(後半)
◆吸血鬼Ⅳ◆
前島家に乗り込んだ翌日。
ハルカは伯爵の下を訪れていた。
相も変わらず厳重な警備を抜け、屋敷の最奥にたどり着く。
「失礼します」
重厚な扉を開けて、伯爵の部屋に入る。
部屋は、暗闇と静寂に覆われている。
「伯爵様、ハルカ・バークレー、報告に参りました」
挨拶と共に一礼をする。
すると、少年とも少女ともおぼつかない高く澄んだ声が聞こえる。
暗闇の中から聞こえるので場所は分からない。
「ようこそ、ハルカ。だいぶ疲れているようだけど何かあったのかい?」
伯爵は愉快そうにねぎらいの言葉をかける。
「伯爵さまのおおせの通り、すでに【ドラクル教団】との協力を開始しています。近いうちに【ノスフェラトゥ】の巣の位置を特定できるかと思われます」
「それは何よりだ。大金を払った甲斐があったということだね。すでに2億の請求が来ているあたりジョシュ侯は抜け目ないが」
「2億!? やむを得ないとはいえ、大金でしょう」
「いや、些事はともかく大事には影響ない。その程度の金、いくらでも作ろうと思えば作れる。後のフォローが面倒なだけだね」
伯爵は余裕を崩さずにさらっと言った。
「それよりハルカ、今日の報告はそれだけかい?」
ハルカは伯爵にじっと見つめられている気がした。
「いえ、その、重要な報告があります」
「ほう、随分と緊張しているね、ハルカ。それほどの情報か」
「はい。伯爵様は、第1世代という単語を御存じでしょうか?」
ハルカはおずおずと質問をする。
すると、部屋の雰囲気が一変する。
余裕を称えていた空気が、一瞬にして凍りつく。
「第1世代……やはり使徒が絡んできたか」
伯爵は苦々しい口調で言った。
「やはり伯爵様はご存知でしたか。今回の事件、第1世代の吸血鬼が関わっていると思われます。すでにこの街にやってきております」
「すでに侵入済みか……僕の《万象の瞳》に辛うじて映っていたよ」
「侵入してきた第1世代はすでに【ノスフェラトゥ】と交戦しました。そして、あの【ノスフェラトゥ】を5人斬り殺しています、たった1人で」
ハルカは《記憶視》で見た山の上公園での光景を思い出し、身体をわずかに震わせる。
「そうだろうね。第1世代に勝とうなんて僕ら第3世代にだってできやしない。吸血鬼の強さは世代によって決まる。まさにその通りだ」
伯爵はやや自嘲気味に言った。
「伯爵様、第1世代とは何者なのですか? 私は第3世代以降の吸血鬼しか知りません。第1世代や第2世代について意識したことがないとは言いませんが、その存在について何も知りません」
「第1世代か。僕ら【古き盟約】の解釈によれば、『盟約の破壊者』『吸血鬼の殺戮者』といったところだろう。ようは、吸血鬼殺しを専門に行なう強力な吸血鬼だ」
「なぜ吸血鬼殺しを……?」
「それには諸説ある。折角だから一番面白い物を紹介しようか。【不死教会】の連中の解釈だね」
そう言って伯爵の口調は物語を語るような口調に変わる。
「その昔、カインという男がいた。カインは神の呪いを受けて不死になった咎人だ。神が与えた不死とは、カインが犯した罪を贖罪するための無限の時間だ。彼は一体どれほどの罪を犯したのだろうね。
だが、カインはその贖罪の時間に耐えられなかった。自分の罪を償うことなく、贖罪の道半ばでの死を願った
そのために生み出されたのが13人の吸血鬼、すなわち第1世代の吸血鬼だ。『カインの使徒』もしくは単に『使徒』と呼ばれている。
カインは己の不死性を破るために、同じく仮初めの不死を持った13人の使徒を造り出し、彼らに贖罪の道を継がせようとした。つまり、自分の身代わりを作ったわけだ。
13人も作った理由は分からない。彼の罪を受け止めるにはそれほどの人数が必要だったのかもしれないね。
13人の使徒が力を合わせてカインを『殺す』ことで、カインの罪は13分割されて彼らに引き継がれる。そしてカインは無事に死を迎える。そんなシナリオだったのさ。
だが、ことはそう上手く運ばなかった。
13人の使徒の中で裏切りものが出たのだよ。永遠の贖罪を拒む者がね。
まあ、当然だろう。仮初めの不死ならともかく、本当の不死は恐ろしいものだ。そんなものを押しつけられたらたまったものではないからね。
裏切ったのは13番目の使徒。彼はカインを裏切り、カインを殺すことなく姿を消した。
結果、カインは今でも無限の時間をさまよい、贖罪を続けている。
カインは激怒した。
残された12人の使徒に13番目の使徒の追討を命じたのだよ。
12人の使徒達はカインからの手紙に導かれ、今でも13番目の使徒とその仔等を滅ぼす『宴』を続けているのさ。
それが【不死教会】が秘密裏に伝える第1世代の物語だ」
「その仔等とは何者でしょう?」
「決まっている。13番目の使徒の仔等とは、僕らのことさ。
13番目の使徒は他の使徒の追討を恐れた。そのために、沢山のデコイを作ることにしたのさ。
13番目の使徒は13人の吸血鬼を造り出した。
人間の血を吸い尽くした後で自らの血を与える。それが吸血鬼の造り方だ。『死の抱擁』とも呼ぶ。君も知っている話だろう。
13番目の使徒は史上初めて吸血鬼造りをやったのさ。
そうして生み出されたのが13人の第2世代の吸血鬼だ。
彼らはさらに人間を吸血鬼に変え、自らの派閥を作り上げていった。
それが『13派閥』だ。
吸血鬼の数は膨大となり、13番目の使徒の有効なデコイとなったのさ。
ちなみに、派閥の始祖たる第2世代に直接血を吸われたのが僕ら第3世代というわけさ。もう何も覚えちゃいないけどね」
「13の派閥……?」
「その通りだ。今では6大派閥と呼ばれ、7つの派閥は姿を消した。理由は簡単さ。
使徒に滅ぼされたんだよ。
始祖である第2世代が殺された派閥は自然消滅し、他の派閥に吸収される。そうして派閥の数は減っていったのさ。もう7人の第2世代が殺されている計算になるかな。
僕の血を吸った【古き盟約】の始祖もどこかに隠れているはずだよ。知らないけど」
「そして、僕ら第3世代が抱擁して第4世代を造り、第4世代が君ら第5世代を造った。そういう話さ」
そう言って伯爵は大きく息を吐いた。
ハルカは呆然と話を聞いていた。
「これは吸血鬼の間でもトップシークレットな話だ。特に使徒に関することはね。ハルカ、君は踏み入れてしまったんだよ。吸血鬼の世界の深淵に」
ハルカは押し黙った後に、
「何も言えません」
こう言った。
「そうだろうね。あまりにも夢物語すぎるし、リアル過ぎる。何せ今まさにその使徒の刃が僕らに向けられているのだから」
「使徒の刃の脅威は《記憶視》で垣間見ました。おそらく第4世代だろう【ノスフェラトゥ】が瞬く間に滅ぼされていました。第1世代の力とは恐ろしいものでした」
「第1世代の吸血鬼は『咎人の剣』と呼ばれる武器を持っている。その前ではどんな吸血鬼も無力だ。僕がハルカに預けてある『トバルカインの銘具』を強力にしたものだと思って構わないよ」
「それは、強力ですね」
ハルカは懐のナイフにそっと触れた。
「うむ。そうそう、ちなみに第1世代の外見はどんな姿だったかい?」
「美しい少女でした。優美な金髪をたたえ、月光に輝く金色の大鎌を携えていました」
「大鎌の少女……第7使徒だね。【不死教会】の資料にいくらか記述が残っている。まあ、何番目でも関係ないのだけれど」
伯爵はため息をつく。
「だがこれで、僕らが抱えている脅威は確定した。1つは【ノスフェラトゥ】。もう1つは第1世代の吸血鬼だ。どちらも厄介で排除するのが困難な脅威だ」
「そのようですね……これは、とてつもなくまずい状況でしょう」
「しかし脅威が確定したのは重要だ。ハルカ、君はいい仕事をしてくれたよ。見事だ」
「は、ありがとうございます」
ハルカは虚空に向かって一礼をする。
「これは急いで方策を練り直さねばならないな。とりあえず、ハルカは《ノスフェラトゥ》の『巣』の場所を特定してくれ。【ドラクル教団】と一緒に」
「了解いたしました」
ハルカは再度一礼をする。
そして、1つ質問をする。
「しかし伯爵様、第1世代はどうやって我々を見つけているのですか?」
「それは先程言ったようにカインからの手紙だよ。手紙が次の『宴』の場所を教えてくれる。彼らはそこに行って吸血鬼を滅ぼすだけさ」
「なるほど。ということは、隠れても無駄、ということですね」
「そうだ。彼らは手紙の場所にしか現れない。出現は完全にランダムだと思っていい。もしかしたら次の手紙は離れた場所になるかもしれないし、この館になるかもしれない」
「分かりました。それでは、ハルカ・バークレー、【ノスフェラトゥ】探索の任務に戻ります」
「頼むよ、ハルカ。信頼している」
ハルカは三度一礼をすると、扉を開けて外に出て行った。
「第1世代か……まさか本当に来るとはな」
伯爵は呟く。
「第1世代と戦うことは不可能だ。戦力が違い過ぎる。彼らは名前すら持たない、殺戮という現象だ。おおよそ吸血鬼である限り勝ち目はないだろう」
伯爵は天井を見上げ、虚空に指先で三角形を描く。
伯爵は思索を巡らせる。
「貴重な《万象の瞳》を慰みに使うんじゃなかったな。あとはハルカに頼るしかないじゃないか」
そう言って伯爵は立ち上がった。
「さて、使徒の存在を知らない【ノスフェラトゥ】はどう動くのかな。見ものだね」
伯爵はどこへともなく歩き始めた。
◆Ⅶ◆
とある高級住宅街の邸宅。
夜半過ぎに、その館からは大きな物音がしている。
「来るな、来るなっ!」
叫んでいるのは館の主人だ。
彼は人間ではない。【古き盟約】に所属している吸血鬼だ。
《変化視》の能力を使って株式で大儲けしている。普段はその潤沢な資産と権力を背景に、優雅な生活を送っている。
そんな彼が、今まさに恐慌状態に陥っている。
理由は簡単だ。
いずれも吸血鬼である彼の妻と娘が滅ぼされたからだ。
そして、自分も滅ぼされようとしているからだ。
「来るな、来るなっ!」
主人は手当たり次第に物を掴んで投げる。
【古き盟約】の吸血鬼の身体能力は、普通の人間と大差ない。物を投げるくらいしか抵抗する手段がないのだ。
ガシャン
ガシャン
投げた陶器の花瓶が割れ、ガラスのワイングラスが砕け散る。
だが、次の瞬間。
ザスッ
「げっふ……」
館の主人の体は6つに切り裂かれた。そしてそのまま塵と煙になって消えた。
「13番目の仔等に滅びを」
静かに澄んだ声がこだまする。
住人がすべて消えた館には、1人の少女が立っていた。
そして、少女の手には白い封筒と大鎌が握られていた。
彼女の次の獲物は、【古き盟約】か【ドラクル教団】か、それとも【ノスフェラトゥ】なのか……。
◆ノスフェラトゥ◆
空気が濁り湿った暗所。
時間は夜の12時を回った頃合。
十数人の吸血鬼が集合していた。
半分が第4世代で、もう半分が第5世代だ。
人間の姿をしている者もいるが、人間の姿をしていない者もいる。
体中から触手が生えている者、手が1本多い者、身長が3メートルを超える者。
人間離れした姿の者達が少なからず混じっている。
【ノスフェラトゥ】にとって吸血鬼とは化け物だ。
故に化け物の姿をとることに一片の躊躇もない。
化け物らしい行動をとることに一片の躊躇もない。
それが【ノスフェラトゥ】だ。
そして、彼らの前には一際大きな異形の吸血鬼がいる。
身長は4メートルを超えている。
体は紫色の粘液で覆われている。
体毛は一切なく、ところどころ鱗が生えている。
顔も体も筋肉が盛り上がり、大きく歪んでいる。
骨が曲がり、全身から突起として外に飛び出している。
そんな、まさに化け物と呼ぶにふさわしい吸血鬼。
彼こそが【ノスフェラトゥ】の第3世代、すなわち長老だ。
この集団を力で統率する群れの主だ。
長老は十数人の吸血鬼を前に叫びをあげる。
「我らの同胞が滅ぼされた!」
吸血鬼達の間にざわめきが走る。
「何と無念のことよ。我々の巣が完成する前にこのような憂き目に遭おうとは」
長老が憂いを浮かべる。
「ボルトン達か。狩りから帰らぬと思っていたら……」
「い、一体何者が?」
「よくも同胞を!」
吸血鬼達は、ある者は冷静さをもって、ある者は焦燥をもって、ある者は怒りをもって受け止める。
場は一気に喧騒に包まれた。
すると、
「わめくな同胞よ!」
長老が叫びをあげる。
場は静まり返った。
この場では長老の言葉は絶対である。
