。
しかしまさかの異世界召喚に驚愕した八重は、反応を返すことができなかった。
初めての召喚時は十六歳とまだ若く怖いもの知らずだったが、さすがに三十代後半ともなると十代の頃ほど怖いもの知らずではいられない。
初めての召喚時は『うっそだぁ、ありえなーーーい』などとしょっぱなから声をあげたが、今回は大口開けて立ち尽くすのみだ。
第三者が見れば“頭の弱い女”に見えなくもないが、決して思考を停止していたわけではない。
驚きながらも、必死で自分の置かれた状況を把握しようと努めていた。
『花嫁? 勇者じゃなくて……花嫁って…どーゆー意味? 普通、異世界召喚は勇者を召喚するものでしょう、勇者を。それを花嫁って…百万歩譲っても二十代半ばくらいまでだよ。その理由での召喚は! わたしじゃあり得ないってば!』
「大丈夫ですか? 異世界から渡って来られて体調が悪くなられましたか?」
どことも知れぬ異世界の、召喚主らしき男が両腕の力を抜き、八重の身体を離しながら不安げに尋ねた。
拘束から解かれた八重は「いいえ」と頭を振りながら、とりあえず自分のような年増を花嫁として召喚した勇気ある男の顔を見るため、視線を上げた。
『なっなに!? この超イケメン』
見上げた視線の先には、決して華美ではないが所々に金糸の刺繍が施された薄紫色の衣装を纏った男が立っていた。
年の頃はおそらく二十代半ば。金と銀の混ざった特殊な配色の頭髪と金色の瞳を持つ、ものすごい美形だ。
『うわ、キンキラキンの髪だー…って、まさかエヴァ!? ――― いやいや、それはないか。髪の色はあの子と同じだけど、目の色が違うし……しかしあの子とおんなじ髪の人間がいるなんて、すごい偶然だわ。もしかしたら宝くじに当たるくらいの確率かも』
的外れなことを考えながら、日本ではまずお目にかかれないだろうイケメンに見惚れてしまう。
「ああ…そんな可愛らしい顔をなさらないでください。このまま押し倒してしまいたくなるではないですか」
イケメンことエヴァンジェリスタは、想像していたよりもずっと美しくなった八重の姿を見つめながら告げると彼女の右手を取り、そっと手の甲に唇を落とした。
『ぎゃーーー! ちょちょちょちょちょ、なになになに!? なんで手にチュウするのかな? いやいやいや、それより可愛らしい顔ってなに? 押し倒すってどーゆーこと?』
彼に手を取られたまま、再びパニックに八重は陥る。
正直に言って、八重は男性経験は乏しいのだ。
もちろん過去に片手で数えられる程度の男性と、お付き合いをしたことはある。
だが、深い関係には到達できずに一~三回のデートでお付き合いは終了していたのだ。
「そんな顔をしなくても大丈夫です。押し倒したいというのは本音ですが、自制心には自信があります。式を挙げるまでは口づけだけで我慢して差し上げますよ」
そう言うと八重の右手を自分の方に引き寄せ、前のめりに倒れこんできた彼女の唇を奪った。
『!?★・●*#?$~~~』
八重にとっては、どこの誰かもわからない男とのキスである。まともな言葉すらすでに浮かんでこない。
『なんで口チュウなの? いくら何でもどこの誰だかわからない者同士が、出会ってすぐに口チュウはあり得ないでしょう!? って、やだっ、舌なんか入れないでよっ』
元々半開き状態だったせいもあり、簡単に男の舌が口腔内に侵入してくる。
さすがにそこまでされて黙ってはいられない八重は、空いている左手握るとそのまま大きく振り上げて男の側頭部をガツンと殴りつけた。
「何すんのよ、このすっとこどっこい! 顔が良いからってすべての女があんたにキスされて喜ぶと思うなーーーーっ!」
「…っ」
八重の内側から強大な魔力が溢れ出す。
『はいぃ? なぜここで魔力とか使えちゃうんですか?』
かつて勇者となって魔王を倒した時には魔力を完璧に使いこなせた八重だが、日本に戻った途端に魔力はすべて失われていたのだ。
それなのにどことも知れぬ異世界に召喚された途端、溢れんばかりの魔力が身体中に満たされていくのを感じた。
目の前で頭を押さえているイケメンは八重のことを“花嫁”と言ったが、“勇者”と聞き間違ったのだろうか? ――― などと考える。
だがそんな八重の思いをよそに、側頭部を殴打され拒絶ともとれる言葉を浴びせかけられたエヴァンジェリスタは、
「ヤエ……もしかして、私が誰だかわかっていないのですか?」
と絶望的な表情で八重に尋ねたのだった。
「なんでわたしの名前を知ってるのよ?」
名乗ってもいないのに自分の名を呼ばれた八重は、殴りつけた側頭部を押さえたままでうなだれるイケメンを見上げた。
『げっ!?』
そして男の顔が視界に映った瞬間、彼の目尻に涙が浮かんでいることに気づき、心の底で下品な声をあげてしまう。
まさか成人男性が女に一発殴られたくらいで泣くとは思ってもいなかったのだ。
「ちょ、ちょっと、なんでそんな顔するのよ…痛かったの? いやいや、聞くまでもないか。そんな顔するくらいだから、間違いなく痛かったんだよね? ちょっと力入れすぎたかなぁ。一応、ごめん。でも初対面の女性に突然キスする方が悪いんだからね」
慌てて殴りつけた場所を抑えている大きな手の上に自分の手を重ねて、そっと撫でた。
