(前半)
◆Ⅶ◆
月の見えない新月の夜。
誰もが気にしない都市のはずれで、その宴は行なわれていた。
無機質な刃が華麗に舞い踊る。
それだけの宴だ。
振るわれている刃は大鎌。三日月にも似た巨大な金色の刃だ。長さは成人男性の背丈ほどもあり、軽々と持てる重さではないだろう。
だがこの宴においては、その凶器が弧を描いて自在に舞い踊っている。
刃が空気を撫でるたび、赤い糸が宙に舞う。
血潮が流れる。
刃が空気を混ぜるたび、赤い花が宙に踊る。
肉片が飛ぶ。
なんの造作もないように刃が滑り、赤い世界を創り出す。
死体が積みあがっていく。
シンプルで美しい宴。
そして、その宴の主もまた優美で華麗だ。
身長は140センチメートルほどで、大鎌を操るには明らかにサイズが合っていないが、彼女は苦も無く刃を振り回している。
服装は小柄な体躯に相応な赤く可愛らしいワンピースだ。
刃に合わせて踊るたびに揺れる長い金髪もまた、しなやかで美しい。
瞳は血潮よりも赤い紅で、暗い闇夜にひっそりと灯っている。
紅く美しい少女は大鎌を振るい舞い踊る。
世界が赤く染まっていく。優雅に、そして無造作に。
やがて少女は舞を終える。
時間にして5分ほどだろう。短い宴だった。
積みあがった死体は12体
少女は大鎌を一振いすると、大鎌を担いだままスタスタと歩き出す。
どうやら宴の片づけはしないらしい。宴の会場は結構汚れているが、放置するようだ。
当然だ。
その死体はすべて吸血鬼。
どうせ死体は塵と煙と化して消える。
少女は足早にその場を離れて行く……と思いきや、少女はふと足を止める。
そして月の無い空を見上げる。
すると、空から1通の封筒が落ちてきた。
空の上からゆっくりと時間をかけて彼女の手元に落ちてくる白い封筒。
やがてその封筒はすっぽりと少女の手に収まった。
少女は封筒をひっくり返して差出人の名前を見る。
差出人の名前は「カイン」。
その名は聖書における咎人。
そして、すべての始まり、原初の吸血鬼の名。
少女は封筒を開く。
中には1枚のカードのみが封入されていた。
そしてそのカードは、次の宴の招待状だった。
パーティ会場は日本の「城賀市」。
そこで吸血鬼達が狂宴を開くらしい。
彼女の次の行き先が決まった。
彼の地に赴き、吸血鬼を殺す。
それは彼女の生業だ。
彼女は何故そんなことをしているのか?
それは彼女の手の甲に刻まれた印が示している。
少女の右手の甲には焼きゴテで付けたような刻印があった。
刻まれた紋様は「Ⅶ(セヴン)」。
彼女はカインの七番目の使徒。第一世代の吸血鬼。
彼女に与えられた役割は吸血鬼の処刑人。
その役目はカインを裏切り、カインを生かした十三番目の使徒と、その仔等の討滅だ。
その大鎌で吸血鬼を引き裂き、存在を抹消する。
それが彼女の赤い宴。
彼女はゆっくりと足を日本に向けた。
◆吸血鬼◆
この世界には少数の吸血鬼がいる。
人間にはほとんど知られていない。
吸血鬼は不老不死で日光に弱く、血を呑むという衝動にかられ、超常的な力を用いる。ただし、間違っても十字架やニンニクは効果をもたらさない。
そんな存在である。
そして城賀市にも例外なく、吸血鬼が棲んでいる。
そのうちの一人が、ハルカ・バークレーである。
3月末のある昼下がり、ハルカは城賀市の屋敷町を歩いていた。
この辺りには豪邸が立ち並び、いずれの門構えも立派である。
ハルカの外見は20歳程の女性だが、実年齢は恐らく40歳を超えている。
なぜ恐らくかというと、ハルカは自分がいつ吸血鬼になったのかを覚えていない。気付いたら吸血鬼として生きていた。
ただ、これは彼女に限ったことではなく、多くの吸血鬼は過去のことをあまり覚えていない。不老不死の人生を生きるための知恵だろう。
「今日は暑いですね……」
誰に言うわけでもなく、ハルカは呟く。
まだ3月末だというのに、気温は30℃に迫っている。
それに服装も悪い。
ハルカの服装はシャドウストライプの男物のスーツだ。そこに短い栗色の髪に合わせた茶色の皮靴と革手袋、そして角縁の眼鏡を身に着けている。
身長が167センチと高めなのでマニッシュな服装が決まってはいる。
だが暑いにきまっている。
吸血鬼だって暑さを感じるのだ。
しかし、そもそもの問題がある。
日光に弱いはずの吸血鬼がなぜ日中に出歩けるのか。吸血鬼が日光に弱いというのは嘘なのだろうか?
いや違う。それは世代が若いからである。
一般的に、吸血鬼は世代が古いほど吸血鬼らしく、強力な力を行使できる。
そして、新しい世代の吸血鬼は限りなく人間に近い。太陽の下も歩けるし、吸血衝動も少ないが、吸血鬼としての力は弱い。吸血によって同朋を作ることはできないし、吸血鬼の誇る特殊能力も限定的である。
ハルカは最も若い第5世代のため、吸血鬼でありながら日光の影響をほとんど受けないのである。
そして、そんな彼女は、今とある吸血鬼を訪ねようとしていた。
訪問する相手は通称「伯爵」。
伯爵は吸血鬼の6大派閥の1つ【古き盟約】に属する大物だ。城賀市一帯を治めるヴァンパイアの領主でもある。
ハルカも【古き盟約】に参加しており、いわば伯爵は上司にあたる。
今回は伯爵の呼び出しを受けての推参である。
屋敷町を通り抜け、ハルカは林へと分け入る。
そして林道を歩くこと30分、ようやく目当ての建物にたどりついた。
「ハルカ・バークレー参りました」
ハルカは木々に囲まれた厳かな洋館の前でそう告げる。
2階建ての洋館は、日本には不似合いな古いゴシック様式の建物だ。大きさこそそこまでではないが、頑強で立派な造りをしている。
「ようこそいらっしゃいました。ご主人様がお待ちです」
扉が開き、中から一人の女性が出てくる。彼女は伯爵の家令のジェシカ。30歳程の外見をした女性だ。メイドが着るような服を着ているが、この屋敷の管理を一手に任されている第四世代の吸血鬼である。
「どうぞ、こちらへ」
ジェシカはハルカを誘導して屋敷の中を歩き出す。
屋敷の中は暗い。第4世代以上の吸血鬼は完全な暗視能力を持っているため、明かりが必要ないのだ。ただ、装飾としてところどころに蝋燭が灯っている。
第5世代であるハルカは夜目が利く程度の能力なので、蝋燭がないと上手く歩けないだろう。蝋燭はその配慮の意味もあるかもしれない。
そして屋敷の中は迷路だった。広大な地下階が存在し、迷路のようになっている。
ハルカはジェシカの案内で狭い通路を幾度も道を曲り、階段を2つ昇って5つ下った。防犯のためだろう。ハルカ1人では確実に道に迷う。
そして、たどり着いたのは洋館の一番奥の場所。そこにある一つの扉の前にハルカは案内された。頑丈な拵えの樫の扉が眼前にある。
「こちらで伯爵様がお待ちです」
ジェシカはそう言ってゆっくりとお辞儀をした。
「それでは私はこれで」
そしてジェシカはもと来た道を戻って行った。
「どれだけ厳重なのだか」
ハルカは一人呟くと、
「ふぅ……」
大きく息を吐く。伯爵と会うのは初めてではない。しかし第3世代である伯爵と会うプレッシャーは並大抵のものではない。彼にかかればハルカなど一瞬で無力化されてしまうだろう。
「失礼します」
じっくり時間をかけた後、声を掛けてハルカは扉を開けた。
光のまったく差さない地下だが、やはり部屋の電灯はついていない。
部屋の中は重厚な拵えの木製家具が並び、高価そうな革張りのソファーとフォーテーブルが置かれている。シンプルながらも威厳を感じさせる部屋だ。
「伯爵様、ハルカ・バークレー参りました」
ハルカは胸の前に右手を当てて一礼をする。
「よく来たね。ハルカ」
すると、少年のような少女のような、高く美しい声が聞こえる。
「相変わらず美しい容貌だ。世代が違えば寵愛を与えるところだ」
「恐れ入ります、伯爵様もご機嫌麗しく」
ハルカに伯爵の姿は見えない。声だけが聞こえてくる。
「ははは、結構結構。ハルカも調子が良さそうで何よりだ」
伯爵は子供のような声で笑う。
「そうそう、上物のワインが手に入ったんだ。一緒にどうだい?」
「ありがとうございます。頂きます」
パチン
ハルカがそう答えると、伯爵は指を弾く。
すると、ローテーブルにおかれた蝋燭が急に灯り、ワインボトルとグラス揺らめく炎に映し出される。
パチン
さらに伯爵がもう一度指を弾くと、ワインボトルのコルクがひとりでに外れる。
そしてワインボトルが浮き上がりワイングラスにそっと赤い液体を注ぐ。
「さあ、召し上がれ。日頃の労働の対価だ」
「ありがたきお言葉。頂きます」
ハルカは部屋の中に入り、ローテーブルのワイングラスを手に取り香りと色をじっくりと堪能する。そして一息に飲み干す。
「いい飲みっぷりだ。もう1杯どうだね」
パチン
伯爵はもう1度指を弾き、再度ワインボトルを浮かせる。
「頂きます」
ハルカは注がれる2杯目も一息に飲み干す。
「僕も飲もうかな」
パチン
そう言って指を弾くと、ワインボトルが浮き上がり、暗闇の中に移動した。
「実はさ、君に頼みがあるんだよね」。
ワインを少しずつ飲む音が聞こえる中、伯爵は話を切りだした。
「ハルカも知っているだろう。ここ1か月ほど僕の版図を騒がせている殺人事件のことを」
「はい。存じております。巷では『城賀市連続殺人事件』などとも呼ばれているようです」
ハルカの知っている事件のあらましはこうだ。
ここ1か月ほどの間に、城賀市内で5人の遺体が発見された。性別も年齢も職業も発見現場もバラバラだが、共通していることがあった。
死体に著しい損傷があることである。
そのため、警察は連続殺人事件の可能性も踏まえて捜査を行なっている。
これ以上のことをハルカは知らない。
特に関心を払っていなかったのだ。
「まあ、これが普通の人間の事件ならば何の問題もない。警察に責務を果たしてもらえば済む話だ」
「と、申しますと……?」
「今回の事件、吸血鬼が関わっている」
伯爵の声のトーンが変わる。ここまでの割と愉快そうな声色から、真剣で聞くものに戦慄を与えるような声色に変わる。
「吸血鬼が、関わっている?」
「そうだ。ハルカも僕の能力|《万象の瞳》は知っているだろう? 僕の瞳が吸血鬼の影を捉えたのだ」
伯爵の《万象の瞳》は起こりくる運命の片鱗を捉える能力。そのようにハルカは聞いている。その的中率は百パーセントだということも。
「なるほど。それでは、どの派閥にも属さない【はぐれ者】の仕業でしょうか」
「その可能性が高いが油断はできん。万が一、僕の版図に戦争を仕掛ける相手がいないとは言い切れまい」
伯爵は声のトーンを変えないまま、言葉を続ける。
「そこでだ。ハルカには今回の事件を調査してもらいたい。日中動ける者の中では私はハルカを一番信頼しているからな」
「ありがたきお言葉。その調査承りました」
「まあ、気楽に真剣に頼むよ」
「かしこまりました、伯爵様」
ハルカは深々とお辞儀をした。
こうして、ハルカ・バークレーのミッションは始まった。
翌日、ハルカがまず向かったのは今朝発見されたという遺体の発見現場だ。駅近くの繁華街の路地で遺体が見つかったらしい。
服装はブラウンの男物のスーツに黒い革靴と革手袋、角縁の眼鏡だ。
現場には、すでに人だかりができていた。制服姿の学生や主婦などが集まっている。
路地の入口には警官が立ち、黄色いテープが張られている。遺体があっただろう路地の中は青いビニールシートで覆われて見ることができない。
「まあ、当然入れませんよね……」
人ごみを押しのけてみるが、あまり意味がない。
「やはりこれしかないですね……」
ハルカは息を吐くと、ゆっくりと眼鏡をはずした。
そして、現場に向けて視線を集中させる。
するとハルカの見ている風景は、極度の近眼のようにゆっくりとぼやけ始める。
そして1分後、今度は逆に風景がはっきりと見え始めた。
2分後には、ハルカの眼前に今までとまったく違う光景が広がる。