「敵は【古き盟約】なり。古びた束約に縛られし愚か者共よ」
長老がそう告げた。
「この版図の者共だ!」
「この版図の連中が我らが同胞を!」
「おのれ、古狸共め。よくも!」
【ノスフェラトゥ】達の赤い目に怒りが灯る。
すると、長老が手をかかげ、周囲をなだめる。
そして語り始める。
「しかし、彼らは何の罪を犯していない」
低く厳かな声だ。
「暴力は罪ではない。だから彼らは何の罪も犯していない」
場は再度静まり返る。
「我々は化け物だ。暴力を振るう化け物だ。醜い悪鬼だ」
長老は、2メートルはあろうかという腕を宙にのばす。
「暴力を振るって何が悪い?」
長老は場に問いかける。
反応はない。
「そう、悪いことは何もない。暴力は正義でも悪でもない!」
長老は大声を上げると一気に腕を振り下ろす。
「我々吸血鬼とは暴力そのものなのだ!」
ドシーン
コンクリート製の床が砕け散る。
「人間が恐れる闇。怖れる力。畏れる恐怖! 暴力こそが吸血鬼だ!」
長老の雄叫びが周囲に反響する。
すると、
「「我々は化け物、我々は闇。我々は暴力!」」
静まり返っていた吸血鬼達が唱和する。
「震撼させてやろう、彼奴らを。実感させてやろう、恐怖を。理解させてやろう、滅びを!」
「「滅びを!」」
十数人の同胞が巨大な吸血鬼に唱和する。
「手当たり次第に喰らえ。手当たり次第に殺せ!」
長老の声はさらに大きくなり、反響を繰り返してノイズとなる。
「喰らえ、暴れろ!」
「「喰らえ! 暴れろ!」」
そう叫ぶと、吸血鬼達は一斉に動き出す。
各々が武器をとり、走り出す。
「【古き盟約】を滅ぼせ! 彼奴らの古物語に終わりを!」
長老はノイズ混じりに怒号をあげる。
「征け、同胞よ! この街に暴力と滅びを!」
吸血鬼達は、人間と吸血鬼を狩りに街へと飛び出して行った。
翌日の新聞には、多数の遺体が発見されたという記事が掲載された。
2日後のテレビでは、行方不明者が続出していると報道された。
3日後には、週刊誌でテロリストの存在が示唆された。
【ノスフェラトゥ】の狩りが、本格的に始まった。
◆兄妹Ⅲ◆
巷では物騒な事件が起きている。
連続殺人に大量の行方不明者。
学校は集団登校を決め、夜の街からは人がいなくなった。
そんな中でも、人間は恋をする。
たとえ報われなくても。
とある平日の夕方。
学校の廊下を2人の女子が歩いている。
1人は髪を後ろにまとめ、上げている。
もう1人は髪を肩口で切り揃えている。
2人とも綺麗な黒髪で、可愛らしい容貌をしている。
2人並んで歩いていると、通り過ぎる男子が必ず振り返るほどだ。
そんな2人は足並みを揃えて歩いているが、不思議と会話はない。
無言のまま廊下を抜け、階段を登る。
そして扉を開ける。
到着したのは屋上だ。
この学校、城賀東高校は屋上への立ち入りを禁止していない。
ただし、極めて風が強く、夏でも寒いくらいなので立ち入る生徒はほとんどいない。
立ち入るとしたら、授業をサボるか密会をする時くらいだろう。
そして、今回の女子2人は、どちらかというと後者のために屋上に来ていた。
扉を開けると、予想通り強い風が吹き付けてくる。
髪を切り揃えた女子は一瞬躊躇するものの、すぐに屋上へと踏み出す。
その様子を見て、髪を上げた女子も歩みを進める。
屋上には簡素なフェンスがあるだけで、他には何もない。
2人はとりあえず真ん中まで進み、歩みを止める。
そしてしばしの後に、会話を始めた。
「あ、あのね、さっきも言ったけど、空佳ちゃんに相談があるの」
「相談……ここまで来るってことは大切なことですよね。相談相手が私なんかでいいんでしょうか?」
そう空佳は返答した。
「この、この相談は空佳ちゃんじゃないとできなくて」
「でもクラスも別ですし。蛍ちゃん、他の人には相談されました?」
その質問に蛍は首を横に振った。
「やっぱり、この相談は空佳ちゃんじゃないとダメだと思って……」
「そうなんですね。分かりました。私にできることならなんでも聞きましょう」
空佳にとって蛍は隣のクラスの知り合いだ。友人というほど親しくはない。
ただ、彼女は兄の親友の妹だ。無下に断るわけにもいかない。
なので、空佳は蛍の頼みに大きく頷いた。
「じ、実はね……私、好きな人がいるの」
「好きな人……?」
空佳がじっと聞き返す。
「ちゃんと言うと、好きかもしれない、人なんだけど……」
「恋愛の相談でしたか。私で大丈夫でしょうか」
「空佳ちゃんじゃないと、ダメなの」
蛍は少しだけ必死な表情になる。
一方、空佳は困惑したままだ。
「どうしえ私じゃなければ?」
「そ、それは……」
蛍は言いよどむ。
「それはね、わ、私の好きな人が空佳ちゃんと親しいから、なの」
「私が親しい人……」
空佳はクラスの男子を何人か思い浮かべる。
空佳は友達が多いわけではないが、少ないわけでもない。よく話す男子には数名心当たりがあった。部活や委員会には参加していないので、先輩には心当たりがない。
「ちなみに、誰ですか?」
空佳は迷った末に、率直に訊いた。
このままでは日が暮れてしまうと思ったからだ。
最近は物騒なのであまり遅くはなりたくない。
この相談のために兄は先に帰ってしまった。
ただ危ないので、兄に迎えに来てもらう必要があるかもしれない。
そんなことを空佳が考えていると、たっぷりと時間をかけてまごまごしていた蛍がようやく重い口を開く。
「か、カズヤさん……なの」
「カズヤさん? うちのクラスにいたかな」
「ち、違うの。お兄さん。空佳ちゃんのお兄さん、のこと」
「え?」
空佳はきょとんとした。
「そう、空佳ちゃんのお兄さんのカズヤさんのことが、好き……な気がするの」
蛍の表現は少し曖昧だ。自分でも確信は持っていないのかもしれない。
「だからね、カズヤさんのこと、一番知ってる空佳ちゃんに相談、してみたの」
蛍はおずおずと言う。
「カズヤさん、どんな髪型の娘が好みかな、とか。どんな服の娘が好みかな、とか」
蛍は少し頬を赤らめている。
「もし知ってたら、教えて欲しいなって思って……」
「え、えーっと」
空佳は戸惑っていた。
兄が生まれてから16年と少し。兄に好意を向ける異性など、家族を除いていなかった。
その兄に興味を持つ女性が現れたことに空佳は少しばかり衝撃を受けていた。
「うちのお兄ちゃんの、どこがいいの?」
空佳は訊いてみた。
「えっと、その優しいところとか。昔からよく兄さんと一緒に遊んでくれたの」
カズヤ、マコト、蛍の3人はよく一緒に遊んでいた。
友達がいる空佳と違い、友達づきあいが苦手な蛍は兄のマコトにくっついて遊んでいたからだ。
「最近、背も高くなって、もっとカッコよくなって……」
蛍はうつむいて、さらに顔を紅潮させる。
「いいな、って思ってるの……」
「そ、そうなんだ」
空佳はそんな言葉しか返さなかった。
空佳は、カズヤが優しいことを知っている。
昔からずっと空佳のこと見てくれていたし、両親が亡くなった時も必死で支えてくれた。
空佳は、カズヤがカッコいいことも知っている。
カズヤは高校に入ってから身長が一気に伸びて、今や180センチもある。顔つきも精悍になり、少しヒゲも生えるようになった。誰よりも近くで見ているから分かる。
「だからね、教えてほしいの。カズヤさんの好みのタイプとか、髪型とか。空佳ちゃんなら知ってるかも……そう思って」
2人の話は意外と時間がかかっていた。
気づけば外は大分暗くなっている。そろそろ校舎の閉門も近い。
騒動も多く、帰り道も危ない。
そんな時間が押し迫る中、空佳は確信を持っていた。
蛍はカズヤの、兄の好みのタイプだと。
普通ならここでそれを伝えて一緒に校門を出るのかもしれない。
だが、空佳はここで話を終わらせることにした。
「うーんと、ちょっと困ったかもしれません。そう急に言われても」
「そ、そうだよね」
「それにもう大分遅くなってしまいました。日も落ち切ってしまいましたし、閉門前に帰りませんか?」
空佳は話を中断させて、帰宅を提案した。
これ以上この話はまずい。なぜかそう思ったからだ。
それに、本当に暗くなってきている。
太陽は半ば以上沈んでいる。
照明のない屋上は暗く、路街の照明に間接的に照らされているだけだ。
1時間以上この屋上にいた計算になる。
厚手の服装をしているとはいえ、いい加減体も冷えてきている。
帰り道の安全も危うい。
「そうだね。今日は、帰ろう。ありがとう、相談に乗ってくれて」
「いえ、私は何も」
そう言って2人は屋上の入口に歩いていき、空佳が扉に手をかける。
ガチャ、ガチャチャ
「あれ、あれれ」
「どうしたの、空佳ちゃん?」
「鍵が開かなくて……」
「えええっ?」
蛍はびっくりして声をあげる。
「ど、どうなってるの? まだ閉門前だよね?」
たしかに、まだ校門が閉められるまで1時間弱はある。
「あれ、これ……」
そこで空佳は気づく。
「鍵が開かないんじゃない。ドアノブが、歪んでる……?」
よく見ると、金属製のドアノブが捻じれて、回らないようになっている。
「一体、どうやったらこんなことになるのかしら」
「わ、私達以外、誰もいないよ?」
「金属疲労か何かかも?」
空佳は何となく理由付けをしてみた。
しかし違った。断じて金属疲労などではなかった。
「しょうがない。携帯で連絡をとりましょう」
そう言って空佳は携帯電話を取り出す。
そして慣れた手つきで兄の電話番号を呼び出して電話をかける。
バキッ
「あれ? かからない」
空佳は不思議に思った。
携帯電話はつながらないどころか、ツーツーという電子音さえしない。
自分のがダメなら蛍の携帯で。そう思って空佳は蛍の方を向いた。
すると、蛍の表情が大きく歪んでいた。
一言で言うと、蛍は『戦慄』していた。
「何、どうかしました?」
空佳はその表情に驚きつつ、言葉をかける。
「け、けいた、い……」
「そう、携帯がつかえなくて」
「ちがうの、けいたい、が」
そこまで言われて空佳は自分の携帯電話を見る。
すると、携帯電話から白い何かが飛び出していた。
メキッ
さらに、もう1本白い何かが生えてきた。
空佳は携帯電話から手を放す。
しかし、携帯電話は落ちなかった。白い何かに支えられて。
「う、うしろ……」
蛍が息を限界まで詰まらせながら呟く。
空佳は白い物を目で追っていく。
最後まで見終えると、長く伸びたそれは象牙に似ていた。
ただし、指の先から生えている点を除けば。
白く長く大きく、鋭い爪が2本、携帯電話を貫いていた。
「ひぃ」
蛍は呼吸の仕方を忘れたかのように喉を抑え苦しむ。
空佳は爪の先から今度は腕を、そして全身をのぞく。
そこにいたのは、身長4メートルはあろうかという化け物だった。
全身が紫色の粘液に覆われ、体毛の代わりに鱗が生えている。
両手の爪は象牙のようにのび、全身の筋肉は盛り上がって歪んでいる。
さらに化け物は大きく口を開ける。
サメのように口の周りいっぱいに生えた派の隙間から緑色の粘液が零れ落ちる。
そんな化け物が、2人の前に立っていた。
「あ、ぁぐ……」
化け物の口から緑色の粘液が零れ落ちると、周囲は瞬く間に悪臭に包まれる。
蛍は息ができずに顔が紫色になっていき、
バタッ
ついには気絶して地面に伏した。
化け物は蛍の気絶には気にも留めない。
爪の先に持った携帯電話を面白げに眺め、そして両手の爪でグシャリとつぶした。
「やはり狩りは自分でやるに限る」
厳かで低い声が黄昏時の屋上に響き渡る。
空佳はぽかーんと、ただ化け物を見上げている。
悪臭は気になるが、それ以上のリアクションがとれない。
「アベルの子よ、どうかね。今宵の調子は」
化け物は愉快そうに空佳に笑いかけながら、蛍に爪を伸ばす。
だが、そこで空佳は1つの単語を思い出す。
「吸血鬼……?」
家に押しかけてきた警察官が言っていた言葉だ。連続殺人は吸血鬼の仕業だと。
すると、化け物はぴたりと動きを止める。
「なぜ我らのことを知っている? 面白いことだ」
そして蛍に向けていた爪を空佳に向けなおす。
「では、吸血鬼の前に立ったアベルの仔等の運命を知っているかね?」
空佳は流石に恐怖で動けない。
「血を吸われるのだよ。一滴残らずな。そして我らは仮の不死を得る。それがカインの仔等の宿業なのだよ」
化け物はゆっくりと爪をのばし、空佳の顔を覆う。
