ヤマンバ
ヤマンバ
【離】
私は十代の頃、ヤマンバだった。
小麦の色も知らないくせに、小麦色の肌を求めた。あれは小麦畑の色ではない。焼き畑だ。
ラメ入りの白いアイラインとグロスを愛用した。もはや隈取と呼んでも差し支えなかった。
厚底サンダルの高さはそのままステータスと化した。天狗が履いた高下駄のようだった。
全ては正に若気の至り。当時の写真とプリクラはシュレッダーにかけた。
なぜあんな格好をしていたのか。他人に分析されるのは癪だが、自省するのはやぶさかでもない。
あれは差し詰め『流行への特急券』とでも言うべきもので、思うに、分かりやすかったのだ。
自分が何をしたいのかも、自分に似合うものも分からなかった。しかしヤマンバに似合うものはすぐ分かった。
私らしくはなかったがヤマンバらしくはあったので、それなりに最新ファッションを着こなしている気分に浸れたのだ。
事実、それらはニュースにも取り上げられ、最新ファッションではあったわけだ。
私はメインカルチャー。私は女子高生。私は主役。
けれど、ルーズソックスがラルフローレンのハイソックスにお株を奪われたように、流行は流転する。何より、私自身が変化してしまう。
潮時を感じたのは二十歳の時。
若い若いと思っていても、当然ながら私は高校生でなくなる。
今なお中高生は流行の発信源として各界から注視されるが、気づけば私はその枠組みから押し出されていた。
明らかに目下だった世代が主力になっていた。あいつらは、ついさっきまで小学生ではなかったか。
いや、私が歳を取ったのか。
いつまでもこうしてはいられない。
奮起し、アルバイト代を貯めて調理系の専門学校に通い始めた。
その後、飲食チェーン店の正社員になれた。
育てるべき部下ができると、人間は変わるものだ。自分の心配だけしていた頃は飄々としていられたのに。
仕事はハードだったがやり甲斐はある。そう自分に言い聞かせた。本心では、早く辞めたくなっていた。
年に一度の社員旅行を数回挟んだ縁で、本社勤務の男性と交際することになった。
直視してみれば、いつの間にやら我が身は既に二十六歳。結婚を真剣に視野に入れ始めた。
やがて婚約にまで漕ぎ付け、大手を振って寿退職した。
そして二年で離婚した。子供はなかった。
【破】
振り出しに戻った――というのは予断だった。
振り出しより状況は悪化している。これはリセットではない。クラッシュだ。
以前の職場には戻れなかった。
別れた夫と再び顔を合わせるのが気まずいからではない。単純に、採用基準が厳しくなっていたのだ。
かつては専門卒の私でも入社できた。今では四大卒が最低ラインに変更されている。年齢自体もすでにハンディキャップだった。
さらに離婚してみて初めて気づいたのだが、私はもう結婚に希望を見出せなくなっていた。
私にとって結婚とは、最終目標ではないにせよ、確実に一区間ではあった。次に繋がるステップだと捉えていた。
だが今、私は襷を渡す相手もおらず、手を差し伸べられても信用できず、一人で走りきることを想定されていないような永い距離を、ひとりぼっちで走ろうとしている。
しかも走りきったところで誰も祝福してくれまい。私自身が私を肯定できないのだから、そこに幸せはあるまい。
疲れた。
【守】
遠くの方から「大丈夫ですか」「しっかり。起きて」と聞こえてきた。世界は揺れていた。
目を覚ますと、私は押し入れのような四角い空間に置かれていた。押し入れと異なるのは、襖がない点。
頭が痛い。ぼんやりする。何か考えなくてはならないのに、思考が遅くなっている。
まずは重い身体を起こし、のそのそと廊下へ出てみる。窓があったが暗くて景色は見えず、今が夜だということくらいしか分からなかった。
廊下の突き当たりの脇から、オレンジ色の明かりが差し込んでいる。野球中継らしき声も聞こえる。
不気味さを感じつつも、勇気を出して角を曲がった。
そこには十畳ほどの座敷と小机、そしてテレビがあった。
テレビの前で恰幅の良い白髪の老女が煙草を燻らせている。
彼女は私の姿を認め、無愛想に言った。
「素泊まり一泊五千円也。抜いといたよ」