いや、まったく違うといっても場所は同じ路地裏だ。ただし、時間が違う。人通りのまったくない夜。そんな風景だ。
その光景は……
宵闇の中、1人の男性が女性に組み付いている。
女性は暴れるが、喉を潰されているのか、声をあげることができない。
2人の他にも、数人の男女がニヤニヤしながら取り巻いている。女性を助ける気配はまったくない。
そして、何とか振りほどこうとする女性に業を煮やしたのか、男性は女性の足を蹴りつける。ただ無造作に放たれたその蹴りは女性の足を折る……どころではなく、女性の足を根元からもぎとった。
「……っ」
女性の声なき悲鳴がこだまする。そしてそのまま女性は失神した。
男は動かなくなった女性を抱え、その首に……
そこでハルカの眼前の光景は再びぼやけ始める。
そして、次に視界が晴れたとき、ハルカの見ている風景は元の路地に戻った。
明るい太陽の下、路地には警官が立ちふさがり、やじ馬が群がっている。
「ふぅ……」
《記憶視》の能力を発動してから五分。集中し続けたハルカは思わずため息をもらす。
「さすがに疲れますね」
ハルカは呟きながら仮想の光景を思い起こす。
「どうやら伯爵様の読みは正解だったようです」
ハルカは続けて呟く。
「これは確定ですね」
そう言いながらハルカははずしていた眼鏡をかけ直す。
そして、憂いを帯びた表情でなおも呟く。
「しかしこれは……最悪の展開でしょう」
ハルカは心に黒いもやを感じていた。
「単独の【はぐれ者】なら良かったのですが……まさか徒党を組んでいるとは」
ハルカはその場を足早に立ち去る。
「早く伯爵様に報告しなければ」
歩きながら懐からメモ帳を取り出し、今見た光景をメモする。覚えている限りの絵も入れる。同じ場所で能力は2度は使えない。今見た光景が敵の正体と居場所を探る最大の手掛かりだ。
「ここだけでは色々と断定できませんね。もっと足を使わねば」
ハルカはタクシーを呼び止め、次の遺体発見現場に向かう。
30分ほどかけて向かったそこは、閑静な住宅街の一角にある公園だった。
その茂みが一面ブルーシートに覆われている。
ここも当然のように警察が見張りながら、ビニールシートの内側で捜査をしている。
「どうせ無駄だというのに」
ハルカはつい呟いてしまう。
ヴァンパイアを見つけるなど普通の警察には不可能だ。
その気になれば証拠などいくらでも消す方法はある。
だが、吸血鬼同士なら別だ。
ハルカは再度メガネを外し、《記憶視》を発動する。
場所の記憶を呼び覚まし、犯人の、吸血鬼の情報を収集する。
夕刻までにハルカはこの作業を数か所で繰り返した。
そして、結論を出す。
「徒党を組んで人を襲う以上【はぐれ者】ではなく。しかし目的や狙いが計れない無秩序な動き……これはまさか」
ハルカは悩む。
だが、やはり結論を出す。
「まさか【古き同盟】の版図に【ノスフェラトゥ】が侵入して来ようとは……」
ハルカは予想外の展開にギリリと奥歯をかみしめた。
調査の翌日。
ハルカは連続殺人の調査を報告しに来ていた。相手は城賀市の領主、伯爵である。
場所は伯爵の屋敷、地下三階の伯爵の部屋である。
ハルカは一昨日来たばかりだ。
相も変わらず真っ暗な部屋で、伯爵が質問をする。
「この1日2日で、何か収穫はあったかい?」
暗闇の中から少年とも少女ともおぼつかない声が聞こえてくる。
「はい。一連の殺人事件の犯人は吸血鬼で間違いありません」
「何か証拠は?」
「私の《記憶視》で遺体発見現場を見て参りました」
「ほう?」
「人間の足を引きちぎる力、間違いなく人間ではありません。また、すべての事件が夜に起きていることも確認いたしました」
「なるほど。ハルカの《記憶視》に偽りはあるまい。どこかの【はぐれ者】が蛮行に及んでいるということか。何とも残念だね」
伯爵はため息をもらす。
すると、ハルカが伯爵にとって意外な言葉を発する。
「いえ、伯爵様。今回の事件、【はぐれ者】の所業ではないと思われます」
「んん?」
伯爵は訝しげな声をもらす。
「伯爵様、敵は【ノスフェラトゥ】です」
ハルカは単刀直入にそう言った。
「【ノスフェラトゥ】? どうしてあの暴虐の鬼共だと分かるのかい?」
「私の《記憶視》で見た際、吸血鬼は一人や二人ではありませんでした。もし仮に【はぐれ者】であれば多くても2~3名のはず。ですが、今回は少なくとも10名以上の吸血鬼を確認しております」
ハルカは事件現場数か所を回り、すべての場所で《記憶視》を使った。
そして、犯人の数を数えていたのだ。
「たしかに、そのように考えられるね。【はぐれ者】ではないようだ」
伯爵は納得した語調で言った。
「しかしそれは困ったことになったものだ。よりにもよって【ノスフェラトゥ】か。ヴァンパイアの面汚しがこのような形で僕らの前に現れるとはね」
伯爵は苦虫をかみつぶしたような声を出す。
それもそのはずである。【ノスフェラトゥ】は六大派閥の中の異端中の異端。化け物の集団なのである。
6大派閥の内、伝統を重んじる【古き盟約】と【不死教会】、理論と発展を重んじる【ドラクル教団】と【進化の環】、そして吸血鬼による傭兵組織【純血旅団】。これら五つの派閥はそれぞれの教義とルールに従って活動している。
だが、【ノスフェラトゥ】だけは違う。【ノスフェラトゥ】はヴァンパイアを単なる化け物としか捉えていない。故にルールも何もなく、ただ暴虐と愉悦に身を任せるだけの集団だ。人間を餌や娯楽の道具としか思っていない厄介な連中である。
しかも、彼らの能力は肉体強化など戦闘に特化している。その点も厄介である。
「私が《記憶視》で見た複数人による無節操な殺し。間違いなく【ノスフェラトゥ】の仕業だと思われます」
ハルカは断言した。
「ハルカの《記憶視》の優越性はよく知っている。間違いないだろう」
伯爵は悩む。
「近隣に彼らの版図はない。遊び半分にやってきたのなら痛い目に合わせてやればいいだけだろう。しかし、【ノスフェラトゥ】が『巣作り』を目的に来たのならば話は別だね」
「『巣作り』とは?」
聞いたことがない単語にハルカは首を傾げる。
「【ノスフェラトゥ】の版図は僕らのように規律正しい区分けを持っていない、かわりに『巣』と呼ばれる拠点を中心に版図を形成するのさ。『巣』と呼んでいるのは、奴らが自分達を人間からかけ離れた化け物だと思っているからだろう」
伯爵がハルカに説明をする。
「この『巣』は何の秩序ももたらさない。『巣』を中心に【ノスフェラトゥ】の連中は好き放題に暴れまわり、最後には一帯をボロボロに食い尽くしてしまう」
「自らの版図を食い尽くす? そんなことをしたら破滅が待っているのでは?」
「そこが僕らと奴らの違いだ。奴らは自分の版図を食い尽くすと、他の版図に移動するのさ。自分たちの『巣』ごとね」
「版図を移動するなんて……移動先の領主が許さないでしょう」
「普通はね。だが【ノスフェラトゥ】は戦闘能力にかけては6大派閥の中でもずば抜けている。まともに戦えるのは【純血旅団】の連中だけだろう。大抵の場合、元の領主が敗北し、血族は滅びるか【ノスフェラトゥ】に取り込まれる」
伯爵は苦々しげに説明を続ける。
「たちの悪いスズメバチか軍隊アリだと思ってくれればいい」
「ということは……今回の事件、まさか『巣作り』の兆候が?」
「ありえなくはない。既に僕の版図に奴らの『巣』が出来つつあるのかもしれないね」
伯爵はため息をもらす。
「話がややこしいことになってきた。本当に『巣作り』をされているのだとしたら、奴らの中にも『長老』と呼ばれる第3世代がいる可能性が高い」
「第3世代……伯爵様と同等の世代がいると?」
パチン
伯爵が指を鳴らすと、部屋のローテーブルに明かりが灯る。
「ハルカ、座りたまえ。少し込み入った話になる」
ハルカは薄明かりの中、促されるままに革張りのソファーに座る。
「はっきり言おう。【ノスフェラトゥ】の長老が本気で巣作りをしているのならば、我々では止めることができない。僕らの運命は従属か滅亡かだ」
「奴らの流儀に従うなど、いや流儀なき奴らに従うなど死んだ方がましです」
ハルカははっきりと断言した。
「同感だ。僕もそう思う」
暗闇の中でうなずく気配がする。
「僕はどちらの運命も拒否したい。まだ滅びる気もないし、奴らに従う気もない」
伯爵も断言する。
「それでは、どうなさいますか? 危急時の盟約に従って【古き盟約】の他の領主の力を借りますか?」
「いや、それには及ばない。18世紀あたりならともかく、現代ではその盟約の効力は薄い。よほどの実利が無い限り、たとえ盟約があったとしても動いてはくれないだろうね」
「たしかに……」
【古き盟約】は名誉と義務を重んじる派閥だ。貴族のような体制をとり、互いに不可侵と非常時の協力を盟約しているためにそう呼ばれている。
しかし現代においては、義務よりも金欲や権力欲が先行しがちである。
ある意味で、非常に人間らしい吸血鬼の集団だといえる。
「しかし、【不死教会】に力を借りるのも上手くない」
【不死教会】は吸血鬼を咎人の末裔だと捉えている。いわく、不老不死は贖罪の時間らしい。彼らは神秘的で強力なアイテムを数多く保有しているが、教義に凝り固まって頭が固い。協力をとりつけるのは難しい相手だ。
「それでは如何に?」
伯爵はじっと動きを止め深い思考に入る。
ハルカは息を詰めらせながら、じっと待つ。
やがて、伯爵がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「遠海町の【ドラクル教団】の力を借りる」
遠海町は城賀市の隣町だ。
「教団ですか。たしかに彼らの魔術は強力ですが……」
【ドラクル教団】は吸血鬼を「魔術を使える人間」だと捉えている集団である。
彼らの魔術は準備こそ必要なものの、破壊にも探索にも優れている。
ただし、彼らは魔術の探求以外にはなかなか動かない。それが彼らの行動原理なのである。
「遠海町は元々【ドラクル教団】の版図だったが、近年【進化の環】がのさばってきている。【ドラクル教団】も【進化の環】の排除をはかっているが、人間の信者を多く抱える【進化の環】の排除は難しい。苦戦しているだろうよ」
【進化の環】は吸血鬼を霊長の進化だと捉えている集団で、支配や魅惑の能力を使う。そのため、数多くの人間の信徒を抱えている。魔術の探求をうたい、数を求めない【ドラクル教団】とは影響力が桁違いだ。
「僕ら城賀市の【古き盟約】と遠海町の【ドラクル教団】は昔から『良き不干渉』を貫いてきた。我々の資金力を提供し、【進化の環】排除の協力を約束すれば力を借りることができるかもしれないね」
「な、なるほど」
「それに彼らとて近隣に【ノスフェラトゥ】の巣ができるのは好ましくないはずだ」
「たしかに、次は我が身でしょう」
「【ノスフェラトゥ】相手に苦慮し、時間をかけすぎると、古臭い聖典を掲げる【不死教会】の干渉を招きかねないし、本格的な戦争になれば【純血旅団】の連中が介入してくることは間違いない」
純血旅団はヴァンパイアの傭兵集団だ。全貌は明らかになっていないが、戦争に介入し、破壊と略奪を行なう、と言われている。
伯爵は強く言う。
「僕らは、【ノスフェラトゥ】の『巣』が完成するまでに速やかに彼らを排除しなければならない。そうだろう?」
「はい。その通りです」
「では、まずは交渉だ。ハルカ、遠海町に赴き、【ドラクル教団】の協力をとりつけてきてくれたまえ」
「そのような大役を私が?」
「彼らは世代を気にしない。むしろ、何ができるか、何をするのかを重視する。その点ハルカは適していると思うね。下手な第四世代よりハルカはずっと有用だ」
「ありがとうございます。わかりました。至急向かいます」
「頼むよ。僕の血族に被害が出てからでは遅い。そうなったら全面戦争だ。全面戦争になる前に先制攻撃をしなくては……我々に勝ち目はない」
「はい。お任せください、伯爵様」