「しかし、汝は面白い。なにせ我らのことを知っている。【古き盟約】の関係者か? 【ドラクル教団】の構成員か? 【進化の環】の信奉者か?」
化け物は両の手の爪で空佳の顔をすっぽりと包んだ。
「何でもいい。これだから狩りは楽しい」
愉快そうに嗤ったあげく、化け物は告げた。
「汝は好い。非業の不死を汝に与えよう」
空佳の体はぴくりとも動かない。声すら出せない。
そんな空佳の体躯に、ゆっくりと爪が突き刺さっていく。
痛みはない。
むしろ、突き刺さるごとに何かを感じる。
血液が溢れ出るごとに、違う自分が現れていることを感じる。
やがて10本の爪は完全に空佳を貫き通す。
血液がこぼれ、爪に吸われていく。
代わりに爪から何かが体に送り込まれてくる。
空佳にはそれが何か分からない。
「私は、私は……?」
やがて空佳だった者からゆっくりと爪が引き抜かれる。
空佳だった者はそのまま動かない。
意識が遠のいていく。
その薄れゆく意識の中で見たものは、大きな翼だった。
化け物の背中に巨大な翼が現れる。
化け物は右手に空佳だった者を、左手に蛍を掴む。
そして、翼をはためかせて飛び上がる。
そんな馬鹿な、そう空佳だった者は思った。
だがそんなことを考える余裕などなかった。
空佳だった者の意識はここで途絶えた。
「さあ、今宵の狩りもまた享楽の極みであった。新たな暴力の始まりよ」
誰も聞いていない夜空で【ノスフェラトゥ】の長老は叫ぶ。
「【古の盟約】よ、待つがいい。新たな暴力を!」
長老は2人を抱えたまま、飛び去って行った。
屋上に残されたのは、壊れた携帯電話ただ1つだった。
◆吸血鬼Ⅴ◆
日が落ちた国道。
そこを1台の車が走っていた。
臙脂色のセダンだ。法定速度を守り、時速50キロ程度で走行している。
本来ならば混雑しているだろう道だが、度重なる殺人事件と行方不明事件のせいからか、車通りは多くない。
やがて車は国道を出て、一般の道路に曲がって行く。
そして幾度か曲がり進んだところにある公園の入り口で、車は停まった。
公園の入り口には1人の女性が立っていた。
バタン
車が停まると、女性は助手席の扉を開けて、車の中に入ってくる。
「こんばんは、アンリエッタ。今夜もまだ冷えますね」
「こんばんは、ハルカ。そうね。まだ陽気は遠いかしら」
2人は挨拶をかわす。
ハルカの服装はいつも通りマニッシュなスーツ。色はダークグレーだ。
一方のアンリエッタはピンク色のワンピースに、水色のデニム地の上着。調査よりもデートに向いている服装だ。靴がミュールなのでなおさらだ。
ガチャリ
ハルカがシートベルトを締める。
それと同時にアンリエッタはブレーキを離して車を動かし始める。
そして、そのまま国道に戻って勢いよく車は走って行く。
そんな中、ハンドルを握っているアンリエッタは話を切りだした。
「ハルカ、今までの調査から場所の検討はついた?」
「いくつか候補は挙げられますが、確定はできないです。やはり夜だと相手の動きも活発化していて……」
「悪いわね。私、魔術は夜しか使えないの。昼間に《捕捉の占術》が使えればもっと話は早かったのに」
「いえ、アンリエッタの責任ではないです。むしろ、ここまで絞れたことを良しとしましょう。候補は5か所です」
「あ、でもそこまで絞れたんだ?」
「はい。彼らは徒党を組み、無秩序に人々を襲っています。ですが、無秩序故に、必ず趣味嗜好が出てきます。繁華街が好きな者達、人気のない場所が好きな者達。そこには法則性が生まれてきます。それに無秩序とは何も考えていないということ。行動半径も割れます。それだけの情報で、ある程度は『巣』の位置を絞ることができます」
「ふーん、なるほどね。それじゃ、ちょっと覗きにいってみましょうか? その候補地の1つを」
「それは危険です。万が一長老にでも会ったりしたら……」
「それなら、一番確率が低そうなところに行きましょう。このまま調査を進めても、1か所に限定するのは難しそうだし」
「しかし、いやしかし……」
「虎穴に入らずば虎児を得ず。行ってみましょう」
ハルカは悩むが、アンリエッタはもう決めたようだ。
「はい、地図。どこかナビゲーションしてね」
そう言って城賀市の地図を投げ渡す。
「……分かりました。ですが、無理はなしでお願いします」
「無茶はありで無理はなしね。了解よ」
アンリエッタはアクセルを踏み込んで車を加速させた。
1時間後。
アンリエッタは車を停めた。
「ここね、城賀ダムは」
吸っていたタバコを灰皿に押し付けながらアンリエッタは車を降りる。
「ここは一番確率が低い候補地です。【ノスフェラトゥ】が潜むには最適ですが、人里から離れすぎています。ただ、いくつかのグループがここを拠点にしている節があります」
ハルカも車を降りる。
ちなみに車のライトは付けっ放しだ。ダムには照明がなく、ハルカの夜目には暗すぎる。
アンリエッタとハルカはゆっくりと歩き出す。
2人が歩いているのは、中規模のダムの上だ。
少し歩を進めて見下ろせば、10メートル下に小さな湖が広がっている。
「どうしますか。少し辺りを探索してみましょうか?」
「その必要はないでしょう」
彼女はそう言って懐からタバコを1本取り出した。
そして火をつけることなくハルカに差し出す。
「お守りよ。持っておいて」
「お守り……?」
「戦いで役に立つわ」
ハルカは不思議に思いながらも、タバコを胸ポケットにしまう。
「そんな、まだ戦うと決まったわけではないでしょう。様子を見て帰るだけでも」
そんなハルカの言葉に、アンリエッタはあっさりと答える。
「もう見つかっているわよ。あいつら鼻がきくもの。こんなにヤニ臭いのに気が付かないわけないわ」
「……」
こんな場面ではあるが、その物言いにハルカは少し呆れてしまった。
何てことはない。アンリエッタは最初から敵を誘き出して交戦する気満々だったのだ。
「あなただって戦えないわけじゃないでしょう。その身のこなし、武術で鍛え抜かれているもの」
アンリエッタはハルカの全身を眺めながら言う。
「それに、あなたの懐のナイフ。それがあるじゃない」
「……」
ハルカは無言で応える。
そんな様子で2人が会話していると、暗闇から音が聴こえる。
車のライトに照らされながら、4人の男がツカツカと近寄ってたのだ。
「ほら、来たわよ。1、2、3、4人ね。見たところ長老はいないみたい。よかったわね。予想通りはずれで。異形化してる連中もいないし」
「それは救いですね。まったく」
4人の男はニヤニヤしながら、ゆっくりと2人を囲んでいく。
自然に、ハルカとアンリエッタは背中合わせになる。
「お嬢さん方、こんな夜中にドライブかい? 逢引きかい? それはいけないなあ。いろんな意味でえ」
しゃがれた声で男の1人がしゃべる。
「女同士でつるんでないでえ、俺らと遊ばないかあ? 楽しいぜえ?」
そう言いながらゆっくりと近づいてくる。
「1人あたり2人でいいでしょう。健闘を」
「そんな無茶な!?」
アンリエッタはハルカに言い放つと、タバコを取り出してしゃべっている男に近づく。
「一服どうかしら?」
「ほうう、タバコかあ。メインの前の前菜だなあ」
そう言って男はタバコを受け取る。
他の男3人とハルカはその様子を見守っている。
すると、アンリエッタは続けてこう言った。
「それと火はいかが? 燃え尽きない大きな炎を受け取って欲しいのだけど」
「頂こう。くれえ」
男はタバコをくわえてライターなりマッチなりを待つ。
だが……、
パン
その言葉を聞くと同時に、アンリエッタは両手で拍子を打った。
そしてこれ以上ないほどの酷薄な笑みを浮かべて言い放った。
「契約は成立したわ。《火葬》の時よ!」
その言葉を言い終えるや否や、
ゴオオオオ
タバコを受け取った男は一瞬で炎に包まれる。
「う、ぎゃい、あつ、あつい、もえるう!?」
業火は瞬く間に全身に回り、男は火だるまになる。
「な、なんだ一体!?」
「こ、これは……」
「こ、こいつら、吸血鬼だ!」
残る3人に動揺が走る。
吸血鬼は不老不死だ。寿命で死ぬことは決してないし、毒や病気で死ぬこともない。
体も丈夫で、日本刀で両断されたり車に跳ねられても簡単に滅びはしない。
だが、吸血鬼を殺す方法が3つだけある。
そのうちの1つが炎だ。
吸血鬼にとって炎は日光と同様に作用する。火葬された吸血鬼は塵と煙になって消え失せてしまうのだ。
ただし、ロウソクやキャンプファイヤー程度の炎では吸血鬼を滅ぼすには火力が足りない。もっと大きくて消えにくい炎が必要なのである。
「うぎゃひぃ…た、たすけて、え!?」
炎に包まれた男は足元をふらつかせながら苦痛に悶える。
「飛び込め! ダムに飛び込むんだ!」
他の男が助言をする。
「う、うおぉぼお!」
火だるまの男は喰らいダムからダム湖に身を躍らせる。
真っ暗で何も見えなかったダムの底に明かりが灯る。
そして男は湖に落ちる。着水音が聞こえる。
バシャバシャと水をかく音も聞こえる。
だが、明かりは消えなかった。
「なん、だと……?」
残された男達の間に再度驚愕が走る。
「言ったじゃない燃え尽きない炎をあげるって。人の話はちゃんと聞かないとダメよ」
アンリエッタは笑いながら言った。
「くっそお、手前ら【古き盟約】の吸血鬼だな!?」
「ちがうけど、そうよ」
アンリエッタが答える。
「生きて帰れると思う、なよ!」
そう言うと、男のうち2人の躰がボコボコと盛り上がり、体が一回り大きくなる。
筋肉が大きく盛り上がり、体が歪んでいく。
ハルカは、これが【ノスフェラトゥ】の能力|《剛力》であることが分かった。山の上公園での《記憶視》で見たからだ。
ただし、その時ほど敵の筋肉は盛り上がっていない。おそらく目の前の敵はハルカと同じ第5世代。能力が限定的なのだ。
「どくらえやぁ!」
筋肉を隆起させた男が1人、ハルカに殴りかかってくる。武術もへったくれもない、力任せの一撃だ。
「くっ!?」
ハルカは攻撃を見て、左右の足でバックステップを踏む。
物凄いスピードで振り下ろされるその一撃を、ハルカは辛うじて避けた。
ミシミシ
避けた一撃は宙をきり、地面のコンクリートに激突して大きくヒビが入れる。
「まともに受けたら骨どころでは……」
「潰して、肉塊にして、喰らい尽くしやる!」
ハルカの背筋に悪寒が走る。
今のハルカには、【ノスフェラトゥ】が恐れられる理由がよく分かる。
彼らはただ単に暴力に優れているのだ。
殴るだけで相手を殺すことができる。それが何よりも恐ろしい。
「一体、【ノスフェラトゥ】相手にどうしろと」
彼女は相棒に恨み言を呟いた。
一方その頃、もう1人の筋肉を隆起させた男は、アンリエッタに殴りかかろうとした。
「仲間の仇だっ!」
剛腕がアンリエッタの華奢な体めがけて振り下ろされる。
その一撃が当たればアンリエッタの体など一瞬で押しつぶされるだろう。
だが、その瞬間アンリエッタがタバコを取り出す。
「く、くぬ……」
すると、男は焼かれるのをおそれ、一瞬後退してしまう。
その様子を愉快気に見ながら、アンリエッタはタバコをくわえる。
ライターを取り出して火をつける。
間合いをとった敵を尻目に、のんびりとタバコをふかす。
「さて、ハルカはどうしているかしら」
煙を吐き出しながら呟いた。
「死ね、死ねぇ!」
男は両腕をぶん回しながら、ハルカを追いかけ回す。
《剛力》の利点は破壊力だけではない。脚力も強化されて移動スピードも向上している。
武術を修得しているハルカでも攻撃をよけるのに精いっぱいで間合いをとらせてもらえない。
「打つ手が、ない……」
相手の懐に入れば奥の手が使えるのだが、相手のリーチの方がはるかに長い。真っ当な方法では間合いに入る前にミンチだろう。
そして、ハルカは次第に追い詰められていく。
攻撃は当たらずとも、徐々に体力と集中力を削られていくのだ。
最初は難なく回避していた攻撃が、今は紙一重だ。
そして、ついに……、
ビリリ
スーツの袖が破られる。剛腕が腕をかすめたのだ。
「そらそらそらーーっ!」
男は調子に乗って攻撃を繰り出してくる。
袖、背中、足、ベルト……攻撃をかわしきれずに、次々と服が引きちぎられる。
このペースで行くと、その腕が肉体に及ぶのも時間の問題だろう。
「やむを得ませんね……」
ハルカはそう決心した。
逃げていたら死ぬだけと、腕が振り下ろされた瞬間逆に飛び込む!
