展覧会の誘い
二月中旬、私立大学に通う二葉宏明の大学は春休みに入ったばかりで、学内はいつもより静かだった。
どこからかわからないが、軽音楽部の練習している音が聞こえてくるだけだ。
宏明はバイクの駐輪場から図書館まで颯爽と歩いていく。
今日は調べる事があって本を借りようと思い、大学までやってきたのだ。
図書館に入ると、宏明は真っ先に目的の本が置いてある場所へと向かった。
本棚にはぎっしりと置いてある本を目的の本を探すのは容易な事ではない。
宏明は約七、八分で目的の本を五冊も見つけ、中身を確かめてから、二冊を借りる事にした。
図書館から出ると、学内にある自動販売機に向かう。
宏明が缶コーヒーを取り出し口から取り出した時だった。
「二葉君!」
背後から中年の男性の声で宏明を呼ぶ。
「あ、中谷教授、お久しぶりです」
宏明は軽く頭を下げる。
「今日は何しにきたんだ?」
「図書館に用がありまして…」
「そうか。僕の部屋に来ないか? 久しぶりにゆっくりと話もしたいからね」
中谷教授は日焼けした顔を微笑ませて言った。
宏明ははい、と返事をして、中谷教授の部屋へと向かった。
四階建ての学舎がいくつも並ぶ中を二人は時折、話しながら歩いていった。
大学内の一番奥にある学舎の二階に、中谷教授の部屋があった。
部屋の中は宏明が思っていた以上に広かった。
宏明は来客用のイスに座るとホッと一息ついた。
「二葉君、何か飲むかい?」
中谷教授はマグカップを二つ手に取り宏明に聞く。
「いや、さっき缶コーヒー買ったので…」
宏明は遠慮がちに答える。
「遠慮しなくていいんだよ。コーヒーか紅茶のどっちがいい?」
「では、コーヒーで…」
中谷教授は急いでコーヒーを淹れて、宏明の向かいに座った。
「二葉君は国文科だったっけ?」
「はい。国語の教師になりたくて…」
「そうか。いつから国語の教師になりたいんだ?」
中谷教授はコーヒーをすすってから聞いた。
「中二の時です。ちょうどオレのクラスに教育実習に来た大学生の人が、大きな影響を与えて、教師になりたい、って思ったんです」
「教師の道は厳しいけど自分を信じていくんだよ」
「はい」
宏明は希望に満ちた返事をした。
今、部屋のお邪魔している中谷教授は、宏明の父親の高校時代の部活の先輩で、宏明が大学の入る前から何度か会ったことがある人物なのだ。
宏明の父親と中谷教授の再会は、今から十年前の部活の同窓会で、再会してからは連絡を取り合い、年に何度か会っている。
中谷教授は史学科で、宏明の学科とは直接教えてもらう機会はないが、学内で会うと話しかけてきてくれるのだ。
「親父は元気しているかい?」
「はい、おかげさまで…」
「健康第一だからな。それより今月の二十五日は空いてるかな?」
中谷教授は立ち上がり、机に置いてあるカバンの中に手を入れながら聞いた。
「今のところは何もないです」
宏明は中谷教授に疑問の目を向けて答えた。
「実はね、国立記念博物館で日本史展覧会というのがあるんだ。一緒に行こうと思ってね」
パンフレットを宏明の前に差し出す中谷教授。
「史学科の生徒も何人か誘っているんだがね。まぁ、二葉君の場合、学科が違うからおもしろくないかもしれないが…」
中谷教授は苦笑いしながら言う。
「行きます。これも勉強なんで…」
「来てくれるのか。嬉しいな」
「オレ、まだ一度も国立記念博物館って行った事ないんです」
「それじゃあ、いい機会だな。午前中に行こうと思っているんだがどうだい?」
「大丈夫です」
宏明はパンフレットを机に置いてから答える。
「また時間が決まればこっちから連絡するよ」
「はい。オレのケータイの番号を教えます」
宏明はそう言うと、ケータイを取り出した。
中谷教授は紙に宏明のケータイの番号を書きとめた。
「生徒は何人来るですか?」
「今、誘っているのが五人なんだ」
「そうなんですか」
(意外と少ないんだな。もっと来るのかと思った)
「確実に二人は来るよ」
「その二人は返事したんですか?」
「うん。熱心な生徒でね」
中谷教授は嬉しそうに答えた。
それから、二人はひとしきり話をすると、宏明は中谷教授の部屋を後にした。
「日本史の展覧会?」
紀美は首を傾げた。
あのあと、宏明は紀美の家に遊びに行ったのだ。
宏明は学内の自動販売機で買った缶コーヒーを紀美に暖めてもらい飲んでいた。
「うん。史学科の教授の誘いでな。紀美も行く?」
「行きたいけどまだ予定がわからない」
クッキーの缶を開けながら答えた紀美。
「わかった。どっちでもいいよ」
「宏君、最近、元気ないことない?」
突然、紀美が聞いてくる。
「そうか?」
「宏君の友達みんな言ってるよ?」
紀美は心配しながら言う。
「思い違いだって。悩み事なんてない」
宏明はきっぱりと否定する。
「…ならいいんだけど」
紀美は少し沈んだ声を出す。
(きっとウソだよね。何か悩み事あるはず…)
紀美はそう確信していたし、自分が宏明の心の拠り所になれないことを悔やんでいた。
宏明のほうも悩み事はない、と答えたのだが、本当は悩み事があるのだ。
しかし、今は誰にも言えないのだ。
「ホントに悩み事があったら言ってね」
紀美は心配そうに言った。
「大丈夫だ。何かあれば言うよ」
宏明は心の中にある悩み事を隠して答えた。
二人の間に沈黙が流れる。
最近の二人には、こういう沈黙が多くなってきた。
こういう沈黙が多くなってきたからこそ、紀美にとって余計に不安になるし、宏明の支えになりたい、心の拠り所になりたい、と思っているのだ。
二年近くも付き合っているのもあるし、長く側にいすぎたんだ、と紀美は心淋しく感じていた。
(こんな感じになったのはいつからだっけ? ずっと前からだったような気がする…)
紀美は缶コーヒーを飲む宏明の横顔を見ながら淋しく思っていた。
「宏君、日本史の展覧会に行く」
紀美は思い切って言ってみた。
「えっ? 今、予定がわからないって…」
「いいの。他の予定が入っても行く」
紀美は強く言い切る。
「わかったよ」
紀美の言い切る姿に圧倒された宏明は思わず頷いてしまう。
今、日本史の展覧会に行かないと二人の気持ちが離れてしまうと考えた紀美。
「オレ、そろそろ帰るよ。また連絡するな」
優しく微笑む宏明に、紀美は少し安心感を覚えた。