「親書を準備しよう」
パチン
伯爵が指を弾くと、封筒、便箋、封蝋、ペンがローテーブルに現れる。
パチン
そしてもう一度指を弾くと、ペンがひとりでに動き、便箋に文字をつづっていく。文字をつづり終えると、やはりひとりでに便箋が封筒に収まり、封蝋で封じられる。
「僕の親書だ。これを持って行き、ジョシュ侯に取り次いでもらえ」
「ジョシュ侯?」
「僕の古い友人だ。現在の『良き不干渉』を結んだ立役者の1人さ。彼なら今回の事態を受けて動いてくれるはずだ」
「分かりました。それでは、行って参ります」
ハルカは親書を懐にしまうと、席を立ち一礼をする。そして、扉を開けて伯爵の部屋を後にした。
「【ノスフェラトゥ】か……よりにもよって悪鬼共が侵入してくるとはな」
ハルカが去った後、伯爵は一人呟いた。
そして、
パチン
伯爵が指をはじくと、別のワインボトルが浮き上がり、伯爵の元へとやってくる。
伯爵は中身をグラスに注ぎ、少しずつ飲む。
「【ノスフェラトゥ】の狩りが始まれば、人間達はタダでは済まないだろう。ひどい目に合わされる者も出てくるだろう。そうでなくとも、不安におびえるだろう」
伯爵はのんびりと注がれた液体、人間の血を飲みながら呟きを続ける。
「果たして、人間はこの事態をどう過ごしているのだろうね。少し覗いてみたいものだ。
伯爵は誰もいない暗闇でゆっくりと目を瞑る。
そして、自身が忘れてしまった人間の生活へと思いを馳せた……。
人間の家族は、友達は、どうやって過ごしているのだろうか。
◆兄妹◆
照明が消され、物にあふれた人間の部屋。
壁際に寄せられたベッドの上にはやや長身の男が行儀よく寝ている。
寝ている男はこの部屋の主、前島カズヤだ。
カズヤは筋骨隆々とまではいかないが、締まった体躯をしており、5分刈の黒髪と合わさって、じゃっかん強面だ。ただし眠っているので、今は威圧感がない。
午前7時半、この時間まで部屋はまだ静寂に覆われていた。そして、
ジリリリリリ、ジリリリリ
けたたましい音をたてて目覚ましが鳴りだした。だがカズヤは起きない。
ジリリリリリ、ジリリリリ
15分後に2度目がまた鳴る。だがカズヤは起きない。
ジリリリリリ、ジリリ……
また15分後に3度目が鳴る……が、途中で止められた。
1人の女子が部屋に入ってきて目覚ましのスイッチを押したのだ。
ゆさゆさ
部屋に侵入した女子はベッドの上のカズヤをゆすった。
そして、そっと呼んで起こそうとする。
「お兄ちゃん、起きて」
起きないのでまだ続ける。
ゆさゆさゆさゆさ
「お兄ちゃん、起きて~」
段々と激しく。
ゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさ
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、起きてってば~」
声が大きくなり、小さな手がカズヤの体をゆする。
「早く起きないと、入学式に遅刻しちゃうよ」
しかし、カズヤはまだ抵抗を続けようとする。
「……あと5分」
「ダメ、今起きて~」
がすっ
女子にきっぱりと断られ、カズヤは枕を引き抜かれた。
しかし、それでもカズヤは寝ようと毛布にくるまる。
「起きて。起きて~。お―きーるーの~っ!」
すると、さらに揺すりが強くなってきて、しまいには女子はカズヤの上にのしかかる。
「起きて起きて起きてっ!」
カズヤの上に馬乗りになったまま、女子は枕でカズヤを殴打する。
「起きないならこのまま枕でノックアウトしちゃうからねっ!」
枕の殴打は段々と強くなってくる。
「起きないといっぱい叩いちゃうんだから!」
女子の声はだんだん楽しげになってきた。この行為自体を楽しみ始めている。
カズヤもさすがに耐えきれなかったようで、
「うるさいっての!」
カズヤは叫び、がばっと布団をはねあげて起き上がろうとする。
「うぎゃっ」
布団ごとのしかかっていた女子を跳ね上げると、女子は後ろに倒れる。カズヤはその顔を確認しようと、女子に覆いかぶさって覗き込む。
「あっ痛っ、たっく…なんなんだよ……」
呟きながらね寝ぼけ眼を開けると、カズヤの下に制服の美少女がいた。
上半身は緑のブレザーに白いブラウスとクリーム色のベスト。下半身は黒と緑のチェックのブリーツスカートに丈の短い白い靴下。いずれも上品ながらもガーリッシュで快活な印象を与える。
その女子は目鼻立ちも整っている。大きくて少し吊り目気味な目が印象的だ。
髪型は横から後ろまでを一括りにして、大きなシニョンを結ってシュシュで留めている。
カズヤからしてみると、美少女が自分の部屋にいる。むしろ自分の下にいる。これは夢か幻かといった状況である。
「おっ、お兄ちゃん。どいて……」
だが、組み敷かれた女子がカズヤのことを呼ぶ。
そこでカズヤは気づいた。
「何だ、空佳じゃねえか」
そう、彼女はカズヤの実妹の前島空佳。読み方は「まなか」だ。いつも朝に起こしてくれたり、朝食を作ってくれたりするありがたい妹だ。
「な、なんだじゃないよお兄ちゃん。いったい何するの」
彼女は組み敷かれたまま声を発する。
「まったく、だまされかけたぜ……」
カズヤはゆっくりと手を放し、空佳の上からどく。
「びっくりしたぜ……謎の美少女が俺の前に現れたのかと思った」
「びっくりしたのは私だもん。わざわざ起こしに来たら中々起きなくて、お、押し倒されて……」
空佳はゆっくりと起き上がる。
「服と髪型と化粧が違うだけでこんなに変わるとはな……女子は怖い」
「いきなり倒してきて、その言いぐさ酷いよ」
空佳はちょっと不機嫌になる。
そこでカズヤは言った。
「髪、髪型変えたのな。そっちも似合ってるぜ。化粧もいい感じ」
とりあえず女子は髪をほめろ。カズヤは祖父からそう言い聞かされている。
「に、似合う……?」
どうやらこれは脈があったようで、期限が普通に戻ってきた。
「似合う似合う、超似合う」
「そ、そこまで言われると照れるかも……」
カズヤは、半分はお世辞だが、半分は本気で言っている。正直、活発な空佳にぴったりなコーディネイトだとカズヤは思った。
「そ、それより早く、着替えないと」
まだちょっと頬の紅い空佳がカズヤに言う。
「あ、ああそうだな。お前の晴れ姿拝まないとだもんな」
そう、今日は入学式。カズヤにとっては、同じ高校に妹が入学してくる記念すべき日だ。
「それじゃ、着替えたら降りて来てね。朝食は準備できてるから」
「おう、ありがとな」
空佳はパタパタと部屋を出て行った。
一人残されたカズヤは呟く。
「いや、変わりすぎだろ。中学の時とさ。高校生になるって怖ぇな」
そう言いながらおもむろに着替え始めた。
空佳の作った朝食を食べたところで、2人は一緒に家を出る。
「お兄ちゃんと一緒に学校に行くのって、久しぶりかも」
「まあな。中学校以来だから……2年ぶりか」
「そうだね。でも、また一緒に通えてうれしいな♪」
そう言いながら空佳は半歩カズヤに近づいてくる。
「歩きにくい。離れろって」
「えー、ひどい。そんなこと言ってると……えい!」
空佳はカズヤの腕に自分の腕を回して腕を組んだ。
「えへへ……」
そして満面の笑みを浮かべる。
「いやいや、高校生にもなって妹と腕を組んで登校とかないから。離れろって」
「えー、いや」
「何でだよ」
「だって、お兄ちゃん温かいもん♪」
「俺はカイロ代わりかよ……」
「カイロより、もっと温かいよ……♪」
そういいながらしっかりと腕を回してくる。
「むぅ……」
カズヤが対応に困っていると、正面から人影が現れる。
「よ、カズヤ。今日もシスコン全開だな」
「マコト……これはブラコンだ。俺はその被害者だぜ」
現れた男子は西野マコト。カズヤの同級生にして親友だ。
「おはようございます、マコトさん」
「おはよう、空佳ちゃん。今日は一段と可愛いね」
「ありがとうございます。お兄ちゃん、今日もなかなか起きてくれなかったんですよ」
「そりゃいけねえな」
「だから、これはお仕置きです」
空佳はさらにギュッと腕をからませてくる。空佳の胸がカズヤの腕に当たるくらいだ。
「ラブラブだねぇ。うらやましい」
「兄妹でラブラブでも得るものなんて何もないっての」
「そうか? こんな可愛い妹なら俺は喜んでラブラブするね」
半ば真剣な表情でマコトは言い切る。
「お前だって妹いるじゃん」
「いるけどさ。自分の妹はなんか違うじゃん」
「蛍ちゃんだろ。可愛いじゃん。十分」
すると、2人の会話に空佳が割り込んでくる。
「マコトさん、妹さんがいらっしゃったんですね」
「まあね。一つ下だから空佳ちゃんと同い年だよ。ウチの高校に入ってくるから、もしかしたら同級生かも」
「あ、そうなんですね。それじゃ、ぜひお友達になりたいです」
すると、カズヤがしゃべりだす。
「蛍ちゃん、ホントに良い子だよね。気立てもいいし明るいし」
「そうか? 俺からしたら生意気な妹だなぁ」
「お兄ちゃんはマコトさんの妹さんが好みなの?」
斜め下から覗き込むように空佳が質問をした。
「いや、別にそういうわけじゃねぇよ。ただ可愛いなって思っただけだ」
「ふーん、そうなんだ……」
「どうした? 何かあるのか」
「いや、なんでもないもん」
「ならいいけどさ」
そんな話をしていると、マコトの後方から1人の女子がやって来る。
気付いたカズヤが声をかける。
「おーい、蛍ちゃーん」
「噂をすれば影ってのはこのことだな」
マコトが呟く。
女子は身長150センチ程の女子で、高校の制服を着ている。髪は肩口で切り揃え、大人しい感じがする女の子だ。
「か、カズヤさん、お久しぶりです」
「びっくりしたなぁ。可愛くなってて驚いたよ」
「そんな、大げさな。昔と同じです……」
蛍は照れた様子でそっとうつむく。
「いや、本当にまじで可愛いって」
カズヤはなおもほめる。
「だってさ、よかったな蛍」
そう言いながらマコトは妹の肩をたたく。
蛍はさらに赤くなり、上目遣いでチラチラとカズヤを見る。
「…………」
空佳はその様子をじーっと見ていた。
「おっと、そうそう。空佳ちゃん、こいつ俺の妹の蛍。ほら昨日言っただろ。別のクラスだったみたいだけど、同じ学年だし仲良くしてやってよ」
「あ、あの……西野蛍です。よろしく、お願いします」
そう言って蛍は空佳にぺこりとお辞儀をした。
「……私は前島空佳。こちらこそよろしくお願いしますね」
じっと見た後、それに合わせて空佳もお辞儀を返す。
「よかったな友達ができて。いやー、蛍はなかなか奥手でさ。彼氏どころか友達作るのも苦手なんだよね」
「ご、ごめんなさい」
マコトの軽口に蛍はちょっと凹む。
「そうなんだ。でも蛍ちゃんみたいに可愛い子なら周りが放っておかないと思うけど。『週末どう?』とか聞かれない?」
「き、聞かれないです」
「本当に? それなら俺が誘っちゃおうかな。週末どう?」
「え、えっと、今週は用事が……」
カズヤの冗談に真面目に返す蛍。
「いやいや、冗談だって。でも、気が向いたら遊びにいこうぜ。今度新しい水族館とかできるしさ」
「そ、そうらしいですね」
「そしたら行こうぜ。な?」
「は、はい……ぜひ」
カズヤの誘いに蛍もまんざらでもない様子だ。
「…………」
そんな様子を空佳は静かに見守っていた。
そして4人が登校すると、すぐに入学式が始まった。
内容はごく普通のものである。校歌斉唱、在校生からの祝辞、新入生の答辞、そしてお偉いさんのお話。進行もつつがなく、1時間もかからなかった。
授業も、ホームルームだけで終わりである。
「さて、どっか遊びに行こうぜ」
マコトがカズヤを遊び誘った。
「いいぜ、どこ行く?」
「とりあえずカラオケ行こうぜ、カラオケ」
「いいねぇ。たまには全開で歌うか」
「カズヤは歌上手いもんな」
「よっしゃ、行こうぜ!」
「おうよ」
2人は手早く荷物をしまうと、意気揚々と出かけたのであった。
訪れたのは街の繁華街。