背中を剛腕がかすめ。
しかし、その勇気によって相手の間合いに入った。
だがしかし、その瞬間にハルカの前が塞がれる。
剛腕をくぐったその先には、丸太より太い足が待ち受けていた。
「しま、……たっ!?」
「バカがッ!!」
ハルカは死を覚悟した。
ここで一撃をもらっても死にはしない。
だが、アンリエッタも敗れれば、朝まで放置されて太陽に照らされて終わりだ。
この人生40年余り、良いこと悪いこと沢山あった。
忘れてしまった記憶も多いが、その感情だけは残っている。
吸血鬼になってしまった自分。
吸血鬼として生きた自分。
後悔はあるようでない。
それが終わりというものだ。
ハルカはそう覚悟した。
だがその時、
ポロリ
胸ポケットからタバコが落ちた。
お守りだ。
タバコだから当然よく燃える。
男は、よく燃えるだろうタバコを見て、足を出すのを一瞬ためらった。
運命は傾いた。
「そこです!」
一瞬だった。
ハルカは男の懐に潜り込む。
そして、一息でナイフを抜き、男に突き刺す。
黒塗りの細長いナイフは、男の胸に深々と突き刺さった。
だが、足りない。
ドガシッ
一瞬躊躇した男の蹴りがハルカを吹き飛ばす。
「なんでぇ、ただのタバコじゃねえか。ビビらせやがってよう!」
ハルカはざっと10メートルは吹き飛ばされた。
ハルカの体感だと、おそらく肋骨を何本か折られている。
もう戦いは終わっていた。
「大体、この程度の刃物で【ノスフェラトゥ】に刃向おうなんざ愚かにも程があるぜ」
そう言って男は胸に刺さったナイフを抜こうとする。
だが、ナイフは抜けない。
「んん?」
男はもう一度力を込め、《剛力》で強化された力を込め、ナイフを引き抜こうとする。
だが、ナイフは抜けない。
「ちっ、何だってんだ」
男は腹立たしげにつ呟く。
すると、ハルカがゆっくりと立ち上がる。
「あぁ? まだやるってのか? どうせ死ぬのによぅ」
男は太い腕をハルカに向ける。
しかしハルカはひるまなかった。
ハルカは叫ぶ。
「我が名はトバルカイン! 其の銘名を以って鉄杭を穿たん!」
圧倒的な言霊がその場を支配する。
その言葉に応じて、ナイフが姿を変える。
鉄の杭へと。
長さ1メートルはあろうかという、直径5センチはあろうかという鉄の杭に姿を変える。
男の体に刺さった鉄杭は、男の体に呑みこまれるように突き進む。
「な、な、なん、だと!?」
男は鉄杭を掴んで止めようとするが、鉄杭の侵入は止まらない。
やがて鉄杭は男の体を貫通した。
「うごふっ」
そして、体を完全に貫いたとき、男の体はまるで石になったかのように硬直して。
パラパラパラ
塵と煙になって消え失せた。
吸血鬼を殺す第2の方法、心臓に杭を打ち込む。それをハルカは実行したのだ。
「げほっ」
ハルカは息を大きく吸いこんで何とか呼吸を整える。
「切り札は最後まで取っておくものですよ」
怪我をしながら呟いた。
鉄杭は、いつの間にかナイフに戻っていた。
「やはり、あのナイフは『トバルカインの銘具』でしたか」
アンリエッタは呟く。
「く、くそう……」
タバコを恐れて近づけず、タバコの煙に覆われた男は動けない。
目の前ですでに2人が殺されている。
彼はどう判断していいのか分からなかった。
故に、
「ここは、逃げるが勝ちだ!」
逃げ出す道を選ぼうとした。
だがしかし、それはできなかった。
周囲を覆うタバコの煙が彼の行く手をはばんでいた。
「あなたはタバコが燃えると思っている。燃えた煙を恐れている。もう逃げられない」
アンリエッタはタバコを吐き捨て、足で踏み消す。
そして次のタバコを取り出して火をつける。
「さようなら、哀れな【ノスフェラトゥ】さん」
夜のダムに、また1つ明かりが灯った。そして、程なくして消えた。
湖の明かりもまた、既に消えていた。
20分後。
ハルカとアンリエッタは車の中にいた。
すでにダムは離れた。林道の一角、「城賀ダム公園」という場所に車を停めている。
「アンリエッタの《炎の魔術》が強力なのは理解しました。ですが、せめて事前に私に作戦を教えておいて頂きたかった!」
ハルカは少し怒った口調でアンリエッタに迫る。
「おかげで酷い目にあいました」
お腹に巻いた包帯の上から傷をさする。
服も切り裂かれてズタボロだ。
一方、アンリエッタは傷ひとつない。今も穏やかにタバコを吸っている。
「私の魔術は強い。だけど、騙し討ちに近いことをしないと勝てないの」
アンリエッタは言い訳を始める。
「騙すなら味方からって言うでしょ? 騙すとは言わなくても黙ってるくらいは必要よ」
「ですが……」
「あなたに渡したタバコはただのタバコ。でもお守りになったでしょう? 魔術なんてそんなものよ。むしろそれこそが魔術の神髄。契約と裏切りが魔術よ」
「でも、何となく納得がいきません」
「でも、ハルカも『トバルカインの銘具』のことを隠していたじゃない」
「それはそうですが……」
「どうしてハルカがそれを持っているのか気になるわ。『トバルカインの銘具』は【不死教会】が厳重に管理している神秘のアイテムよ? 普通なら【不死教会】が手放さないもの」
「これは、このナイフは伯爵様よりお預かりしています」
「ふーん、ずいぶんと伯爵様に気に入られてるのね。普通の領主なら、【不死教会】からの貴重な流出品をたかが第5世代に預けたりしないわ
「そうでしょうか?」
「そうよ。絶対」
アンリエッタは断言した。
「さてと、お互いに黙ってたことがあるわけだし、和解しましょう」
「そうですね。申し訳ありません」
「じゃあ、これ、仲直りの印♪」
そう言うと、アンリエッタはゆっくりとハルカに近づく。
そして、
チュ
アンリエッタはハルカに口づけをした。
「ん……!?」
ハルカは咄嗟のことに反応できなかった。
「仲直り♪」
アンリエッタはすぐに離れた。
「な、な、な……」
ハルカはリアクションが上手く取れない。
「それより、気になるのは最後の1人ね」
そんなハルカを気にせず、アンリエッタは話を切りだす。
「現れた【ノスフェラトゥ】は4人。倒したのは3人。1人逃したわね」
「そう言われれば……」
「おそらく敵は【古の盟約】と本格的にことを構えるわね。戦争とは言わないまでも、戦いが散発するわ」
「たしかに……それはそうですね」
「私達の戦いは始まったばかり。頑張りましょう♪」
アンリエッタは愉快そうに微笑んだ。
ハルカは戸惑いの表情しか浮かべられなかった。
◆ノスフェラトゥⅡ◆
「また我らの同胞が滅ぼされた!」
城賀市に来たとき、彼らは20人だった。
だがすでに、半数近い8人が殺されている。
「敵は明白だ。【古き盟約】どもに暴力を、滅びを!」
長老が低く雄叫びをあげる。
「しかし、我々【ノスフェラトゥ】を退ける【古き盟約】の者など聞いたことがありません。一体何者が?」
1人の第4世代の吸血鬼が疑問を言った。
「み、観ました。この目で」
すると、1人の第5世代の吸血鬼が言った。
「ガストン達3人と一緒に狩りを終え、ダムに行ったところで2人組の吸血鬼に遭遇しました。2人とも女で、片方は炎を使ってガストンを火だるまにしていました」
「もう1人は?」
「よくわかりません……私が、逃げ出したので」
ザクッ
「そうか。死ね」
第5世代の男が答えられなかった瞬間、長老の爪が伸びる。
象牙のように鋭い爪が男の胸を貫き、そして体を抉り取る。
「無能なる者は暴力にまみれて死ぬがよい」
【ノスフェラトゥ】は怒りを肯定する。哀れな男は怒りに任せた暴力で塵と煙になった。
長老は残り10人になった目の前の吸血鬼達に告げる。
「彼奴等がここを嗅ぎつけるのも時間の問題だろう。その時教えてやるのだ」
長老は伸ばした爪を元に戻す。
「誰が強くて、誰が弱いのかを!」
【ノスフェラトゥ】の狩りはまだ終わらない。
「それまでは狩りにいそしむがいい!」
「「うぉぉぉ!」」
残った10人の吸血鬼達が呼応するように叫ぶ。
11人目の吸血鬼は、まだ眠っている。
自分を探してくれる人に気付かずに。
◆Ⅶ◆
カズヤは満月の浮かぶ夜の街を自転車で走っていた。
夜10時を回っても空佳が帰ってこない。
マコトに電話したら、彼の妹も帰ってないらしい。
2人は迷わず警察に連絡し、捜索願を出した。
時勢も時勢だけに、警察はすぐに捜査を開始してくれた。
当然、カズヤにはじっとしているようにとの指示が出ている。
だが、そんなことは無理だ。
カズヤは警察の指示を無視して、夜の街へと飛び出している。、
夜の街は寂しい。
元々城賀市の夜は静かなものだが、連続する事件のせいか、さらに静かだ。
カズヤはかれこれ自転車を使って2時間以上走り回っているが、自分以外の人間と一度も会わなかった。
「どこにいるんだ空佳……」
手掛かりはある。
空佳の携帯電話だ。
高校の校舎の屋上に空佳の破損した携帯電話が落ちていたらしい。
ただし、屋上の扉が開かないように「外から」壊されていたにも関わらず。空佳の姿はなかった。もちろん飛び降りた形跡もない。
何者かが空佳の携帯電話を屋上に置いたとして、その何者かはどうやって屋上を出たのか分からない。
ある種の密室トリックだ。警察も判断に困っているだろう。
だがカズヤには、そのトリックの謎が解けていた。
「間違いない。吸血鬼だ」
偶然知ってしまった世界の闇。彼らなら屋上から姿を消すなど容易だろう。
自分も山の上公園で襲われかけた。
その後、警察を名乗るハルカという女性から説明を受けた。
「この街の事件の原因は全部吸血鬼だ。空佳も吸血鬼に襲われたんだ」
カズヤは呟きながら自転車を走らせる。
そもそも自分が行って吸血鬼をどうにかできるわけではないのだが、そんなことは気にしてられない。たった1人の家族を守りたい、その一心で走り回っていた。
「俺もさらわれた後、人のないところに連れて行かれた、きっと空佳もそうなんだ」
カズヤは人気のない公園を片っ端から回っていた。もちろん山の上公園にも行った。
そして、最後に城賀ダム公園にやってきた。
ダム公園といっても、城賀ダム近くの広場にベンチがあるだけの場所である。
明かりはわずかな街灯と満月の明かりだけだ。
人の気配はしない。
「ここもはずれか。空佳……」
カズヤは歯ぎしりをする。
だがその時、
カサっ
草木をかきわけて誰かが近寄ってくる音がする。
カズヤは身構えて言い放つ。
「誰だっ!」
「け、せっかくの獲物が男かよ。つまらねーなー」
「まあ、いいじゃない。押し込み強盗しなくてすんだわけだし」
現れたのは男女のカップルだ。
年齢は30台だろう。
一見すると、逢引き最中の夫婦か恋人同士だ。普通のことである。
だが、カズヤには分かった。彼らが人間でないことが。
暗闇に灯る赤い目。獲物という言葉。カズマは確信をもって言った。
「吸血鬼……」
その言葉を聞くと、2人組は驚愕の表情を浮かべる。
「おいおい、こいつ知ってやがるぜ」
「びっくりだわ。私達の存在を知ってるなんて」
2人はゆっくりとカズヤに近付いてくる。
カズヤは恐ろしかった。連続殺人事件の犯人共だ。
だが、カズヤはひるまない。
「妹を、空佳をどこにやった?」
相手を睨み据えてそう言った。
「空佳? 知らねえな」
「誰よそれ。あなたの恋人?」
「俺の妹だ。夕方から行方不明になっている」
「さあ、どっかで男としけこんでんじゃねぇの?」