「……それほど痛みはありませんから、ご心配なく」
「強がらなくてもいいわよ。大の男が泣きそうな顔してそんなこと言っても説得力無いから。ところでどうしてわたしの名前を知っているのか教えてちょうだい」
八重がそう言うと、
「愛する婚約者の名を、忘れるはずがないでしょう?」
目の前の男は苦笑を浮かべて答えた。
ストレートに八重の名を知っている理由を説明する気はないらしい。
「―――は? ………こん、やくしゃ?」
「そうです。私たちはお互いに結婚を約束した婚約者です。どうか私のことを思い出してください、ヤエ」
呆ける八重の手を取って手の甲に口づける。
『婚約者って…えぇぇっ? いつ・どこで・わたしが・だれと婚約した? そんな覚え全くないんですけどーって…んんんーっ? ちょっと待て…結婚の約束…結婚の約束…といわれて思い出すことと言えば……えーっと、まさかとは思うけど…』
「目の色が記憶と違うから選択肢から外したんだけど…もしかして、エヴァなの?」
八重は自分の手を握ったまま離さない男の顔を、じっと見つめながら無意識に小首を傾げて尋ねた。
その瞬間、苦笑を全開の笑顔に変えて、エヴァンジェリスタは八重を抱きしめる。
「ヤエ、ヤエ…思い出していただけましたか…ヤエ、愛しい女」
彼は何度も彼女の名を呼びながら、力強く抱きしめる。
『愛しい女ってくさすぎるーー、と突っ込みたいけど、そんなことより苦しいってば! そんなに強く抱きしめるなー! というより、はーなーせー! くるしーー』
偶然か故意かは判断できないが、胸元に顔を押しつけられ、まともに呼吸ができない。
何とか酸素を手に入れようと酸欠の金魚のように口をぱくつかせるが、それでも思うほど酸素は手に入らなかった。
『うぅー、死ぬ。死んじゃう~!』
頭を殴って泣かせそうになった(?)ので、暴力に訴えるのは遠慮していたのだがこのままでは本当にあの世を見る、と判断した八重はこの世界で最も確実な強硬手段に出ることにした。
すなわち、魔力での抵抗である。
『別れた頃は子どもだったから抱きつかれても問題はなかったけど、成人男性に鼻と口をふさがれたら死ぬってば! わたしはまだ死にたくないのよっ』
ブォッと八重の全身から魔力が放出される。
「うわ、ヤバッ…」
無意識の放出ということもあって、自分の生み出す魔力をうまく制御できず、思っていたよりも大きな魔力をエヴァンジェリスタに放ってしまった。
「!」
成人して、本来の魔力を取り戻したエヴァンジェリスタは、己に向けられる万人の魔力を無に帰すことができる世界一の魔力の持ち主といっていい。
だがさすがというか、その彼を以ってしても元勇者である八重の魔力は打ち消しきれず、全身に当たった八重の魔力でエヴァンジェリスタは一歩後退してしまった。
その光景に、これまで空気のように二人の様子を窺っていた新参の重臣たちが息を飲む。
片や古参の重臣たちは、昔と変わらず強大な力を持つ八重を見つめながら、エヴァンジェリスタに相応しい女性は彼女しかいないと改めて痛感していた。
「きゃー、ごめん、エヴァ~。加減し損ねたっ」
後ろへ後退したエヴァのダメージを確認すべく、自分から彼の手を握ると即座に握り返された。
そしてそのまま彼は八重の手を握ったままもう片方の手も静かに取って、彼女の前に静かに片膝をつく。
!
その瞬間、部屋全体に緊張が走った。
『な、なに?』
目の端には映ってはいたが、あえて無視していた男たちが今までになく緊張するのを感じて、八重も緊張する。
「ヤエ」
「はいぃ?」
そんな緊張感漂う中、これまた威厳のある真剣な声で名を呼ばれた八重は裏返った声で返事をすると、膝をついているため自分より低い位置にあるエヴァンジェリスタの顔を見下ろした。
「昔、私と約束してくださいましたよね。いつか奇跡が起こって再び出会うことができたなら、その時は私と結婚してくださると」
「へっ?」
上品さの欠片もない素っ頓狂な声をあげた八重は、そんな約束したっけ? と記憶を引き出そうとするが何といっても彼女にとっては二十二年も昔の出来事だ。
結婚してね。
いいわよ。
と、成人女性と十歳児が交わすおままごと程度の会話しか覚えてはいない。
『やばい、思い出せない…』
具体的な約束の内容までどうしても思い出せず、八重は困り果ててしまう。
「貴女と交わした約束だけを糧に、私は今日まで生きてきました。どうかヤエ」
そこまで言っていったん言葉を切り、エヴァンジェリスタは金色の瞳を狂おしいほど熱く輝かせた。
『うわっ、まずいわ。ヤバいわ。何だかときめいちゃうじゃないの~』
なぜかドキドキと胸が高鳴るのを感じる八重に、
「昔も今も、変わらず貴女だけを愛しています。どうか私と結婚してください」
そうしてエヴァンジェリスタは片膝をついたまま、自らの両手でそっと包み込んでいた八重の左右の手の甲にゆっくりと口づけを落とし、そのまま彼自身の額を八重の両手の甲に押しつけたのだった。
エヴァは十八年、彼女を待っていたという設定ですが、八重の方は二十二年の年月が流れています。
ややこしくて済みませんが、難しく考えずさらっと読んでいただければ幸いです。