カラオケ店はもちろん、電器店、大型書店などが集まっているエリアである。
「さすがにこの時間だと人が少ないなぁ」
マコトが周囲を見渡しながら言った。
「平日の昼間だからな。空いてて助かる」
「たしかに。混雑は勘弁だわ」
マコトは大仰なリアクションをとりながらそう言った。
「ん……?」
すると、カズヤがふと気づいて足と止めた。
「どうした、カズヤ」
「あそこ、あそこ見てみ」
「あそこって何が……?」
怪訝な表情でマコトはカズヤが指差した方向に目を向ける。
「ありゃなんだ。なんであそこだけ人だかりが?」
「気になるだろ?」
「ああ、たしかに」
「ちょっと見にいってみようぜ」
「そうだな」
カズヤの提案にマコトは乗った。二人して人だかりを見に行く。
どうやら人だかりは細い路地の前にできているようだ。
2人は人の合間をぬって路地を覗き込む。
すると、そこには屈強な警察官が1人立っており、黄色いテープが張られていた。また、そこから奥が見えないように青いブルーシートが路地全体を覆っている。
平日の繁華街で、そこは一際異彩を放っている。
青い制服を着た警察官が、あるいはスーツ姿の私服警官が、入れ替わり立ち代わり現場に入っては出てくる。
テレビで見るような鑑識班も沢山来ている。
それを見て事件がないと思う方がおかしい。
「なんだろ、何か事件でもあったんかな」
「だろうな。だから集まってたのか……」
2人は興味を持ったが、いかんせん警察に封鎖されていてはどうしようもない。しばらく観察していたスーツをきた女性や主婦も徐々に散っていく。
「まあ、あれだ。カラオケいこうぜ」
「そうだな……ここにいてもしょうがないな」
再度カズヤの提案にマコトは乗った。
2人は近くのカラオケボックスに入った。
3時間後。
カズヤはマコトと歌った後、のんびりと帰宅した。
家に近づくと、ふんわりといい香りが漂ってくる。
「ただいまー」
「おかえり、お兄ちゃん」
いつものように空佳が出迎える。
「ごはんできてるよ。一緒に食べよう♪」
「おう。もう腹ペコだぜ」
そして、今日も2人の晩御飯が始まる。
ちなみに2人に両親はいない。数年前に事故で亡くなってしまったのだ。今は、両親の割と高額だった両親の生命保険と国の補助で生活している。
事故当初は、2人が小学生だったため、母親の祖父母の家で育てられていた。しかし、空佳の中学生入学を機に、2人は両親と暮らした家に戻ってきている。祖父母が頻繁に様子を見に来るが、基本二人だけの生活である。
「今日のごはんはどうかな? けっこう自信作なんだ~」
メニューは金目鯛の煮付けに肉じゃが、それにほうれん草のおひたしだ。シジミの味噌汁もつけてある。
「うまいよ。うん、うまい」
「えへへ~。うれしいな」
「しっかし、気づいたら空佳も高校生か。時が経つのは早いなぁ」
「そうだね……早いかも」
「だよな。この数年、ホント一瞬だった気がする」
「私もそう思う。もうすぐ私もお兄ちゃんも結婚できる年齢になっちゃうんだよ」
「男が18で女が16だっけか。だいぶ大人に近づいたのかな」
「きっとお父さんもお母さんも私たちが結婚して幸せになるのを楽しみにしてるよ」
「かもな……」
2人は箸を止め、しばしの感慨にふける。
空気がしんみりしてしまったので、カズヤは空気を変えようとテレビのスイッチを入れた。ちょうどニュース番組をやっている。
「本日11時頃、城賀市で身元不明の遺体が発見されました。死体は損傷が激しく、警察が身元確認を急いでいます」
そして画面がアナウンサーから現場の映像に切り替わる。
「遺体が発見されたのは城賀駅周辺の雑居ビル街。ビルとビルの間の細い路地に遺棄されていたとのことです」
その映像を見ていたカズヤは、ふと思い出す。
「あれ、ここって昼間の……」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ここ、昼間通ったわ。マコトと一緒に」
「そうなの? 最近物騒だよね。この間も似たような事件があったし」
「たしかに。城賀市で殺人事件が結構起きてる気がする。もしかして連続殺人犯の仕業だったりしてな」
「そ、それは嫌だな……こわい」
空佳は両手で自分の体を包み込み、身体を震わせる。
「冗談だって。でも気を付けろよ。本当に物騒なんだから。夜中の一人歩きとか絶対にダメだからな」
「うん。遅くなる時はお兄ちゃんに迎えに来てもらうね」
「そうそう。とにかく気を付けないとな。俺たちは2人しかいないんだから」
「そう、だね……一人っきりは嫌だもんね」
再度2人の間にしんみりした空気が流れる。
そして、口数少なく残りの食事を片付けた。
そして、日付が変わる頃にカズヤはベッドに横になった。
ウトウトとしながらゆっくりと眠りに落ちて行く。
ギィ
しかし、丁度眠りに入ろうとしたその瞬間、扉の開く音で眠りは妨げられる。
「お、お兄ちゃん……起きてる?」
部屋の扉をゆっくりと開け、枕を抱えた空佳が部屋に入ってくる。服装は黄色にキリン柄のパジャマだ。
「ん、あ……一応」
カズヤは闇に沈みそうな意識を辛うじて繋ぎ止めて返答する。
「あ、あのね。夜ニュースを見てて、怖くなっちゃって……。い、一緒に寝ても、いい?」
抱えた枕に顔を埋めながら、をおずおずと空佳はベッドに近づいてくる。
「ん、いいよ」
半分寝ぼけたカズヤは端っこによってスペースを作りつつ、布団をまくり上げる。空佳が一緒に寝たいと言ってくるのは今回が初めてではない。不安を抱くたびにやってくるのでカズヤは慣れている。
「ありがと、お兄ちゃん」
空佳は枕をベッドに置き、ゆっくりと布団に入る。
「怖かったの。一人っきりでいるのが。一人になるのが」
「空佳……」
カズヤは妹の名前を呟きながら、そっと頭を撫でてやった。
「お兄ちゃんは、どこにも行かないよね」
空佳は両腕をカズヤの体に回し、ギュッと抱きつく。
「ああ、俺は行かないよ。どこにも。空佳の側にいる」
「絶対、だよ」
「ああ、約束する。だから安心して眠れ」
「うん。ありがと。おやすみ、お兄ちゃん……」
再度兄にお礼をいった少女は、ゆっくりと夢に落ちて行く。
「おやすみ、空佳」
カズヤは思った。
この街に何が起きているのかは分からない。
けれども、早く、誰か、何とかして欲しい。
自分と友人と、何よりも妹のために。
警察でも誰でもいい。事件を解決して欲しい。
そう思った。
やがてカズヤも枕に頭を落ち着け、眠気に体を任せていった。
◆吸血鬼Ⅱ◆
ハルカは隣町の遠海町に来ていた。
そして、ある建物の前に立っている。
町役場からタクシーで1時間、閑散とした住宅街が広がっている居住区にある大きな邸宅の前だ。少なく見積もっても10室はあるだろう。普通の民家が立ち並ぶ中で一際浮いている。
伯爵の下を去った後、家令のジェシカにここの地図を渡された。
それによれば、ここが遠海町を仕切る【ドラクル教団】の拠点の1つのはずである。
「城賀市の伯爵が使者、ハルカ・バークレーと申します。ジョシュ侯にお取次ぎ願いたい」
ハルカは頑丈そうな鉄扉の脇のインターホン越しにそう名乗った。服装は男物のブランのスーツに黒い革靴と革手袋だ。
「さて、どうなるか……」
ハルカは反応を待つ。
すると、
「少々お待ち下さい。確認して参ります」
と返答があった。
「分かりました。ここで待機しております」
ハルカは回答して、待つ。
4月上旬天気は曇り。風が少し吹いている。程よい気候だ。
ハルカのショートボブの栗色の髪が風にそよぐ。
ハルカは第5世代の吸血鬼であるため太陽の影響をほとんど受けないが、不快感がまったくないわけではない。快晴よりは曇り空の方が心地よいのだ。
「うまくいけば良いのですが……」
ハルカは不安げに独り言をもらす。
何しろ、今回の仕事は大役だ。城賀市に襲いくる【ノスフェラトゥ】を迎撃するためには彼ら【ドラクル教団】の力が不可欠である。
もし失敗したら目も当てられない。ハルカは【ドラクル教団】か伯爵のどちらかに処分されるか、あるいはされなくても【ノスフェラトゥ】に敗北して滅ぼされるだろう。
「さて、どう話を切り出したものか」
なおもハルカが独り言を続けていると、
「お待たせ致しました。どうぞお入り下さい」
抑揚のない声がインターホン越しに聞こえ、鉄扉がひとりでに動き出す。
「お邪魔します」
ハルカはゆっくりと邸宅に足を踏み入れた。
塀が高く中が良く見えなかったが、中は綺麗に整えられた庭園になっていた。色とりどりの花が咲き、噴水は美しい水をたたえている。
ハルカは周辺を観察する。
すると、数匹の犬が放し飼いにされているのが目につく。愛玩犬ではなく、軍用犬にも使われるドーベルマンだ。
そして、ハルカはその犬が普通でないことに気が付いた。
「この犬、吸血鬼?」
通常以上に長い犬歯、真っ赤に灯った瞳。ハルカは確信を抱いた。
「犬に吸血鬼の能力を与える。【ドラクル教団】の魔術の1つでしょうか」
訓練された軍用犬は銃器の無い人間では勝てない。その軍用犬を吸血鬼化させることで、さらなる戦闘力を持たせたのだろう。さぞかし強いに違いない。相手にはしたくない、とハルカは心の底から思った。
そうして庭園を歩いていると、
「伯爵の使者とは……また稀有なことじゃのう」
突然声が聞こえた。ハルカの真後ろから。
ハルカは咄嗟に前転し、素早く右手を懐に入れる。
そして振り向くと同時にナイフを引き抜。
果物ナイフなどとは比べ物にならない長さの、細い黒塗りのナイフだ。
ハルカはナイフを構えながら、現れた人物に目を向ける。
そこには、1人の老人がいた。
「そんなに驚くことはない。ここは儂の屋敷なのじゃから」
老人はそう言った。
「とりあえずその物騒なものは仕舞いたまえ。背後から声をかけたのは確かに儂じゃが、いきなりそれでは使者としての役目は果たせまい。それともそういう意図の使者なのかね」
老人はそう続けた。
ハルカは老人をなおも観察する。
外見は白髪の2メートルを超える長身の西洋人だ。外見年齢は60を超えているだろう。肌はしわがれ、鷲鼻が大きく突き出ている。おでこや頬にはイボがいくつも見える。
だがしかし、圧倒的に特徴的なのはその服装だ。
服装は着流しである。しかも、子供が何種類もの絵具をばらまいたような奇怪で無造作な配色をした着流しである。
正直、一度見たら忘れられない姿である。
美しい庭園、醜い老人、多色の着流し、もはや何が浮いているのか分からない。
そうしてハルカが警戒していると、老人が話し始める。
「やれやれ警戒されたものじゃ。まあ、初めて来る余所の版図で血族と出逢ったらそのような対応ありじゃろう。じゃが安心して欲しい、まだ儂と君は『不干渉』じゃ」
その言葉を聞いて、ハルカはわずかに警戒を緩める。
少なくとも、相手は城賀市の【古き盟約】と遠海町の【ドラクル教団】の間で結ばれた「良き不干渉」に関係する吸血鬼だと判断できたからである。
「失礼いたしました」
ハルカは警戒を完全に緩めたわけではないが、構えを解いて、ナイフを懐に収めながら立ち上がる。
そして一礼の後に口上を述べる。
「城賀市の領主、伯爵様の使者でハルカ・バークレーと申します。本日はジョシュ侯にお会いしたく馳せ参じた所存にございます」
すると、万色の着流しを着た老人は、鷲鼻を動かしながらこう答える。
「儂が、そのジョシュ侯じゃ。何用じゃ、小娘よ」
その発言と共に、老人はハルカに近づく。
すると、ハルカは、まるで濁った水の中にいるような、霧の夜に出かけるような、そんな見通しの悪さへの不安を感じる。
「お主、第5世代じゃろう。日中に歩けるのじゃからな。まさに小娘。儂に刃を向けるとは分不相応なことよ」
そこでハルカは気付く。
この老人はハルカより上の世代であるにも関わらず、曇っているとはいえ太陽の下で活動していることに。
「これは、【ドラクル教団】の魔術……?」