男は軽口を叩く。
「空佳はそんな子じゃない、昨日の夜、お前らがさらったんだろ?」
カズヤは決めつけて言った。
すると、女から意外な言葉が聞こえる。
「そういえば……今日の夕方、長老が2人の女の子を狩ったって言ってたわ」
その言葉にカズヤは食いつく。
「2人? 空佳と蛍ちゃんのことか!」
「そんなの知らないわよ。喰らう相手の名前なんて興味ないわ」
「まったくだ。餌に名前はいらねぇ」
そんな2人の言葉を気にせず、カズヤは問いかける。
「2人はどこにいる? 無事なのか!?」
もはや相手が誰でも関係ない。
カズヤは強く言葉を発した。
「さあね、俺達の知ったこっちゃない」
「それより自分の心配をした方がいいわよ、坊や」
女がカズヤに近づいてくる。
カズヤはじりっと下がろうとして、
ドシン
背中から突き飛ばされた。
カズヤは地面に倒されながら、振り向いて背後を見る。
すると、正面から近づいてきたはずの女が、カズヤの真後ろにいた。
「何? 逃げる気だったの? 私達の《瞬動》の前では、人間の足どころか自動車だって無力なのに」
カズヤは理解した。
この女が何らかの手段を用いて、一瞬でカズヤの背後に移動したのだと。
カズヤは、この2人が山の上公園で見た化け物と同じくらいヤバいと感じた。
だが、ひるまない。
「妹はどこだ! 場所を教えろ!」
服を泥で汚しながら立ち上がり、叫ぶ。
「ひゅー、まだ言うかい。普通なら怯えてもいい頃だと思うぜ」
「余程大切なのね、あなた。妹さんが」
2人はあざ笑うように言葉を投げかける。
「どこにいる! 答えろ!」
カズヤは必死に叫ぶ。
すると、女がこんなことを言う。
「そういえば、さっき長老がわざわざ水族館に連れてきたわね」
「そういえばそうだったな。忘れてたぜ」
「水族館! そこに空佳と蛍ちゃんはいるのか!」
カズヤはしっかりと立って後ろの女を見据える。
「さあ? さっきも言ったけど名前なんて知らないし、水族館でちらっと見ただけだもの」
女は肩を上げて知らぬ存ぜぬの態度をとる。
「てゆーか、別にそんなことこいつに言わなくてよくね?」
「いいじゃない。死ぬ前の最期の手向けよ。妹さんと仲良くなら安心じゃない」
「そーだな。最期だからまあ、いいか」
ここに来て2人の雰囲気が変わったことにカズヤは気づいた。
捕まえた仔ウサギを部屋の中で遊ばせていた狩人が、急に包丁を仔ウサギに向ける。そんな雰囲気の変化だ。
「……っ」
カズヤは前後を男と女に挟まれている。
たとえ横に逃げても、さきほどの「何か」を使われたら逃げられないだろう。
男と女はジリジリと間合いを詰める。獲物の心をいたぶるように。
だんだんと距離は詰まり、2人組はカズヤから2メートルにまで迫って来た。もう一息で飛びかかれる距離である。
「ははは。坊主、運が悪かったな」
「こんな夜中に出歩く坊やが悪いのよ? 可哀想に」
そう言って、2人が動き出す。
その瞬間。
「13番目の仔等に滅びを」
少女の声が闇夜にこだまする。
そして、満月の光の中から、金と赤を纏った少女が落ちてきた。
「なっ!?」
少女は何の音もなく男の前に着地し、赤いスカートが舞い上がる。
そして体をゆるがせるように金色の大鎌を無造作に動かす。
「てめぇ、何者だ!?」
男は突然の乱入者に怒声をあげる。
「よ、ようすけ……?」
すると、女が男に声をかける。唖然とした表情で。
「ああん?」
「か、からだ……」
「体がどうした、って!?」
そこで男は気づく。自身の上半身と下半身が切り裂かれていることに。
しかし、服は一切斬られておらず、辛うじ下半身の上に少しずれて上半身がのっている。
「なん、じゃこりゃ!?」
そしてその言葉が終わる前に、少女が無造作に刃を振るう。
「こ、この!」
男は《瞬動》を咄嗟に発動し、一瞬で10メートル後方に移動した。
しかし、遅かった。
移動した瞬間、男の体はいくつものパーツに分解し、肉片が散らばった。
「ば、か、な……」
そしてそのまま男の意識は途切れ、肉は塵に、血は煙へと還っていった。
まるで損傷のない服だけが、彼の遺骸である。
「ようすけ!」
女が悲痛な叫びを上げる。
だがしかし、金髪の少女が女を見据えると、女は動いた。
素早くカズヤの後方に回り、爪を鋭く長く伸ばす。
そしてカズヤにつきつける。
「《吸血の爪牙》。あんたが一歩でも動いたらこいつを殺す!」
「く、くぅ」
カズヤは爪をつきつけられ、さらに女に掴まれる。身動きがとれない。
形としては、カズヤが女に掴まれ、人質になっていることになる。
女を攻撃するには、カズヤごと斬るしかない。
そんな状況の中、少女は迷わなかった。
月光の下、優雅にくるりと一回転する。
金色の長い金髪と大鎌が月光を反射する。
赤いワンピースが仄明るい空間にひるがえる。
そして、次の瞬間。
大鎌が少女の手を離れた。
離れた大鎌は高速で回転しながら、猛スピードで移動する。
そして、一瞬にしてカズヤと女の下にたどり着く。
「く、《瞬動》を!」
女は《瞬動》で逃れようとするが、大鎌の方が早い。無造作に投げられた重さ数十キロもあろうかという大鎌は高速で2人に向かい、カズヤと女を両断した。
「うぐは……」
大鎌が胴を通り抜け、カズヤが悲鳴をあげる。
だが一方で、女は悲鳴をあげない。
「でも、これなら!」
胴を両断された程度では吸血鬼は死なないのである。
女は《瞬動》を発動し、この場を逃れようとする。胴に大鎌が命中したカズヤを投げ捨て、一気に移動する。
しかし、それも無意味だった。
《瞬動》が発動する前に、少女が投げた大鎌が独りでに動き始める。
大鎌は物理法則を無視し、女とカズヤに命中したところで固定される。そして、その場で高速回転をする。一瞬にして10回転した大鎌によって女は20程のパーツに分解された。
そして残念なことに、その直後に《瞬動》が発動した。
女の体だった物は肉片と血潮をばら撒きながら移動していった。やがて肉片と血潮は塵煙と化し、服だけが超高速で飛んで行く。
そんな様子をぼーっと眺めるしかないカズヤだが、彼もまた十数回の斬撃を受けた。
人間の背丈を上回る切り裂かれたのである。当然カズヤは死を覚悟し、意識を手放そうとした。
だが手放すことはできなかった。
カズヤは恐る恐る自分の体を触ってみる。何ともない。
「どういうことだ……?」
カズヤはこの不可思議な状況をつかめない。
よく見ると、男と女の服もまったく斬れていない。
「あの大鎌、吸血鬼しか斬らないのか……?」
目の前の危機が去ったカズヤは、ふと気づいた。
少女の斬撃は服もカズヤも斬らず、吸血鬼のみを斬り裂いたのだ。
ことが終わって3分と経たない頃。
少女は2人の滅びを見届けると、スタスタと歩き出す。
無言で、振り返ることなく。
「待ってくれ!」
カズヤは声をかける。
「お願いだ。空佳を助けてくれ! 空佳と蛍ちゃんを助けてくれ!」
カズヤは悲痛な叫びをあげる。
だが、少女は振り返らず、一言だけ返す。
「私は第7番目の使徒。13番目の使徒の仔等を狩るだけ」
そのまま少女は歩き続ける。
「お願いだよ……助けてくれよ」
カズヤの声は静かな公園にこだました。
だが少女は振り返らない。少女はしゃべらない。
少女は去って行き、姿を消した。
残されたカズヤは途方に暮れた。
手掛かりになるかもしれない者が、全員いなくなってしまったのだ。
だがカズヤにとってここであきらめるわけにはいかない。
唯一の家族と、親友の妹の命がかかっているのだ。
学校で行方不明になってどこへ行ったのか、調べなければならない。
カズヤは先ほどの吸血鬼とのやりとりを思い出し、必死で手掛かりを探す。
「水族館……そう言ってた」
たしか女の方がそう言っていたとカズヤは思い出す。
「水族館! 来月オープンする所か!」
手掛かりは他にない。、
カズヤは素早く自転車にまたがると、ペダルを勢いよくこぎ始める。
そして、最後に叫んだ。
「……行ってやる。俺が助けてやる!」
カズヤは水族館に2人がいることを、無事でいることを願った。
◆ノスフェラトゥⅢ◆
開業まで1か月を控えた水族館。
巨大なアクリルの水槽がいくつも並んでいる。
それぞれに水がはってあり、種々の水棲生物が入っている。
真っ暗な中に非常灯のみが灯り、ポンプとクーラーの音のみが響いている。
そんな水族館の一角。
地下の排水溝の入口に【ノスフェラトゥ】の『巣』があった。
ただし作りかけの『巣』である。
そこは少し開けた場所になっているが、所詮は排水路だ。開業後も人通りはほとんどないだろう。『巣』としてはうってつけだ。
そこには長老と11人の吸血鬼が棲んでいる。
だが今はいない。皆狩りに出かけているのだ。
ゆえにこの場所は静けさに覆われている。
ただ、機械と水音のみが響く空間である。
しかし、その静穏はそっと緩やかに破られた。
「ん、ん……」
うめくような小さな声だ。
「ん……あ、れ」
声の主は排水路の端っこで、横になって倒れている。
「ここ、どこ……だろ」
倒れていたのは少女のようだ。学校の制服らしき服を着ている。
少女はボブカットに切りそろえた髪を撫でながら、しばし思い出してみる。自分がなぜここにいるのかを。
「たしか、学校で授業を受けて、それからそれから……」
少女は思い出そうとするが、なかなかうまくいかない。
辺りを見渡してみる。
来たことも見たこともない場所だ。
ポンプが水を汲みあげ、排水溝から水が流れ出る。クーラーの室外機の巨大な物が設置され、生暖かい空気が漂う。
床はじっとりとしめり、空気も湿度が高い。明かりは非常灯だけだ。
そして何よりも強烈な臭気が鼻をつく。
排水と生臭さで充満している。
「こわいよ、ここどこ……」
消え入りそうな声で少女は呟いた。
そのまま少女はしばらく動かなかった。時間にして5分ほどだが、少女にとって数時間にも感じられただろう。
「う、うぅぅ……」
少女はゆっくりと立ち上がろうとした。どうやら体はおおむね無事のようだ。
暗がりで壁を探り、壁に手をつきながらよろよろと立ち上がる。壁もまたじっとりと湿っていてと少女は魚の鱗のようだと感じた。
壁に手をこすらせながら、わずかな明かりを頼りにしながら、少女はゆっくりと歩みを進める。一歩進むごとに湿気が服を湿らせ、一息吸うごとに臭気が体を冒す。
少女の表情は恐怖に彩られ、うっすらと涙を浮かべている。
少女は恐怖から歩みを止めそうになる。だが歩みを止めるわけにはいかない。無理矢理歩みを進める
すると突然……、
ガシッ
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
少女の足に何かが当たった。
暗くて見えない中、やわらかい何かが足に触れた。
「いやぁぁぁぁっ!」
トスン
少女は狂ったように手足を振り回し、無様に転倒した。
再び足腰が冷たく湿った床に張り付く。
「う、うぅ……」
少女は絶叫をあげた後、意識を失いそうになるのを必死にこらえた。
そして、嫌がる気持ちを抑え込み、自分が蹴った何かを見てみる。
それはよく見ると、倒れている人間だった。
少女が触ってみると、温かかった。
この暗闇で目覚めて初めて触れる温かさに、少女は少し安心した。
少しだけ落ち着きを取り戻した少女は、もう少し倒れている人間を観察してみることにした。