開口一番がこれでは、状況が掴めない。怒られそうな気もしたが、恐る恐る質問した。
「すみません。こちらは、あの……?」
「山小屋。あたしが主人。あんたは行き倒れ。ああ、どこにも連絡してないよ。こちとら慣れっこさ」
山小屋。行き倒れ。二語で察しがついた。
どうやら私は死に損なったらしい。
「お世話になりまして、ありがとうございます……こちらへは、ご主人が?」
そう言うと、彼女はげふぁげふぁと声を荒げた。笑ったのか、或いは煙草にむせたのか。
「お嬢ちゃん、あんた二十八だろ」
「え……」
「行き倒れがいちゃあまずは身元確認するもんだろ。その時に五千円だけもらった。勿体ない。死なせちまうくらいなら、うちで使い切ってほしいもんだ」
どうやら財布を見られたらしい。確かに、免許証を見れば年齢も分かる。
「そんな若いのに老眼たぁ難儀だねぇ。こんなババァに人が担げるとでも?」
「いえ。そうですよね。では、どなたが」
「常連のダンナがいてさ。どこぞの学者先生だったっけか。毎月若いの連れて登ってくるんだ。そいつらだよ。もう帰ったけど」
成る程。差し当たり、自然科学系のフィールドワークといったところか。
ともあれ私ときたら、運が良いんだか悪いんだか。ほとほと自分が分からない。
そんな思考を読んだように、老女はテレビに目線を戻して呟いた。
「あたしゃ七十七。ラッキーセブンだ。それにマイルドセブンを吸ってる。今年は特に運が良い。運が良すぎて他人様までラッキーになっちまうらしい。連中が来る月に一度のチャンスに、あんたが当たった」
「それはありがたいことですね」
上手い返しが思いつけず、つっけんどんな言い方をしてしまった。
気を悪くされたろうか。
「フゥ〜……」
彼女はマイルドセブンの煙を大きく吐き出す。
「煙草が体に悪いって本当なのかねぇ。この歳じゃあやりたいこともやれんし、とっととくたばりたいもんだ。くたばりたくてくたばりたくて、だからこうして緩やかに自殺してるってのに、まぁだお迎えがやってこない。こんなご時世だ、極楽も不景気で人手不足なんだろうよ」
この歳。くたばりたい。自殺。不景気。
彼女は自分のことを話しているはずなのに、言葉の殆どが私の方へ突き刺さってくる。
「悪いね。女は滅多に来ないもんだから、愚痴を聞いてもらうよ。野郎どもときたら、話を聞くっていうただそれだけのことができやしない。あの学者先生もだ」
「私で良ければお付き合いします」
すると老女はこちらを振り向き、朗らかに微笑んだ。
「あんた、旦那は?」
「……いえ……特には……」
嘘ではない。嘘ではないが、嘘をついた。
「よく聞かれるんだよ。『お孫さんは?』って。ババァがみんな子持ちだと思ったら大間違いさ。あたしゃ結婚なんてもの、したことなかった。ガキもいない。兄弟はくたばっちまった。あたしが死んで悲しむ家族はこっちにいない。あたしが死ねばまた会える家族があっちにいる。そうなってくると、何のためにこっちにいるんだかわからんね」
捲くし立て、煙草の吸殻を灰皿に押しつける。
「だからお嬢ちゃん、今度仏さんが誰かをお迎えに来る時は、あたしに譲っとくれよ」
「はい……」
なぜだろう。自然に答えようと努めても、声が震えてしまう。
「うーん……でもまあ、その前に片付けときたい問題もあるんだわ」
大きく伸びをして、欠伸混じりに彼女は言った。
「?」
まともな声が出なかったので、表情だけで聞き返した。
「山小屋は潰せない。登ってきてくれる人がいる限り。ただ、あたしにはほら、跡継ぎがいない。しかもね、女がいいんだ。野郎だけじゃ、たまに来た女も安心できないだろう? 男の従業員がいてもいいんだが、最低でも一人は女性が必要だ。そうだ、あんた。さっきも言ったよね」
「なん……でしょう……」
たとえ声が震えていても、聞きたかった。彼女の言わんとすることを。
「死なせちまうくらいなら、うちで使い切ってほしいもんだ。約束してくれるかい」
「はい……! ……約束します!」
ああ、そうだったのか。
声の震える理由がわかった。
風が吹いていたからだ。
私の胸の奥から、世界中に向けて、風が吹いていた。
私は十代の頃から、ヤマンバだった。