ハルカの呟きに、ジョシュ侯は返答する。
「その通りじゃ。これは《魔触の霧》。曇り日程度なら十分にさえぎれる」
ジョシュ侯は笑いながら続ける。
「お主ら【古き盟約】と違い、儂らは日々魔術の研鑽を積んでおる。能力の格が違うのじゃよ、小娘」
ジョシュ侯はハルカをあざ笑う。
そして、話を切りだす。
「して、何用じゃ小娘。伯爵の何の使者じゃ?」
「協力、共存のための使者にございます」
ハルカは完全に呑まれているが、何とか言葉を紡ぐ。
「こちらに伯爵様からの親書がございます」
そして、親書をジョシュ侯に差し出した。
「ほう、親書とな」
ジョシュ侯は親書を受け取ると、鋭い爪で封を切り、便箋を取り出す。
そして、便箋を読み始める。
「伯爵か……偉くなったものじゃな。他の第3世代を押しのけて領主になるとはのう。儂の知る伯爵はそこまでではなかったのじゃが。数十年前の話じゃがのう」
ジョシュ侯は独り言を呟きながら便箋を読み進める。
「なるほど。【ノスフェラトゥ】か。それは対処に困るじゃろうて。『良き不干渉』に一石を投じるのも頷けるわ」
ジョシュ侯は鷲鼻を撫でながら呟く。
「それに抜け目ないのう。儂らの苦慮を把握しておる。我らが【進化の環】の連中に辛酸をなめさせられていることをよく知っておるのう」
ジョシュ侯はさらに続ける。
「あの連中は儂らヴァンパイアを霊長の進化とかぬかしおる。儂らは特別な存在じゃ。人間なんぞと同じにされても困るというに。それが分からん連中じゃ」
「その【進化の環】を排除するための資金を我々は提供できます。かわりに【ノスフェラトゥ】と戦うための戦力を貸しては頂けないでしょうか? 【古き盟約】と【ドラクル教団】が組めば、【ノスフェラトゥ】にも対抗できるかと」
そう言うと、ジョシュ侯はしばし考え始める。
ハルカはじっと返答を待つ。
「いいじゃろう。我々の中から選りすぐりの魔術師を貸そうではないか」
「本当ですか? ありがとうございます」
「代わりに資金提供は速やかに行なってもらおう。とりあえず1億は見積もってもらわんと困るのう。もちろん必要があればそれ以上の額になろうが」
「分かりました。その旨、伯爵様にお伝えいたします」
「それでは、早速1人、我らが吸血鬼の魔術師を今宵にでも派遣しようぞ」
そう言ってジョシュ侯は振り向き、ゆっくりと屋敷に向かって歩を進める。
そして、後ろを向いたままハルカに言葉を投げかける。
「お主、なかなか気に入ったぞい。【ドラクル教団】に来ても構わんぞ」
「ありがたいお言葉。しかし私は【古き盟約】に従います」
「じゃろうな」
「それでは、また後日うかがわせて頂きます」
「うむ。良い者を用意しておこう」
「ありがとうございます」
そしてジョシュ侯は庭園を去り、ハルカは屋敷を後にした。
翌日の夜。
ハルカは再度ジョシュ侯の屋敷を訪れていた。
そして、明かりのない、月明かりのみの暗い庭園でジョシュ侯と会っていた。
「ジョシュ侯、ご機嫌麗しく」
「かっかっか。世辞は要らん。さっそく要件に入ろう」
ジョシュ侯は今日も着流しだ。ただし、色は夜に溶け込みそうな漆黒のものだ。
鷲鼻を動かしながらジョシュ侯は要件を伝える。
「【ノスフェラトゥ】との戦い、それに備えて腕利きの魔術師を揃えた。アンリエッタ、来るのじゃ!」
ジョシュ侯が大声で呼びつけると、建物から1人の女性が出て来た。
女性は、やはり白髪の西洋人だ。ただし、外見年齢はジョシュ侯よりもはるかに若い。20代前半ほどだろう。身長も155センチと小柄だ。
また、はっきり言って醜いジョシュ侯と違い、大変見目麗しい外見をしている。静かで落ち着いた佇まいと白磁の肌は均整のとれた大理石の彫刻を想起させる。
髪型や服装もジョシュ侯と違い至極まっとうだ。髪型はシンプルなもので、長い白髪を優雅にカールさせ、左右に流している。服装はシンプルに水色のワンピースに白のカーディガンだ。ヨーロッパの貴族令嬢だと言われても誰もが信じるだろう。
ジョシュ侯とアンリエッタを並べると非常に対称的だ。
「このアンリエッタは我々【ドラクル教団】の中でも屈指の魔術師じゃ。《炎の魔術》などいくつもの魔術を習得しておる。こと戦いにおいては【ノスフェラトゥ】とも戦えるじゃろう」
「ハルカさんですね。私はアンリエッタ。よろしくね」
そう言ってアンリエッタは手を差し出す。
「ハルカです。アンリエッタ様、こちらこそよろしくお願いします」
ハルカも手を差し出し、握手をかわす。アンリエッタの手は少し冷んやりしていた。
「様は結構。アンリエッタでいいですよ?」
アンリエッタは凛とした様子でそう言った。
「それでは、私もハルカで構いません」
「分かったわ、ハルカ。これからよろしくね♪」
2人はぐと手を握り合ったあと、手を放す。
「して、資金の方はどうじゃ? いくらまで出せるのかのう」
ジョシュ侯は早速取引の話を始めた。
「昼間のうちに伯爵様に確認して参りました。およそ一億は本日中に用意できると。それ以上の額であっても、月内には用意できるとのことでした。
伯爵は城賀市だけでなく、財界に強い影響力を持つ資産家だ。1億や2億を捻出するのはそう難しくない。
「結構結構。それでは、儂も他の魔術師を準備するとしよう。とりあえずアンリエッタで一億、と数えておくがそれでよいかな?」
「了解いたしました。伯爵様にはそのようにお伝えいたします」
「かっかっか。金払いのよいことよ。『良き不干渉』を破るだけの覚悟は持っていたということか。それもまたよしじゃ」
ジョシュ侯は腕を組みながら愉快そうに笑う。
「それじゃ行きましょう、ハルカ。まずは調査からね」
そう言ってアンリエッタは屋敷の片隅に止められた臙脂色のセダンに向かって歩き出す。
「車はこちらで用意したぞ。それも経費に数えておこう」
「助かります。私は運転ができないもので」
ハルカは一礼をする。
「種々のご高配感謝します。それでは、また」
ハルカは再度深々と礼をすると、車に向かって歩き出した。
車は新車だったのだろう。まだ真新しい車のにおいがする。中も殺風景で、余計な装飾品は何も置かれていたない。
アンリエッタは運転席でハンドルを握り、ハルカは助手席に座っている。
車は時速50キロ程度のスピードで国道を走っている。
「まずいくつか確認をしましょう、ハルカ」
アンリエッタは運転しながらハルカに話しかける。
「ハルカは第5世代、昼間も自由に活動ができるわね。だけど私は第4世代。昼間は活動することができないわ。ジョシュ侯の《魔触の霧》のように日中を動き回れる魔術も修得していないし。というかあんなこと第3世代のジョシュ侯にしかできないわ。必然的に調査は夜になるわね」
「分かりました。調査は夜に行ないましょう。日中の捜査は私が単独で行ないます」
アンリエッタはハルカの言葉にうなずく。
「それともう一つ。ジョシュ侯は、自分の魔術に【ノスフェラトゥ】と戦えるだけの力があるって言ってたけど、割と嘘よ」
「へ?」
ハルカはつい間抜けな声を漏らしてしまう。
「どういうことでしょうか?」
「私の魔術はたしかに【ノスフェラトゥ】を滅ぼすだけの破壊力があるし、【ノスフェラトゥ】を見つけ出すだけの捜索能力もあるわ」
アンリエッタはハンドルを緩やかにきりながら話を続ける。
「ただし、それは時間がある場合だけ。私の魔術は詠唱や儀式が必要なの。だから奇襲に対して咄嗟に発動できるものではないわ」
「なるほど……そういうことでしたか」
ハルカは納得した様子で頷く。
「なので、【ノスフェラトゥ】との戦いはこちらが先制をとらないと危険ということよ。それは理解をしておいてね」
「分かりました。十分に注意します」
信号が赤になったので、アンリエッタはきゅっとブレーキを踏む。
そして懐からタバコをとりだしてくわえ、同じく取り出したライターで火をつける。
お嬢様のような服装をしながらタバコ吸う姿は少し違和感を与える。
「他の派閥が思ってるほど我々【ドラクル教団】の魔術は汎用性が高いものではないわ。火をつけるなら《炎の魔術》よりライターの方が早い。その程度のものよ」
アンリエッタは煙を吐きながらそう言う。
そして、青に変わった信号を見て車を発進させる。
「それで、まずはどこに行くの、ハルカ?」
「そうですね……まずは【ノスフェラトゥ】の居場所を探るのが先決でしょう。アンリエッタは何か探索系の魔術は使えますか?」
ハルカの質問に、アンリエッタはタバコをくわえたまま答える。
「私は《捕捉の占術》が使るわ。1度見た相手なら、位置を特定することができるの」
「そ、それはすごい」
「それほどすごくないわよ。先程言った通り、私の魔術は発動が遅い。敵対者の顔を見なければいけないのでは使い勝手がよくないわ。それにジョシュ侯のように魔術に卓越した者には効きかないもの」
「ですが、『見ること』ができれば追うことができるんですね?」
ハルカがアンリエッタに確認をする。
「そうね。私が相手を見れば、ほぼ現在位置を捉えられるわ」
「ならば、問題ありません。1度車を止めて下さい。追跡を開始しましょう」
ハルカはそう言った。
「ん? 分かったけど」
アンリエッタは国道沿いの酒屋の駐車場に車を止める。24時間営業ではないらしく、店の明かりはついていない。人の気配もしない。
「今から、私の見たイメージを伝えます。それを元に、相手の場所を割り出してください」
「イメージ?」
「はい。私が観たイメージです」
そう言うと、ハルカは運転席のアンリエッタに顔を近づける。
「一体、何をするのよ?」
タバコの煙が直接吹きかかるほど近づいてきたハルカにアンリエッタは困惑する。
ハルカはゆっくりと自分の額とアンリエッタの額を合わせた。
すると、アンリエッタの眼前がもうろうとして、車の中とはまったく違う光景が広がる。
その光景は……
暗い繁華街の路地裏。
宵闇の中、1人の男性が女性に組み付いている。
女性は暴れるが、喉を潰されているのか、声をあげることができない。
2人の他にも、数人の男女がニヤニヤしながら取り巻いている。女性を助ける気配はまったくない。
そして、何とか振りほどこうとする女性に業を煮やしたのか、男性は女性の足を蹴りつける。ただ無造作に放たれたその蹴りは女性の足を折る……どころではなく、女性の足を根元からもぎとった。
「……っ」
女性の声なき悲鳴がこだまする。そしてそのまま女性は失神した。
男は動かなくなった女性を抱え、その首に……
そこでアンリエッタの視界は再びぼやけ始め、やがて元の車内に戻る。
「けほっ、どうでしたか?」
ハルカはタバコの煙にじゃっかんむせながら、ゆっくりと額を離す。
「今のは一体?」
アンリエッタはハルカに質問をした。
「今のは《記憶視》。第5世代の私が持つ唯一の能力です。その場所の記憶を垣間見る能力。そしてそのイメージを他人に伝えることができる能力です。
「ということは、今のは事件現場のイメージということね?」
「そうです。3番目の被害者の事件現場の持っているイメージです。最も鮮明に犯人の姿が映っています」
ハルカは煙を車外に出そうと窓を開けながら説明をした。
「なるほど。理解したわ。今のが犯人の姿ならば話は早いわね。《捕捉の占術》で位置を捉えましょう」
そう言うと、アンリエッタは地図を取り出して膝の上に水平になるように置く。城賀市全体の地図だ。
同様に懐から小さなビーズを取り出し、地図の上に置く。
アンリエッタは最期に煙を一吸いしてかあら、タバコを灰皿に押し込む。
そしてアンリエッタはゆっくりと目を閉じ神経を集中させる。同時に何やらぶつぶつと呪文らしき言葉を唱え始める。
「RIN、REN、RERAI、RIN、REN、RERAI……」
ハルカはその様子をじっと見ている。
「……RIN、REN、RERAI、RIN!」
アンリエッタは5分ほど同じ言葉を繰り返した。