「も、もしもし……?」
小さく声をかけながら、概観を見てみる。
身長は自分とあまり変わらないだろう。服はお腹のところで破れているが、学校の制服のようだ。髪の長さと線の細さからして女性だろう。
「だい、だいじょうぶ、ですか?」
少女は何者かの体をゆっくりとゆすって声をかける。
そして、顔を覗き込んだ。
暗くてよく見えない。
そこで、携帯電話を取り出して明かり代わりにすることにした。
携帯電話を見たときに何かチクリとしたが少女は気に留めなかった。
そして、少女は何者かの顔を覗き込む。
「……っ!?」
その瞬間、少女の顔に戦慄がはしった。
「ま、空佳ちゃん……?」
倒れていた人間は少女の友人の前島空佳だった。
そして明かり代わりにつけた携帯電話と服が破れた空佳を見たことで、少女の記憶が呼び起こされる。
屋上での恋愛相談、壊れた携帯電話、そして、恐ろしいモノ。
「いやぁぁぁっ!」
少女は、西野蛍は悲鳴を再度悲鳴をあげた。
見たことがない、まるで映画のような化け物、壊れたドアノブ、鋭く長い白い爪。
何よりも、身体を貫かれた空佳の姿がフラッシュバックする。
「い、いやぁぁ………」
蛍は幾度も悲鳴をあげるが、やがて息が詰まり、声が消え入って行く。
「ゃぁ……っごほ、ごほ、げほぉ……」
蛍は思いっきり息を吐いて吸ってしまったために、この場の臭気を吸い込んでむせる。そして屋上での光景を思い出し、胃の中の物を排水溝に吐きだしてしまった。
「う、ぅぅ……」
声も出せない。考えることもできない。苦しい。怖い。気持ち悪い。蛍の意識は閉ざされそうになった。
しかし、そこで蛍はふと気づく。
空佳の体は暖かかったことを。
蛍は勇気を振り絞り、もう1度空佳の様子を観察する。
携帯電話の明かりで照らすと、お腹のところの服が破れていることが分かる。だが、血はついていない。傷口もない。
手を空佳の口元に当ててみる。ゆっくりと呼吸をしていた。
「よ、よか、った……」
蛍はわずかに安堵する。
「でも、夢? ここ、どこ?」
無事な空佳を確認し、わずかに安静さを取り戻したものの、蛍には事態がのみこめていない。
「ぜんぜん、わかんないよ」
そう言って蛍は眠っている空佳を見る。
冷たく湿った床に転がっているが、苦しそうな様子はない。
「ね、ねぇ空佳ちゃん、起きて……」
蛍は空佳を起こすことにした。
空佳ならば何か知っているかもしれない。そう思ってのことだ。
蛍はしゃがみこんで空佳をゆする。
ゆさゆさ
「ん、んん……」
空佳をゆすっていると、少し反応があった。
蛍はさらにゆすってみることにする。
ゆさゆさゆあ
「空佳ちゃん、空佳ちゃん、起きて」
すると、しばしの後に、
「ん……なに、だれ?」
空佳が声を出した。
「空佳ちゃん、大丈夫? お腹痛くない?」
蛍は膝立ちの姿勢で、倒れたままの空佳を抱きかかえるようにして起こす。
「あれ、こことこ?」
「よかった、起きたんだね!」
「えっと、蛍さん……?」
暗がりに空佳の瞳が灯る。
「ん……」
空佳は蛍の手を借りて、倒れた姿勢から座り込む。
「ここ、水族館? どうしてこんな場所に……?」
「え? どうして分かるの?」
突然の空佳の発言に蛍は驚く。
「だって、そこに城賀水族館って書いてありますよ」
「ど、どこに?」
「そこのポンプに。そこのウンウン唸ってる装置にも」
そう言って空佳は指を差す。
「空佳ちゃん、目が良いんだね」
蛍には、空佳が指差した先がまったく見えなかった。真っ暗闇である。
「排水設備でしょうか。水族館の」
空佳は立ち上がってほこりを払う。
「臭いし、湿ってるし、早く出たいよね」
蛍も愚痴をこぼしながら立ち上がった。
「そうですか? 私はあまり気になりませんが」
「そ、そうかな。かなり臭いと思うんだけど」
蛍は首をひねる。
「大丈夫。道を探しましょう」
そうして空佳が歩き出そうとした時、
ガタン
突然空佳がうずくまった。
「空佳ちゃん? どうしたの!?」
「さ、寒い……」
空佳は急に両手で抱えてうずくまる。
「空佳ちゃん?」
蛍はそっと空佳の体に触れてみる。
「冷た……っ」
空佳の体は、触った瞬間、違和感を覚えるほどに冷たかった。
「さ、さっきまで温かかったのに」
蛍は青ざめた。唯一の温もりが失われた気がしたからだ。
「すぐに、すぐに温めないと」
蛍はおろおろとしている。
だが一方で、空佳は不思議な感情に支配されつつあった。
「体が、熱いです。寒いのに……」
「え、え、え?」
「血が、足りない。そんな感じでしょうか」
「血が足りない? 貧血かな。薬ないし……」
「いえ、違います。もっと、違う」
そうして空佳は蛍をじっと見る。その瞳は、昏く静かな世界に赤く灯っている。
空佳はもう1度立ち上がる。蛍をじっと見る。
ゴクリ
そして、空佳は自然に喉をならした。
「空佳、ちゃん?」
蛍はそんな空佳の様子を恐る恐る見つめる。
「別に、いいですよね。蛍さんなら。きっと」
「え、何が?」
「一緒にさらわれたのも何かの縁ですし」
「ん、そうだけど」
「何より、お兄ちゃんのこと好きって言ってますし」
「カズヤさんがどうかしたの?」
「お兄ちゃんはね、私の唯一の家族なの」
空佳は蛍に一歩近づく。
「だから、お兄ちゃんと私は、2人で暮らしてるの」
空佳はもう一歩近づく。
「う、うん。知ってるけど……」
蛍は暗闇灯る空佳の紅い瞳に気圧されるように一歩下がる。
「二人なの。二人じゃなきゃいけないの!」
空佳は少し声を荒げて叫ぶ。
その時、蛍は気づいた。空佳の犬歯が異様に長いことに;
「ま、空佳ちゃん、ね、落ち着いて……」
「だから、邪魔なの。だから、いいよね。血が足りないの。寒いの。熱いの」
蛍はその様子を見て、恐々と数歩下がる。
空佳はそれに合わせて数歩進む。
ミシミシ
その時から、空佳の体に変化が生じる。
空佳の顔は筋肉が硬直してこわばり、手の爪がゆっくりと伸びる。
「ひ、ひゃ……や」
蛍は顔をひきつらせる。さらに、周囲の臭気が増して呼吸ができなくなる。
「お兄ちゃんは、私のもの」
蛍の爪は30センチほどまで伸びる。
全身の筋肉が少しずつ歪み、体が捻じれそうに力む。
「や、ゃ……っ!」
蛍は息を詰まらせながら後ろを振り向き、冷たく湿った水路を走り出す。
ドシン
だが、すぐに何かに衝突してしりもちをつく。
「え……?」
蛍の前には、空佳が立っていた。
「こんなこともできるんだ。吸血鬼って便利だね」
空佳は体の感触を確かめるように腕を上下に振る。
「きゅ、きゅうけつき……」
「そう。私、吸血鬼になったの。たぶん」
空佳は事態を理解していた。
自宅に押しかけてきたハルカと名乗る警察の話、屋上で逢った異形。今自分を襲っている言い知れぬ感情と空腹感。すべてが彼女の中で符合していた。
「だがら、頂戴。あなたの血を。熱いの。寒いの。空腹なの。お兄ちゃんは渡さないの」
空佳は腕を下ろし、転んでいる蛍に爪を突きつける。
「う、うそだよね? とも、だちにこんなこと、しない、よね?」
蛍は息も絶え絶えに声を絞り出す。
だが、返答は無常だ。
「ごめんなさい。私、あなたのこと友達だと思ったことないわ」
ツツツッ
ゆっくりと爪が沈んでいく。空佳の爪が、蛍に食い込んでいく。
「大丈夫。あなたは吸血鬼にしたりしないわ。このままここで終わり」
「あ、あ、ぁ……」
蛍の顔から、体から急速に血の気が引いていく。
一方で、空佳の白い爪は、血を啜りあげて真っ赤に染まっていく。
5分後。
冷たく湿った魚の鱗のような床に、1人の人間が倒れていた。
ポンプと機械がうなり、水音がする中、身じろぎ一つしない、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」
その横で、人間でない者が人間に思いを馳せている。
その姿は人間ではない。
体の一部が鱗で覆われ、爪は鋭く伸びている。そして、体全体が軋みを立てるように歪んでいる。臭気も漂っている。
「これ、どうやって戻すんだろ。お兄ちゃんと会うまでにどうにかしないと心配しちゃうよね」
人間でない空佳は、体をグリグリと弄り始めた。
「それにして、あの化け物はどこにいったんだろう……」
◆Ⅶ◆
【ノスフェラトゥ】の長老は城賀ダムの上にいた。
特に狩りをしにきたわけではない。直感が告げたのだ。
暗い水底を遠目に覗きながら、ダムの縁に佇んでいる、
「嫌な予感がする」
そう呟く長老の異貌を、わずかな街灯が照らしている。
身の丈は4メートルを超え、鱗と粘膜に覆われている。全身の筋肉はひきつるまでに肥大化し、爪は槍のように鋭く長い。
その爪で幾多の人間と吸血鬼を狩って来た。
戦闘では最強とされる派閥【ノスフェラトゥ】の第3世代である長老は、吸血鬼でも人間でも容赦なく殺すことができる。
どんな武器や能力を使われようと、《剛力》と《吸血の爪牙》で敵を破壊し、《瞬動》で逃げ道を塞ぐ。《硬鱗》と《紫苑の被膜》で全身を覆えば日光や炎にも耐えうる。
吸血鬼としての弱点を克服し、人間を超越した、まさに化け物だ。
長老自身も自分のことを化け物としか思っていない。ただし、最強の化け物とだが。
「我らが同朋が滅ぼされるのは初めてではない。だが、5人や6人を一度に滅ぼすなど並みの所業ではない。」
長老は独り言をもらす。
「【純血旅団】かどこかの派閥が関わっているのか? 彼奴らならば不可能ではない。だが【古き盟約】には不可能だ。彼奴らめ、どこかの派閥に協力をあおぎおったな」
長老は唾を吐き捨てる。
「だが見ておれ。【ノスフェラトゥ】の恐ろしさを。我自らが皆殺しにしてくれよう。古びた老人とその仔等を」
そう言って長老は歩き出す、
「13番目の仔等に滅びを」
その時、美しく澄んだ声が周囲に響き渡る。
「なんだ?」
長老は後ろを振り向く。
すると、そこには巨大な鎌を携えた美しい少女がいた。
歳の頃は12かそこらに見える。その小柄な体に似合う、シンプルなデザインの赤いワンピースを着ている。
わずかな電灯と月明かりが大鎌を照らし、金色の光を放つ。
「……ちっ!」
少女が動くのと長老が《瞬動》を発動させたのは同時だった。
2人は一瞬にして位置を真逆に変える。
ダムの縁に少女が立ち、離れた位置に長老が立つ。
そして、変わったのは位置だけではなかった。
長老の右腕の爪が寸断され、地面に落ちているのだ。爪はすぐに塵と化して消える。
「貴様、何者だ!」
再度|《瞬動》を発動させながら長老が叫ぶ。
声が数か所から同時に聞こえ、周囲にエコーする。
少女もまた、負けじと高速で動き回る。おそらく、そのスピードは長老よりも速い。
ザスッ
肉が切れる音がした。
長老の右腕がダランと垂れ下がる、長老の防御能力|《硬鱗》をもろともせずに、
少女の大鎌は長老の腕を切り裂いた。
「なめるなよ、小娘! この程度|《鋼の粘糸》で……」
長老は傷口から粘った金属色の糸を伸ばし、斬られた部分を接着する、そしてまるで何ともなかったかのように腕を振るう。
「貴様だな! 我が同朋を葬ったのは!」
2人は一歩も足をとめない。少女は長老の《瞬動》を上回るスピードで動き回り、大鎌を振う。長老は体の随所を断ち切られながらも、《鋼の粘糸》で体を接着する。
「なぜ我々を狙う。貴様の狙いは一体何だ!」
ザスッ
長老の右足が斬り落とされる。
長老はすぐに接着しようとするが、少女の方が速い。その大鎌が長老の首に迫る。
「ちっ!」
長老は右足をあきらめ、すぐに跳ぶ。大鎌は虚空を斬った。
そのまま2人は一瞬の間動きを止める。
「一体何が目的だ!」
長老は再度問いかける。すると、
「13番目の仔等に滅びを」
少女は再度、玲瓏に、厳かにそう告げた。
「13番目の仔等……貴様、まさか第1世代か!?」
少女は質問に答えず、大鎌を構え直す。
「まさか、使徒が我らの前に現れるとは……」
長老はさらなる能力を使おうと身構えた。
「《腐敗の黒翼》よ!」
そう叫ぶと長老の背中に翼が生え、飛び上がる。
「使徒相手では……一旦逃げねば」
長老は一気に数百メートルを急上昇した。
「さすがにこれならば……」
長老は下を見下ろす。
だが、眼下に一望するダム周辺い少女の姿はない。
「なん、だと!?」
「13番目の仔等に滅びを」
少女は、長老よりも高くにいた。
そして、そのまま一息に大鎌を振り下ろす。
「ば、バカな? 【ノスフェラトゥ】の長老である我が!?」
刃は長老の体を縦に通り抜け、両断する。
さらに横に通り抜け、両断する。
そのまま数回、数十回と刃が長老の体を通り抜ける。
そして、最後に少女は軽く息を吹きかける。
長老の体は、塵となって空に舞って行った。
長老の意識は、同朋が潜む『巣』を見ながら途絶えた。
◆吸血鬼Ⅵ◆
月明かりの差す夜。
オープンを来月に控えた水族館の駐車場に、1台の臙脂色のセダンが停まっている。
車内はヤニの匂いがこびりつき、タバコの煙で充満している。
そして、その中で2人の女性が会話をしていた。
彼女達は吸血鬼。
【古き盟約】のハルカと【ドラクル教団】のアンリエッタである。
「おそらく【ノスフェラトゥ】の『巣』はここで間違いないでしょう」
「そうね。色々な条件を満たしているし。他の候補地は空振りばかりだったものね」
ハルカの言葉にアンリエッタは同意する。
まさに敵の本拠地の前ながら、2人の服装はいつも通りだ。ハルカはマニッシュだ。栗色の短髪で、男性用のスーツをビシッと着ている。アンリエッタはフワフワの白髪をカールさせ、令嬢のようなワンピースとカーディガンを着ている。
一見すると令嬢と付き人だが、運転席に座っているのが令嬢なのが不思議である。
「さて、どうしましょうか」
アンリエッタはタバコを取り出し、ライターで火を付ける。丁寧に彫金してあるジッポライターで、値段も張りそうだ。
「私の《記憶視》とアンリエッタの《補足の占術》で探索した結果、【ノスフェラトゥ】の残党は長老含め10名です。残りは吸血鬼殺しの使徒に、第1世代のヴァンパイアに滅ぼされたのでしょう」
「私達も他人事じゃないわね。使徒に逢ったらイチコロよ」
「そうですね。第1世代との接触は必ず避けなくてはなりません。たとえ避けられなかったとしても。既に私達【古き盟約】でも死者が出ています」
「つまり、このまま放置していたら、使徒が【ノスフェラトゥ】を皆殺しにしてくれるわ。万々歳ねってことにはならないのね」
「その通りです、アンリエッタ。先に私達が滅びるかもしれません」
「そうね。とにかく交戦は避けましょう。使徒でも【ノスフェラトゥ】でも。先に私達が滅んだら意味がないものね」
「この間のダムでは、あんなに好戦的だったのに、今回は控えめなのですね」
ハルカがアンリエッタに態度の違いを指摘した。
すると、アンリエッタはこう返す。
「ダムの上での戦いは、力を試したかっただけよ。私達の魔術が【ノスフェラトゥ】に通用するのか」
「それだけのために喧嘩を売ったと?」
「私達ヴァンパイアは内なる感情に支配されているわ。【ノスフェラトゥ】なら破壊と殺戮、暴力と嗜虐に囚われているわ。彼らはその感情に逆らえない。だから『巣』を作っては移動して、狩りという名の暴虐を繰り返すのよ」
アンリエッタは短くなったタバコを車の灰皿に押し付ける。
「私達も同じ。【ドラクル教団】の一員となった者は、魔術の探求に逆らえないのよ「」
「分かったような分からないような……」
「あなた達【古き盟約】が名誉欲や義務感に囚われるのと同じよ。人間と違ってヴァンパイアは絶対に逆らえない感情があるわけ」
「内なる感情……」
「まあ、でも今回はさ……そもそも敵さんが待ってくれないみたい」
ハルカが考え込もうとすると、アンリエッタは話を中断させる。
「敵!?」
ハルカは慌てて周囲を見渡す。
すると、わずかな街灯の陰から、ポツポツと人影が現れる。
「1、2、3、4……9人!?」
ハルカは人影を数えて唖然とする、【ノスフェラトゥ】の構成員全員が集まっていた。
「お前らか、我らが血族を滅ぼしたのは!」
1人の男が叫ぶ。
そして他の男が続く。
「お前らか!」
さらに男は続ける。
「皆の者よ、狩りの時間だ。彼奴らを引き裂き、殺し犯すがいい!」
その言葉と同時に、9人の【ノスフェラトゥ】が車に接近してくる。
「まさかいきなり出くわすとは思ってなかったわ」
「どうするんですか!」
アンリエッタは不思議と落ち着いているが、ハルカは焦燥を隠せない。
アンリエッタはハルカにのんびりと告げる。
「この間ダムの上で見せたと思うけど、私達【ドラクル教団】が使う魔術ってさ、準備が一番なのよ。準備と条件さえ整えれば敵なんていないわ」
「そんな、今から準備する猶予なんて!?」
ハルカはアンリエッタを見るが、特に変わった物は持っていない。後部座席もトランクも空だ。
「大丈夫よ。慌てないでよ、もう」
アンリエッタはそう呟きながら、座席の下から紙袋を取り出した。
【ノスフェラトゥ】は9人全員が筋肉を隆起させ、体を歪ませた。《剛力》の能力だ。彼らの拳なら、容易に自動車を潰すだろう。
その様子を見て、正直ハルカは怯えていた。
だがアンリエッタは、そんなハルカをよそにタバコを燻らせながら、紙袋の中から黄色い物を2つ取り出す。
「はい、ハルカ。これを着てね」
それはフードのついた全身を覆うタイプの、大型の黄色いレインコートだった。
「何でこんな物を?」
「このレインコートは燃えない。それだけの話よ」
そう言ってアンリエッタはレインコートを着てフードをかぶる。レインコートはアンリエッタの全身を足先まですっぽりと覆った。
「……?」
ハルカも半信半疑ながらレインコートを羽織ってフードをかぶる。そのレインコートは、女性にしては背が高めのハルカもすっぽりと覆った。
するとその時、
「死ぬ準備はできたか? くそ共」
突然耳元で声がした。
ハルカは体をびくっと震わせて窓の外を見る。すると、いつのまにか9人全員が車を取り囲んでいた。
「これが噂に聞く《瞬動》ね。《剛力》と並んで【ノスフェラトゥ】の代名詞といえる能力だわ。異常な力で異常な速さで動く。【ノスフェラトゥ】が最強の派閥といわれる所以よ」
アンリエッタは、この状況でも落ち着きなからタバコをふかしている。
「どうしてそんなに落ち着いているんですか!?」
ハルカはパニックを隠せない。
【ノスフェラトゥ】がその気になった瞬間、彼女達は挽き潰され、殺されるのは間違いない。
「だから言っているじゃない。慌てないでよ」
「意味がわかりません!」
2人がそんなやりとりをしていると、
ズガン
車のボンネットが大きく凹んだ。【ノスフェラトゥ】の1人が叩いたのだ。
「もういいか? それじゃ死ね」
そう言って、【ノスフェラトゥ】達が動き出した瞬間。
「そうね、もういいわ」
アンリエッタも同時に言った。そして、
カチリ
「イグニッション」
アンリエッタはそう一言だけ呟き、エンジンキーを回した。
次の瞬間。
世界は真っ赤に染まった。
それから10分後。
ハルカとアンリエッタは駐車場に立っていた。
駐車場のアスファルトは焦げ付き、黒く染まっている。
ところどころ、焼け焦げた布のようなものも落ちている。
「まあ、こんなところかしら」
アンリエッタは肩をすくめて言った。
「これは、一体……」
ハルカは唖然とした表情を浮かべている。
2人とも黄色いブカブカノレインコートを着たままである。
「一体何が起こったのですか?」
ハルカには事態がまるで理解できない。
暴れだした【ノスフェラトゥ】達がドア、フロントガラス、トランク、サイドミラーなど、自動車のパーツを壊し始めたのは覚えている。
だが、壊し始めた次の瞬間には世界が真っ赤に染まっていたのだ。
しばらく経つと、自動車も【ノスフェラトゥ】も姿が消え、2人が駐車場にうずくまっていたのである。
ハルカには訳が分からない。
「簡単よ。《炎の魔術》を使っただけ。ちょっと念入りに準備したやつをね」
アンリエッタが説明する。
「あの車、購入してからずっと《炎の魔術》を練り込んでいたの。それこそ車自体が炎と化すレベルまでね。物質を瞬間的に炎に変えて焼き尽くす、《焼殺》と呼ばれる魔術よ」
「そんなことが可能なのですか?」
「可能よ。車と私はタバコの煙を通じて魔術的連結も十分にとれていたし」
「あのタバコに意味が……」
ハルカは驚きを隠せない。
「アスファルトを見て。炎の跡は大体半径10メートル。自動車1台の質量を炎に変換したらこんなものね。【ノスフェラトゥ】のおバカさんが全員近寄って来てくれて助かったわ」
アンリエッタは伸びを1つしながらレインコートのフードを脱ぐ。
「炎は瞬間的に発生するから《瞬動》でも逃げられないわ。《焼殺》を受けて生きていられるヴァンパイアはそうそういないわね」
ハルカもフードを脱ぎながら、少し呆れた様子で思ったことを口にする。
「……【ノスフェラトゥ】より【ドラクル教団】の方がよっぽど恐ろしいのでは?」
「恐ろしさの種類が違うだけよ。【ノスフェラトゥ】は暴力が恐ろしく、【ドラクル教団】は魔術が恐ろしく、【進化の環】は人間の信者が恐ろしく、ハルカ達【古き盟約】は経済力と権力が恐ろしいもの」
アンリエッタはレインコートを脱ぎすてながらしゃべり続ける。
「今回は準備していたから勝てたけど、準備なしに当っていたら無惨に殺されていたわ。もし全員が近寄って来ていなかったら、残った敵に殺されていたわ。そんな紙一重の戦いよ。それが私達の魔術の探求。内なる感情から来るすべて」
「分かったような気がします。少しだけ」
「そう? それはよかったわ」
ハルカもレインコートを脱ぎすてる。
「これは防火服だったのですね」
「そうよ。ジョシュ侯特製のレインコートよ。もし売ったなら相当高い値段がはずだわ。きっと」
2人は燃えカスの残る駐車場で周囲を見渡す。
人影は全くない。
わずかな街灯に照らされた暗闇が広がるだけだ。
「さてと。私も報酬をもらおうかしら」
「報酬、ですか?」
「ちょっとこっち向いて」
「はぁ?」
ちゅ
「……っ!?」
ハルカが振り返った瞬間、背伸びしたアンリエッタが唇にキスをする。
ガリッ
そして、アンリエッタはそのまま鋭い犬歯でハルカの唇をひっかく。
「痛っ……!」
アンリエッタはハルカの血を舌で口内に運び、ゴクリと飲み干す。
ハルカは口元を抑えながら叫ぶ。
「な、何をするんですか!?」
アンリエッタは淡々と答える。
「魔術って疲れるのよね。少し分けてもらったわ」
「分けてって……うっ!?」
ハルカの体がヨロリとよろめく。
「血潮は生命の銀貨。使った分はスポンサーさんから補充しないとね」