そして、最後に強く発音すると、ビーズがゆっくりと独りでに動き始める。
アンリエッタは目を瞑ったまま集中を続けている。
「……」
ハルカは息を詰まらせ、じっと見守る。
ビーズはゆっくりと不規則に転がり、やがて地図の1か所でぴたりと動きを止める。
ハルカは横から地図を覗き込み、ビーズが動きを止めた場所を確認する。
「ここは……山の上公園?」
ハルカがそう呟くと、アンリエッタはゆっくりと目を開け、集中をとく。
ビーズはコロンと転がり、車内の床に落ちた。
アンリエッタは地図をしまいながらハルカに訊ねる。
「場所は分かったかしら?」
「山の上公園……ですね。平日や夜中は人通りがまったくない場所です」
アンリエッタは鷹揚に頷き、2本目のタバコを取り出す。
「それじゃ、少し様子だけでも見に行ってみましょう」
ライターを取り出してタバコに火をつける。そして、おもむろにブレーキを離し、車を発進させる。
「今から向かっても大丈夫なのですか。危険なのでは?」
「今夜は戦いの準備をして来てるわ。多少の人数ならば遭遇しても逃げるくらいのことはできるはず」
アンリエッタはハルカの心配にはっきりと答えた。
「それでは、行きましょう。ナビゲートお願いね」
アンリエッタはしまった地図をハルカに投げ渡すと、アクセルをぐっと押し込んだ。
それから1時間。
法定速度を大幅に上回るスピードを出しながら、アンリエッタは車を走らせた。
そして、山の上公園にたどりつく。
アンリエッタは何十台も止められそうな駐車場の真ん中に車を止める。
他に車は1台だけ止まっていた。
灰色のワゴンで、遠目からでは中は無人に見える。
「あれが彼らの足かしら」
「そのようですね」
アンリエッタが断定し、ハルカも同意する。
「【ノスフェラトゥ】は自分達の力を過信して、周囲に無警戒だと言われているわ。だけど、あくまでも噂。十分に警戒して進みましょう」
アンリエッタは4本目の煙草を灰皿に押し込むと、車を降りた。
「了解しました。警戒しましょう」
ハルカも連れだって車を降りる。
そして、2人は公園の探索を始めた。
だが、その探索はすぐに終わりを告げる。
駐車場からほど近い広場。
そこに無数の服が落ちていたからだ。
2人を除けば周囲に一切の人影はない。
そこにバラバラに落ちている服。
ジーンズ、Tシャツ、ジャケット、靴下、革靴、手袋、スカート。
様々なパーツが散らばっている。恐らく5人分程だろう。
普通に見ても不可思議な光景だろう。
だがしかし、この光景は吸血鬼にとって特別な意味を持っていた。
「これは、一体……」
ハルカは呆然とする。
吸血鬼が死ぬと、死体は塵となり、血潮は霧となる。死体は残らず、服と装飾品だけが残る。吸血鬼ならば誰でも知っていることだ。
つまり、ここに落ちている無数の服は、吸血鬼の亡骸を意味しているのだ。
「もう一度《捕捉の占術》を使ってみましょう」
アンリエッタは冷静に状況を分析する。
2人は1度車に戻り、アンリエッタが再度|《捕捉の占術》を使う。
「……RIN、REN、RERAI、RIN!」
長い詠唱と集中の後に、ビーズが……動き出さなかった。
アンリエッタは集中を解き、話を始める。
「どうやら、あの無数の服は【ノスフェラトゥ】の亡骸に間違いないわね」
「そんな、一体!?」
アンリエッタの言葉にハルカは驚愕を隠せない。
「私の《捕捉の占術》は先程まで反応したわ。だけど今は反応しない。それは、対象が能力を使って私の術を妨害したか、滅んだかのどちらかよ」
アンリエッタは淡々と告げる。
「そして長老でもない限り、【ノスフェラトゥ】に自分の術が妨害できるとは思いないわ。つまり、ハルカのイメージに存在していた吸血鬼は、滅んだことになるでしょう」
「さっきから今までのこの1時間の間に、何者かが【ノスフェラトゥ】の連中を滅ぼしたということですか?」
「私はそう思うわ。いや、それ以外考えられないわ」
残されていた服は5人分。つまり、ここには5人の【ノスフェラトゥ】がいたことになる。【ノスフェラトゥ】が5人もいたら、自衛隊の1個小隊がいても倒せないだろう。一方的な虐殺にしかならない。
「何者の仕業、いや仲間割れ……いや、そうでもなく」
ハルカは混乱していた。
【ノスフェラトゥ】が暴れまわっていることこそ想定していたものの、逆に【ノスフェラトゥ】の一団が滅ぼされるなど想定外だ。
「一体、何が……どうしたらこんなことに」
焦って混乱するハルカ。
アンリエッタはタバコを取り出して火をつけながら、そんなハルカに冷静に声をかける。
「落ち着いて、ハルカ。こんな時の《記憶視》ではないの?」
その言葉に、ハルカは少し我を取り戻す。
「そ、そうですね。早速使ってみましょう」
ハルカは眼鏡をはずし、集中する。
やがてゆっくりと景色がぼやけ始め、場所の記憶が明らかになる。
◆Ⅶ◆
赤が舞い散る。
赤が跳ね飛ぶ。
金色の鎌が振るわれるたびに、赤い物が弾ける。
少女が踊ると、赤い飛沫で覆われる。
それが少女の宴。
ついに宴は始まった。
ここは城賀市の山の上公園。昼も人はまばらで、夜ともなればまったく人気のない場所である。
そんな夜の山の上公園。
そこに赤いワンピースを着た金髪の少女が立っていた。
手には自分の身の丈を大きく超える長さの金色の大鎌を携えている。
少女の周囲は真っ赤に染まっており、いくつかの物体が落ちている。
そして、少女と向かい合うように2人の男と1人の女が立っていた。
「て、てめえどこの派閥の吸血鬼だ!」
「この版図の用心棒か? 【ノスフェラトゥ】を前によく立ったもんだ」
醜い姿をした男2人が声をあげる。
手にはそれぞれ巨大な鉄の棒を持っている。
「そんなことより逃げないと! 2人もやられたのよ!?」
後ろから女が声をあげる。
彼女の発言はもっともだ。5人で狩りをしていたら、突然少女が現れ、瞬く間に2人が斬り殺されたのだ。
「早く、早く逃げましょう。長老に知らせないと」
「うっせぇ。こんな小娘相手にひけるか!」
そう言い放つと、
ウヴォオオオオオオ
男たちはとてつもなく大きな声で人ならざる叫びを上げた。
すると、男達の体に変化が起きる。
男達の筋肉が盛り上がり、身体が一回りも二回りも大きくなる。服は破れ、身長にして3メートル程になった。さらに顔にも筋肉が盛り上がり、顔のパーツがゆがんで醜悪な外見になる。
巨大化した男達はしゃがれた声で叫ぶ
「みダガ! ゴれが《剛力》ダ。おデ達をてギにバわしダゴドを後ガいさゼデやウ!」
3メートルになった男2人はもはやまともに言葉を発せない。それほど筋肉が異常発達していた。
「ジねぇ!」
2人は同時に少女へと殴りかかる。
少女は動かない。
「ジヤイァ!!っ!」
もはや言葉でもなんでもない掛け声とともに男達の腕が地面に叩きつけられる。
地面はヒビ割れ、土砂が吹き飛ぶ。
その一撃は車をゆうに押し潰すだろう。それほどの威力だ。
「ジドベアが……」
化け物と化した男達はゆっくりと腕を引き戻す。
その時、
「13番目の仔等に、滅びを」
美しい声が響き渡り、空に金色の三日月が輝く。
「ダん、ラと!?」
少女ははるか高く飛び上がり、腕をかわしていた。
そして、そのまま重さがないかのように落下する。
「ヴォのレェ!」
男達は落下してきた少女に再度攻撃をしようとする。
しかし、それは遅かった。
ボトッ
「ウァれ?」
ボトボトッ
「ウァれれ?」
ボトボトボトボトッ
「ヴ、ヴぉあ……」
ドサッ
少女は着地したと同時にすでに刃を振り終えていた。
男達が殴りかかろうとした時には、すでに彼らの体は斬り落とされていたのだ。
「きゃ、きゃぁぁぁあぁ!」
残った女は走って逃げようとする。
ドサッ
「え……?」
女が走ろうとした瞬間、女は転んだ。
いや、正確にいえば足首が斬り落とされていた。
「そ、そんな、バカ……」
ヒュバ
女性が言葉を言い切る前に、その首が大鎌によって断ち切られた。
「13番目の仔等に滅びを」
少女は再度その言葉を唱えた。
こうして少女の今宵の宴は終わりを告げた。
だが、宴は終われでも舞台は終わったわけではなかった。
「な、なんなんだ」
少女の宴、すべての血族が滅びる中、独りだけ無事な者がいた。
人間である。吸血鬼達によって狩られ、拉致されて来た人間の男だ。
「お、お前ら、一体何者なんだ」
その声に反応するように少女が振り向く。
緩やかに吹く風が金髪を揺らし、刃が月光を反射して光を放つ。
「私はカインの7番目の使徒。吸血鬼の処刑人。彼らは13番目の使徒の仔等。裏切り者の末裔」
少女は美しい声で、無表情でそう言った。
「【古き盟約】も【不死教会】も【ドラクル教団】も【進化の環】も【純血旅団】も【ノスフェラトゥ】も【はぐれ者】もみんな斬る。それが私」
「なんだよ、それ……」
男は、その浮世離れした光景に、意味の分からない言葉に、そして目の前の少女の存在に、何も言い返せない。
ただ、男は思った。
この少女は美しいと。
真っ赤に染まった公園に佇む少女。そのワンピースもまた赤く、地面の赤と相まって裾の広がったスカートにも見える。
その金髪は細くしなやかで、同じ色の大鎌と共に綺麗な月の色をしている。まるで地上に降りてきた月光のようだ。
男は惹かれているのか、畏れているのか、それすらも分からない。
やがて少女は大鎌を一振りして、歩き出す。
ここの小さな宴は終わった。また別の宴を探しに歩き出そうとする。
男は何かを伝えたかった。
なので、叫んだ。
「俺は、俺は前島カズヤ」
少女は振り返らない。
「名前を聞かせてくれ!」
カズヤは叫ぶ。
しかし、少女の反応はない。
そして、少女は去って行った。
残されたカズヤは一人で呟く。
「一体何がどうなんてんだ」
周囲を見渡す。
夕暮れ時、カズヤを連れ去った5人の男女が肉塊と化して転がっている。
あまりの絵面と臭気に吐きそうになる。
だが、カズヤが戻す前に、不思議なことが起きた。
転がっている死体と一面に広がる赤い海が消えて行くのだ。
厳密にいえば、肉片が塵になり、血液が霧となって蒸発していく。
「な、なんだよこれ」
周囲は塵と霧に覆われるが、すぐに風に吹き飛ばされていく。
十分もたたずして、肉塊と血潮は消え失せ、風のもとで姿を完全に消した。
残ったのは彼らが着ていた洋服だけである。
「こ、これは夢だな」
今度こそ本当に独りになったカズヤは結論を出す。
これが夢以外の何であろうか。
「さてと、帰るとすっか。遅くなっちまったから空佳が心配してるだろうな」
そして何事もなかったかのように日常に還って行こうとする。
人間として当然の反応だ。
カズヤはそのまま公園を出て、家路についた。
振り返ることなく。
◆兄妹Ⅱ◆
カズヤの帰宅は深夜になってしまった。
山の上公園からのバスは既に終わっており、歩くしかなかったからだ。
家に帰るころにはクタクタで、すぐに寝てしまった。
街角で拉致されて、リンチされるかと思いきや、少女が乱入。
大鎌を振り回して拉致犯を惨殺。
そんな夢を見たのかもしれないし、見なかったかもしれない。
とにかくぐっすりと寝た。
何しろ、明日は大切な約束がある。
翌日の日曜日。
世間一般では休日で、多くの人がレジャーに出かける曜日である。
人が多くてごったがえすることが分かっていても皆出かけてしまうものである。
カズヤと空佳の兄妹も例外ではなかった。
「ねぇ、見てみてお兄ちゃん。この仔かわいい~♪」
「ああ、小さくてかわいいな」
2人が来ているのは小さな動物園だ。
城賀市立動物公園。30年余りの歴史ある動物園である。
ただし、施設の老朽化や維持費の削減などで全体的に元気がない。お客も少なく、日曜日だというのに閑散としている。
「ああ、どうしてウサギってこんなに可愛いのかしら♪」
「どうしても何も、小さくて人懐っこいからとか?」
「違うわよ、お兄ちゃん」
「そうなのか?
「ウサギが可愛いのは生まれながらにしてウサギだからよ」
「なんじゃそりゃ」
今2人は「ふれあい広場」と名付けられた施設にいる。ここでは、ウサギやハムスターといった小動物に直に触ることができる。来客が多いとはいえないこの動物園で、賑わっている数少ない場所だ。
「ほら、おいで~♪」
空佳は今度はハムスターを手に置いて腕の上を歩かせる。
「ウサギは生まれてからずっとウサギだし、ハムスターはハムスターなの。可愛いことは生まれながらにして決まってるの。たぶん」
「じゃあ、可愛い子は生まれながらにして可愛くて、不細工はずっと不細工ってことか?」
「そうは言ってないよ~。ただ何となくそう思っただけだもん♪」
ハムスターを撫でながら空佳が答える。
「人間はなぜ人間なのか、それは生まれながらにして人間だから……なーんてこと言ってると哲学みたい♪」
「何も言ってないけどな、それ」
「そうかも~」
空佳はハムスターを地面に降ろして離す。
「行こう、お兄ちゃん♪」
空佳はカズヤの腕に自分の腕を回して引っ張る。
「次はどこ行くんだ?」
「んー、爬虫類館かな~」
「これまたマニアックなところに」
「でも、行ってみたくない、お兄ちゃん?」
「ふわもこからギャップがありすぎ」
「それじゃ、レッツゴー♪」
空佳はむぎゅっと腕を絡ませて兄を引っ張って行った。
カズヤの予想通り爬虫類館に人はいなかった。
少なかったではない。2人以外はまったくお客さんがいなかった。
そんな中、2人は何種類かの爬虫類を見て回る。
「ねぇ、見てみて! カメレオンだって。すごーい。足1本で立ってるよ」
空佳はここでもはしゃぎ気味だ。
「でも、不細工だよね。爬虫類って」
隣の蛇のケージを見ながら空佳が言う。
「どうして爬虫類が不細工か知ってる、お兄ちゃん?」
「どうせ、生まれながらにして爬虫類だから、とか言うんだろ」
「そう~。さすがお兄ちゃん。よく分かったね~」
「そりゃ分かるわ」
普通の兄妹のやりとりである。
しかし、カズヤは何か妹の様子に違和感を感じていた、
何かを気にしているような感じだ。
そして、カズヤにはその原因に心当たりがあった。
「ねえ、お兄ちゃん」
空佳が突然改まった表情になる。
「昨日はどうしてあんなに遅く帰って来たの?」
カズヤはやっぱり訊かれたか、という表情になる。
「夜の12時を回ってたよね。いったい何してたの?」
空佳の口調は穏やかだが、逃げを許さない芯の強さが含まれている。
腕もがっしりとカズヤに絡め、物理的な逃亡も許さない構えだ。
「それはだなぁ……」
「ちなみにマコトさんに連絡したけど、マコトさんも知らないって言ってたよ」
親友への情報収集を澄まされている。さらに逃げ道がなくなる。
「話せば長くなるんだが……というか話というか何というか」
カズヤは煮え切らない返答しかできない。
それもそのはずだ。
まさか本当のことは言えまい。
夕方、学校帰りに5人組の男女に拉致されて、夜の公園でリンチに遭いそうになった。
そこへ大鎌を持った少女が登場して、少女が5人を切り殺した。
ついでに5人の内2人は化け物と化していたし、5人ともが最期は塵になって消えた。
それが事実である。
だが、カズヤは真実を離せない。
そんな夢物語を語ったらただの変人だ。
大切な妹にそうは思われたくない。さてどうしよう。
「お兄ちゃんの考えてること、大体分かるよ。どうしても私に話せないことなんでしょ?」
「話せない、というか何というか信じてもらえないというか……」
すると、空佳は腕を絡ませる力を強める。
「お兄ちゃん、私、お兄ちゃんの言うことなら何でも信じるよ? たとえそれが夢物語であっても」
「夢やら偽やらならいいんだが……」
やむを得ず、カズヤは昨日の体験を語り始めた。
「昨日はさ、夕方カラオケとか行かずにそのまま帰ろうとしたんだよ。そしたら、5人組の変なやつらに絡まれてさ、山の上公園に連れてかれたんだよ。そこから何とか逃げ出して来たんだ」
カズヤはそれっぽく説明する。
「1人で逃げ出せたの?」
「すきを見つけてさ。全力疾走で逃げて来たんだ」
「そうだったんだ……危ないから、1人で歩いちゃダメだよ。男の人だって危ないんだよ」
「ああ、悪かった」
「でもよかったね、運よく助けてもらえて」
「まったくだ。危なかったぜ」
「お兄ちゃん」
「んん?」
「誰に助けてもらったの?」
空佳は蛇のように腕をがっちりと絞める。
「どうして隠すの?」
カズヤは自分の失策に気付いた。
「全部、話してよ」
空佳はじっとカズヤをみつめる。
「本当に心配したんだから……」
ちょっとだけ泣きそうになっているようにも見える。
「空佳……」
やむをえず、カズヤは本当のことを語った。
男2人が化け物に変身したことを。
塵と煙になって消えた5人の末路を。
そして、月に輝き血に舞った少女のことを。
「っていうわけなんだよ」
カズヤは自身も困惑しながら昨日のことをしゃべる。
「俺にもわけわかんねぇ。山の上公園に連れてかれたら、少女が乱入してきて五人を斬り殺しちまった。いや、殺したのかすら分からん。死体もなにもなかったし」
そんなカズヤの困惑をよそに、空佳は質問をする。
「そんなに綺麗だったの? その女の子」
「え、何か?」
その質問にカズヤはきょとんとする。
「だってお兄ちゃん、怖かったとか恐ろしかったとか言うよりも、女の子が綺麗だったことの方を言うんだもん。そんなに綺麗だったのかな~って」
「そうだったか?」
「そうだよ、お兄ちゃん」
空佳は断言する。
「それに、全体の話だけど……やっぱり夢なんじゃないかな」
「やっぱりそうかな?」
「どこから夢かは分からないけど、とにかくお兄ちゃんは山の上の公園で寝過ごしちゃったってことだよね」
「あー、そーなのかな」
「きっとそうだよ。心配しなくても平気だって♪」
「まあ、そうだな。気にしてもしゃぁないし」
「それじゃ、次の場所行こう。ここ気持ち悪いし♪」
空佳は疑問が消えてすっきりしたような表情でそう言った。
そして、カズヤに聞こえないように呟く。
「その綺麗な子って、どんな子なんだろ」
空佳は密かに思いを馳せる。
兄が綺麗と言った子はどんな髪型をしているのだろう。
兄が綺麗といった子はどんな服装をしているのだろう。
どんな口調でしゃべるのだろう。
兄の言葉から推測し、イメージする。
綺麗になりたいのは、女性すべての願望だから。
◆吸血鬼Ⅲ◆
日曜日の昼下がり。
カズヤと空佳は兄妹2人で仲良く動物園を周っている。
ハルカはその様子を遠目に見ていた。
「やはり、ただの人間のようですね……」
なぜハルカが2人を追いかけているのか。
その理由は昨日にある。
ハルカは昨晩、山の上公園で《記憶視》を使った、
その内容を要約するとこうだ。
暗く静まりかえった山の上公園。
そこには5人の【ノスフェラトゥ】がいたが、
1人の金髪の少女によって瞬く間に全員斬り殺された。
そしてそこには1人の少年がいて、少女に話しかけようとした。
これがハルカの《記憶視》の結果である。
重要だと思われる少女と少年の会話は残念ながら見ることができなかった。
ハルカは【ノスフェラトゥ】を一瞬で斬殺した少女の存在が気がかりでならない。
だが、アンリエッタの《捕捉の占術》では少女の居場所を捉えることができなかった。
少なくとも金髪の少女は能力を発動した【ノスフェラトゥ】を斬殺し、アンリエッタの魔術を弾く力を持っているのである。
これを警戒せずしてどうしようか。
しかし魔術が通用しない以上、少女の追跡はできない。
そのため、ハルカは《記憶視》に移っていた最後の登場人物、少年に目標を定めたのだ。
《捕捉の占術》で自宅を突き止め、朝から一人で尾行しているのである。
すでにプロフィールも調べてある。
名前は前島カズヤ。城賀東高校に通う16歳の少年だ。両親はすでに亡くなっており、妹と二人暮らしをしている。
当然吸血鬼との接点はない。一般人である。
一体、彼がどういう立場であの場にいたのかを突き止めなくてはならない、そのための調査である。
「しかし、この服はなれませんね」
ハルカは呟く。
今日のハルカの服装は尾行用だ。
いつものスーツ姿では目立ちすぎるので、今日は違う恰好をしているのである。
ブラウンのワンピースに白いカーディガン、眼鏡に革製のバッグを持った姿は着飾った大学生かOLに見える。
ハルカは慣れない服に落ち着かないが、仕方がないとあきらめて尾行をしていた。
「ふれあい広場の次に爬虫類館……趣味は微妙ですが、まるでデートですね」
腕を組んで歩く2人は事情を知らなけば恋人にしか見えないだろう。
「さて、どうしましょうか。接触したいところですが……」
できれば接触はカズマ1人の時が望ましい。この場での接触は難しいだろう。
ハルカはタイミングを見計らうことにした。
しかし、それから2日後。
ハルカは少し辟易としていた。
「なぜ、1人にならないのでしょう……」
2人は動物園で1度も離れなかっただけではない。
日頃、朝家を出てから夕方帰ってくるまでずっと一緒なのだ。
ちょっと寄り道する時も、買い物に行く時もずっと一緒だ。
一緒でないのは学校の授業中くらいのものだろう。
「さて、どうしましょうか。いっそ兄妹でいるところを問い詰めてもいいのですが……」
なにしろ時間をかけるわけにはいかない。
幸いか不幸かいまだに連続殺人事件は続いている。
その現場をハルカが《記憶視》で視て、アンリエッタの《捕捉の占術》で居場所を追う。この連携で近いうちに【ノスフェラトゥ】の『巣』の位置は特定できるだろう。
それまでに何とか不確定要素である金髪の少女を抑えておきたいのだ。
「やむをえません。2人でいる時に話を聞きましょう」
ハルカは覚悟を決めた。
伯爵から依頼を受けてから大分時間が経ったある日の夕方。
ハルカは慣れた男物のスーツ姿で街を歩いていた。
そして、1軒の住宅の前で足を止める。
そう、カズヤと空佳の家だ。