「だからって、これは……」
ハルカはついに立っていられず、尻もちをついてしまう。
すると、アンリエッタも何故か横に座る。
「ごめんなさいね。でも私がヨロける訳にはいかないじゃない」
「だ、だったら、せめて先に言ってくれれば」
「それじゃつまらないじゃない」
「つまらないって……」
「実はね、けっこうタイプなの」
「何がでしょう?」
「ハルカ♪」
「は?」
ハルカは間抜けな反応しか返せない。
「別に私、そういう趣味は無いんだけど」
「う、へ?」
「考えておいて。とりあえず終わったら一緒にこの水族館に来ましょう」
そう言ってアンリエッタは立ち上がる。
「きっと楽しいわ」
ハルカも立ち上がる。体調は戻ってきたようだ。
「よく、分かりませんが分かりました。楽しみにしています」
「まあ、とりあえず目先のことを片付けましょう」
「そうですね。そうしましょう」
アンリエッタは楽しそうに、ハルカはやや混乱したように言い合った。
そして焦げたアスファルトの上を歩き出す。
するとその時、後方から車輪が地面を擦る音が聞こえてきた。
◆兄妹Ⅴ◆
カズヤは自転車をひたすらにこぎ続けた。
そして深夜1時を回ったころ、水族館の駐車場にまでやってきた。
当然人影はないだろうと思っていた。
だが、そこには2人の人影があった。
キキ―ッ
カズヤは車体を軋ませながらブレーキをかける。
そして丁度街灯の下にいた2人を見る。
「あなたは……警察の!?」
カズヤはハルカを見てそう言った。
「こんな時に邪魔な」
ハルカは呟いた。カズヤへの情報収集は終わっている。ハルカにとって、彼はもう無用な存在であった。
「やっぱり、空佳はここに!」
ハルカはカズヤの自宅を訪れた時に警察を名乗った。それが、カズヤに今ここで事件が起きていることを確信させることになってしまった。
「答えて下さい。ここに空佳はいるんですね?」
「君には関係ない。帰りなさい」
ハルカはばっさりと切り捨てる。
だがカズヤはまったくひかない。
「嫌です。空佳の安否が分かるまで帰りません!」
ハルカはどう言いくるめようかとしばし考えた。
そうしていると、アンリエッタがハルカに耳打ちをした。
「このまま連れて行きましょう」
「どうしてですか?」
「盾代わりにはなるでしょう」
アンリエッタはわずかに笑みを浮かべた。
「相変わらずアンリエッタの発想がわかりません」
「私の魔術で長老を倒すのは無理だわ。でも、彼がいれば倒せるかもしれない」
「ただの人間ですよ?」
「別に人間でいいわよ。よく燃えればなんでも」
「よく分かりませんが、分かりました」
ハルカは深くは聞かず、アンリエッタの主張に従うことにした。
「カズヤ君、でしたね」
「はい」
「ここから先は大変危険です。それでも付いてくるのであれば、自分の身は自分で守ってくださいね?」
ハルカは警句を発する。
「分かりました。空佳を見つけたらすぐに帰ります」
「それでは分かりました。付いて来てください」
そう言ってハルカは水族館の建物に向かって歩き出した。
アンリエッタとカズヤがそれに続く。
「さて、まずは彼らの出入り口を探しましょう。毎回、無理矢理こじあけているわけでもないでしょうから」
ハルカは水族館のパンフレットを取り出した。昼間のうちに街で入手しておいたものだ。
「どう思いますか? 出入り口、非常口は沢山ありそうですが」
「真っ当な道じゃないと思うわ。それじゃ簡単に見つかってしまうわよ。いくら【ノスフェラトゥ】が脳無しでもそのくらいは考えるはず」
「なるほど……では、普段まったく出入りがないようなルートの可能性が高いということですね」
ハルカは水族館の敷地をぐるりと回りながら見渡し、考える。
「人が出入りせずに、自由に出入りできる場所……排水溝みたいな場所なんかいいんじゃないでしょうか?」
ここでカズヤが提案した。
「なるほど……ありえますね」
「となると、排水溝の場所よね。どこかしら」
アンリエッタは首をひねる。
ハルカもしばし考え、案を出す。
「《補足の占術》を使いましょう」
「長老は視たことないわよ? 私じゃ探せないわ」
「探すのは長老ではありません。空佳さんです」
ハルカはカズヤをちらと見ながら説明をする。
「もし空佳さんが生きているなら、おそらく【ノスフェラトゥ】の『巣』にいるはず。もし亡くなっているのなら仕方ありませんが」
「な、亡くなって……」
ハルカの発言にカズヤは言葉を詰まらせる。
「そうね。やってみましょう」
アンリエッタは水族館の全図をハルカから受け取り、ビーズを上に置く。そして、ハルカの《記憶視》を通じて空佳を見た。
「RIN、REN、RERAI……」
アンリエッタは呪文を唱え始めた。
そして、数分後。
「よかったわね、カズヤさん。空佳さんは生きているわ。《補足の占術》で反応があったもの」
そう言ってアンリエッタは地図の一点を指さす。
「ここにいるわ」
「本当ですか!? よ、よかった……」
カズヤは安堵の表情を浮かべる。
「この区画は……外縁部から侵入できそうですね。早速向かいましょう」
ハルカは地図にチェックを付けて、懐にしまう。
「ちょっと待って、ハルカ」
「どうかしましたか、アンリエッタ」
「少し準備があるわ」
そう言ってアンリエッタは懐からタバコの箱を取り出す。そして、それをハルカとカズヤに差し出す。
「これは炎よ。燃え盛る炎。己の身を焦がし、すべてを焼き尽くす炎。これを受け取って頂けないかしら?」
「えっと……構いませんけど、何ですか?」
カズヤは訊ねた。
「お守りみたいなものよ。炎の祝福を汝に」
そう言ってアンリエッタはカズヤのポケットにタバコの箱をねじ込んだ。
「ハルカの分は、彷徨いの炎。蜃気楼のように消えて、移ろうわ。万が一の時、移ろいの魔術を使ってもいいかしら?」
「よく分かりませんが、分かりました」
ハルカはアンリエッタの言葉に賛同した。
そして、ハルカは訊ねる。
「もう大丈夫でしょうか?」
「待たせたわね。もう準備は完了よ。行きましょう」
「早く、空佳のところへ!」
3人は排水路へと向かって行った
20分後。
意外とあっさりと排水路の入口は見つかった。入口は鉄格子が設置されているが、高さが2メートル弱しかない。乗り越えるのは難しくないだろう。
3人は次々と鉄格子を乗り越え、排水路に侵入した。
排水路の中は水の流れる音と、遠くから聞こえる機械音しか聞こえない。明かりも非常灯だけだ。そして、割と悪質な臭気が立ち込めている。床も魚の鱗のように冷たくじめじめとしている。
左右には歩道があり、真ん中に水路がある。水路は緩やかな傾斜になっているようで、施設外に水を流している。
「警戒しながら進みましょう」
3人は、ハルカ、カズヤ、アンリエッタの順番で一列になって排水溝を進んでいく。
そして、緩やかにカーブを描く排水路を進むこと10分。
3人は排水路の奥にたどり着いた。
「ここが最奥のようですね。そして当たりのようです。嫌な臭いがします」
ハルカが顔をしかめて言った。
「そうね。間違いなく奴らの『巣』だわ」
「一体何を言っているんだ?」
「気づかないの? この臭いに」
そう返されたカズヤは周囲の臭いを嗅いでみる。
たしかに生臭い臭いがただよっている。
「下水だから臭いのは当たり前だろ」
「どうやら本当に気付かないようね」
アンリエッタが肩をすくめる。
「人間の嗅覚ではこれが限界でしょう」
「何を言ってるんだよ!」
「気にしなくて構いません。ただし明かりをつけないように。あなたの身の安全と同様に、心の安全までは保障できません」
ハルカはそう切り捨てた。
わずかな非常灯の明かりが周囲を仄暗く映し出す。
「さて、長老は留守のようですね。どうしましょうか」
「そうね。そこまで禍々しい気配はしないわ。狩りの最中かしらね」
「じゃあ、空佳をさらった連中はいないのか?」
「そのようです。ここにはおそらくいません」
「じゃあ、空佳は!?」
ガシッ
カズヤが叫んでハルカに近寄ったその時、何かに足をひっかけて転びそうになる。
「いって、何なんだよ」
カズヤは悪態をつきながら、自分が蹴飛ばした物を見る。
非常灯に照らされたのは、床に倒れている人間だった。
「に、にんげん……!?」
カズヤは慌てふためき、しりもちをついた。
「そうね……人間、ね」
ハルカはちらりとも見ずに答えた。
「大丈夫ですか!?」
カズヤは声をかけながら、顔を覗きこもうとした。
すると、
「蛍ちゃん、蛍ちゃん!?」
カズヤは驚きのままに声をあげた。
そして少し涙ぐみながら話しかける。
「よかった。心配してたんだよ。無事でよかった……」
だが、その様子をみていたハルカは容赦なく告げる。
「死体に何を話しかけているのですか」
「……えっ?」
カズヤはゆっくりと顔を上げてハルカを見た。
「彼女はもう死んでいます。血を吸われて」
ハルカは現実を早々に告げた。
「そんなバカな!?」
カズヤは蛍に手を触れる。冷たい。
体をゆすってみる。ピクリとも動かない。
「う、うそだろ、おい……」
「事実です。ここに入ったときから死体の臭いがしていましたから」
「きゅ、吸血鬼に襲われたのか!?」
「そうでしょう。おそらくは【ノスフェラトゥ】に」
「そ、そんな……」
カズヤの表情が絶望に歪む。
すると、そんなカズヤを見ながら、アンリエッタがふと首をかしげた。
「でもおかしいわ、ハルカ。普通【ノスフェラトゥ】は自分の巣で食餌はしないはず。必ず『巣』の外で食餌をするのが【ノスフェラトゥ】のクセなのよ?」
「そうなのですか? ということは、彼女のケースは例外ということになりますが……」
アンリエッタとハルカは冷静に事態を分析する。
「お前ら、人が死んでいるのに何も思わないのかよ!?」
カズヤが叫ぶ。
ハルカはアンリエッタと相談をしながら、振り返って答える。
「何も思わなくはないですが……何十人と犠牲になっている事件で別段1人にこだわる理由はないかと」
「……っくそ、くそ、くそ……」
カズヤは蛍の遺骸を抱え上げ、鱗のように湿った冷たい地面を拳で叩く。
「一体、誰がやったんだ……必ず仇はとってやる」
カズヤは蛍の遺骸をぎゅっと抱きしめた。
すると、アンリエッタが飄々と言い放った。
「犯人ならそこにいる。ずっとね」
「「え?」」
ハルカとカズヤは同時に声をあげる、
カツーン
機械とポンプの音が静かに響く排水路に、靴音が響く。
「出たわ。イレギュラーのお出ましね」
アンリエッタがそう言うと、1人の少女が非常灯の明かりに照らされた現れる。
「お兄ちゃん……?」
「空佳!?」
暗がりから現れたのは空佳だった。服は破れているものの、一見したところ傷はない。
「よかった無事だったんだな!」
カズヤは蛍の遺体をそっと地面に降ろすと、空佳に近寄ろうとする。
「ダメです!」
しかしそれをハルカが腕をのばして遮る。
「一体、何なんだよ」
「彼女はすでに【ノスフェラトゥ】の一員です」
「何だよそれ。どけよ」
カズヤはハルカの腕をどけ、空佳に近寄る。
すると、空佳はカズヤが自分の数歩手前まで来たところでゆっくりと口を動かす。
「お兄ちゃん、私……」
「よかった、無事で……」
空佳はカズヤの言葉を聞き、悲しそうな表情を浮かべ、カズヤを見る。
そして言った。
「私、吸血鬼になっちゃった」
(続く)