ハルカは単刀直入に本丸に切り込むことにしたのだ。
「……」
ピーンポーン
ハルカは緊張しながら呼び鈴を鳴らす。
すると、数秒後にゆっくりと扉が開かれ、隙間から少年が顔を出した。
「えっと、どちら様でしょう?」
「はじめまして。私、警官の田中ハルカと申します。今少しお時間よろしいでしょうか?」
ハルカは定職を持っていないが、表向きの戸籍と職業を持っている。それが田中ハルカであり、警官だ。警察手帳も念入りに準備してある。
「警官の方が、ウチに何のようでしょうか?」
少年、カズヤは明らかに不信感を持っている。
「3日前の山の上公園、と言えばお分かりになるでしょうか?」
「3日前……?」
カズヤは思い出す素振りをすると、すぐに驚愕の表情を浮かべる。
「なぜ、それを!?」
「失礼ですが調べさせて頂きました。カズヤさん、あなたは不思議な体験をしましたね?」
「え、え、えぇ……」
「その話、少し詳しく聞かせてはもらえないでしょうか?」
そう切り出したところで、玄関にもう1人の居住者が現れる。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ。どうしたの?」
白いワンピースにエプロンをつけた少女が廊下から扉の方に出てくる。
「あ、ああ、それなんだけど……」
「新聞屋さんか保険屋さん? ウチは結構ですから」
そう言って少女、空佳は扉を閉めようとする。
だが、それをカズヤが止めた。
「俺も聞きたい話があります。それを話してくれるなら、話します」
「分かりました。情報交換で構いません。よろしくお願いします」
ハルカは一礼して門の内側に入る。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫。この方は警察の方で、ちょっと話を聞きたいってだけだから」
「ちょっと、ならいいけど……」
空佳の力ない呟きを流しながら、カズヤは家にハルカを招き入れる。
「どうぞ」
「失礼します」
ハルカはもう一度一礼して家の中に入って行った。
家の中は心地よい匂いで満ちていた。
食卓には綺麗に料理が並べられ、いつでも食べられるようになっている。
「どうぞこちらへ」
カズヤはリビングのソファーにハルカを案内し、自身も座る。空佳もカズヤの横に座った。
「食事時に申し訳ありません」
「いえ、警察の方もお仕事お疲れ様です」
ちなみに、ハルカはわざと食事時を選んで来た。妹が料理を作っている間は、カズヤが応対に出てくる確率が高いからだ。妹が出てくると話を聞いてくれない可能性があった。
「お兄ちゃん、何のお話なの?」
空佳は不安そうに兄の腕にしがみつく。
その様子を見ながら、ハルカは言ってみる。
「できれば、カズヤ君と2人で話がしたいのですが」
そう言って2人の反応をうかがってみる。
「空佳、ちょっと部屋に戻っていてくれないか?」
予想通りカズヤは賛同してくれた。
だがしかし……、
「嫌。お兄ちゃんの側にいる。お兄ちゃんに関係ある話なら私も聞く」
予想通り空佳は賛同してくれなかった。
この2日間、カズヤが1人にならなかったのは彼のせいではない。空佳が彼から離れなかったからだ。故に、ここまではハルカの予想の範疇である。
やむを得ず、ハルカは2人の前で話をする。
「カズヤ君、3日前の夜、君は山の上公園にいましたね?」
「はい……いました」
「山の上公園には、灰色のワゴンで行きましたね?」
「はい」
「そして、それは望んでのことではないですよね?」
そう言いながらハルカは十数枚の似顔絵を取り出した。
「この中で、その日に見た人物はいますか?」
その質問に、カズヤは真面目に答える。
「この人と、この人と、それとこの人には見覚えがあります」
「お兄ちゃん?」
空佳は困惑気味に話を聞いている。
「では、単刀直入におうかがいします。彼らは死にましたね? あなたの目の前で」
ガタン
カズヤはソファを立ち上がり、転びそうになる、
「お兄ちゃん、落ち着いて」
空佳がぎゅっとカズヤに抱きつく。
「私が知りたいのはその犯人です」
相手を刺激しないように声色を調整しながらハルカは続ける。
「5人を殺した犯人は、自分のことを何と言っていましたか?」
ハルカはできるだけ平静に言葉を紡ぐ。
「その前に、その前に教えてくれ。あいつら、何者だ!?」
カズヤは体を震わせつつ叫ぶ。
「化け物、化け物だったんだよ! でっかくなって暴れて塵になって消えたんだよ!?」
カズヤは光景を思い出し、発狂しそうな思いで叫ぶ。
カズヤは、空佳にしゃべったときは少女の話が中心だったために大丈夫だった。しかし、こうして化け物になった5人組のことを考えると気が狂いそうになってしまった。
「お兄ちゃん、落ち着いて。大丈夫だから」
空佳はぎゅっとしがみついて兄をなだめる。身体を密着させて動きを抑えようとする。
「答えは簡単です」
ハルカは真実を語るのが早いと考えた。
「彼らは吸血鬼です」
真顔でそう告げる。
「吸、血鬼、だって……?」
「そうです。カズヤ君は吸血鬼に拉致されて、血を吸われそうになってたんです」
「そんなおとぎ話みたいな話、信じられません!」
兄を抱きかかえながら、空佳が叫ぶ。
「別に空佳さんに信じてもらえなくても結構です。カズヤさん、私の話を信じてもらえますか?」
コクン
カズヤは言葉無く頷いた。
「お兄ちゃん!?」
「ありがとうございます、それではもう一度質問させてもらいます」
ハルカはハードルを1つクリアしたことに安堵しながら言う。
「彼女、5人を斬り殺した彼女は何者ですか?」
「彼女、彼女は……」
カズヤは言いよどむ。しかし、言う。
「彼女の名前は知らない」
ハルカはその言葉にひっかかりつつも、その先を訊く。
「彼女は何者だと名乗ってましたか?」
「彼女は、第1世代の、7番目の吸血鬼だって名乗った。だから、あの5人が吸血鬼だってのも信じられる」
「第1世代?」
今度はハルカが驚く。
「そんな馬鹿な……」
ハルカはさらに訝しげな表情に変わる。
第1世代、その言葉からは不吉な予感しかしない。
「吸血鬼……何が何だかもう分かんねぇよ」
カズヤもまた力なくソファにもたれかかるように座る。
「お兄ちゃん……」
空佳はそっとカズヤの手を握った。
「もういいでしょう。出て行って下さい。警察だか何だか知らないですけど、訳の分からない話でお兄ちゃんを困らせないで!」
そう言って空佳は1度兄から離れ、ハルカの腕をつかんだ。そして玄関までひきずる。どこにそんな力があるのか分からない程の力だ。
ハルカも情報収集を完了したので特に抵抗しない。
そのまま外に引っ張り出されて放り投げられる。
「2度と私達の前に現れないで下さい!」
ガシャン
そう言って空佳は乱暴に扉を閉めた。
その夜。
ハルカはいつもアンリエッタとの待ち合わせしている公園に来ていた。
そしてハルカは珍しく輸血パックを手に取っていた。
第5世代であるハルカは吸血衝動をほとんど持たない。だが、このように精神が不安定な時は吸血衝動が膨れ上がるのである。
ハルカはパックにストローを刺し、ゆっくりと吸う。
ドロリとした液体が口の中にたまり、嚥下するたびに心のささくれが収まっていく。
「第1世代……」
ハルカは呟く。
ハルカは第5世代。アンリエッタは第4世代。伯爵や【ノスフェラトゥ】の長老でさえ第3世代だ。第1世代なんて言葉をハルカは耳にしたことがなかった。
「一体、この街で何が起きているんでしょう」
困惑と不安が心を染め上げていく。
ハルカの心が沈んでいる中、車のヘッドランプが近づいてくる。
そして、
バタン
臙脂色の車がハルカの前に止まり、アンリエッタが降りてきた。
「ごめんなさい。遅くなったわね」
謝罪の言葉を口にするが、すぐにハルカの様子に気が付く。
「どうしたの、ハルカ。気分が沈んでいるようだけど」
アンリエッタはハルカに近寄る。
「いえ、なんでもないです」
「何でもなくはないでしょう。顔色が悪いし、それにハルカが血を飲むのを私は初めて見たわ。一体何があったの?」
アンリエッタは心配そうに訊く。
「アンリエッタ、あなたは第1世代という単語を聞いたことはありますか?」
「第1世代、聞いたことはないわね」
「そうですか……いえ、何でもありません」
「本当に大丈夫? 休んだら?」
「少し気を当てられただけでしょう。ご心配なく」
「心配するなと言っても無理よ」
アンリエッタは、ハルカを車の助手席に座らせた。
「そんな時はドライブがいいわよ。気が晴れるわ」
アンリエッタはすっかりタバコ臭くなった車のエンジンをかける。
「何があったか知らないけど、今日は飛ばしましょう。情報の整理はその後で」
キーを回しエンジンをかける。
「とりあえず、海でも見に行きましょう」
アンリエッタは勢いよくアクセルを踏み込んだ。
一方、ハルカが去った後、カズヤと空佳は夕飯を食べた。
夕飯は少し冷めていた。
お互いに言葉はない。
食事は30分もかからずに終わってしまった。
普段なら、仲良く会話が弾み、つい食べるのが遅くなる。
1時間はかかっているだろう。
だが今日はその半分だ。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
2人それぞれに食べ終わり、それぞれ食器を片づける。
そのまま、カズヤは風呂の準備に、空佳は食器洗いに取り掛かる。
だが、それもすぐに終わる。
2人はいつものようにリビングのソファーに座る。
空佳はカズヤの隣に座る。
「お兄ちゃん……」
「真実だったんだな。夢じゃなかったんだ」
カズヤは淡々と言った。
「俺、殺されかかってたんだ。そこを助けられたんだ。やっぱり」
「もう、忘れよう? 後は警察の仕事だよ」
「そう、だな。だけど……」
カズヤは助けてくれた少女のことを思い出す。
「お礼、彼女に言えなかったな」
「??」
カズヤは明後日の方向を見上げ、空佳は首をかしげた。
(続く)