8月 雨宮紗莉
みへき様と知景様の入れ替わりを聞いてから私はドキドキして眠れない毎日を過ごしていた。
自分を見いだしてくれた理事長様と同室になるなんて、でもみへき様はこれから大変なお仕事をなさる訳で、そうでなくても叶財閥のお嬢様ということで危険もあると言うことだそうなので。
私にできることはなんだろうと夏休みの間ずっと考えて過ごしていた。
銅ランクの私が合唱部でできることはほとんど無く、掃除や奉仕活動を終えて部室に行くと部活は始まっていて私がすることはない。
無視どころか存在さえ認識されていなかった。
それなのに急にソリストに指名されるなんてあり得ないことだと思った。
私へのいじめはいつも存在を否定されることだった。
アルバイト禁止、男女交際禁止という掟がある銅ランクの学生寮。
成績不振者は即退学については、今年は温情措置が執られたらしいという噂を聞いた。
銅ランクの子たちは本当に良く勉強してる。
退学にならないために、親を悲しませないために、部活も楽しみも取られた銅ランクのお嬢様たちは寮に帰ると遅くまでずっと勉強していた。
私も彼女たちに負けないように勉強をがんばった。
そんな報われない1学期を終え世間では夏休みの頃になった。
銅ランクの学生寮の子たちもゆっくりと実家に戻り、奉仕活動の辛さから解放されるすばらしいバケーションを迎えるようだ。
私は「歌手になりたい」ただそれだけで都会に出てきたわけだから、夏休みだからと言って気楽に故郷に帰れるわけではなかった。
アルバイトでもしようかな。
もちろん禁止なのは分かっていたが、私にとって歌で稼いでいくということはアルバイトではなく修行の位置づけにされるのだった。
ここ桜華学園は広い敷地面積を誇る名門校で、周りには古くからある商店街と閑静な住宅街の中に建っている。
銅ランクの生徒が朝から掃除をしているためすこぶる評判は良く、エントランスに並ぶ高級外車の数々が桜華学園の朝の名物となっている。
この学園に娘を入れることが、密かな成功者の基準であるらしく銅ランクでもいいと毎年学生寮に多数の何もできないお嬢様が放り込まれる。
しかし、現実に待っているのはとうてい覆らない身分制度と奴隷のようにお嬢様たちの世話をする3年間だけだった。
夏休みの2日目、今日は当番は何もない気楽な一日。
私は初めてと行って良いほど初めて学園の外を歩いてみた。
商店街を歩いてみた。
立派なアーケードの下にたくさんの店が並ぶ。
昨今の大型デパートの出店で商店街は苦しいというのが世の常だが、この商店街はまだ活気があるようだ。
そんな中、私は運命の出会いを果たす。
一本路地に入った狭い道で、JAZZ喫茶を見つけたのだ。そのクラブの名前は
「CLUB SAKURA?」
と看板ドアの前に立っていると、一人の男の子が私に倒れてきた。
「きゃー」
悲鳴を聞きつけて、中から30代の女性が現れた。
「透也、起きなさい。しっかりしなさい。」
これが私と「CLUB SAKURA」そして佐倉透也との出会いだった。
「ごめんなさいね、このところバイトが立て込んでたみたいだから」
笑顔のステキな女性だった。
「ここは、なんのお店ですか?」
ふふっと少し笑って女性は答えた。
「ここはねえ、ジャズ喫茶。と言ってもねえもう潰れてしまったんだけど・・・」
お店の中には広いステージとグランドピアノ、ドラムセットも置いてある。
そして小さなバーとお客さんを迎えるソファやテーブルも見えた。
「けっこう流行ってたんだけどね」
女性は遠い目をしながら、たばこを吸っていた。
「透也はね、この店を復活させたいと思っているのよ。だから毎日体にむち打って働いて。」
軽い熱中症にかかっていた男の子を見ながらそう言った。
「この店はね。もう復活することはないのに・・・・」
誰に聞かせるでもなく、女性はつぶやいた。
「ありがとうね。それよりあなたなんか用事だったの?」
「あ、私は特に・・・。」
紗莉はつぶやいた。が、
「私の歌はここでは役に立ちませんか?」
と女性の目を見てまっすぐ言った。
「あんた歌えるの?歌手志望?」
上から、下まで見られて普段の子どもっぽい格好で来たことを公開し始めたとき、女性が
「じゃ、歌ってみて」
ピアノに移動した。
「私はね、ずっとピアノ一筋なの。ジャズって良いものよ。」
私は人前で歌うのがずいぶん久しぶりだと言うことに気がついた。
最後は大分を出る前に中学のみんなとのお別れ会でカラオケボックスに行って以来かなと遠い故郷のことを思い出した。
桜華学園に入学してから、満足な練習もできず掃除の時間に歌うことくらいしか練習していなかったことが悔しくなった。
それでも私は歌いたかった。
合唱部のランクの上の先輩たちにどんなにひどい仕打ちを受けても。
友だちが一人もできなくても。
そんなことはどうでも良かった。
私は歌いたかった。
私はピアノに合わせて歌っていた。
彼女のピアノは悲しみに寄り添ってくれる。
いつの間にか涙が止めどなく溢れていた。
「あ、ありがとうございました」
震える声で言って、店を飛び出していこうとした瞬間
「待って」
と腕をつかまれた。
そこで寝ていた透也と呼ばれた少年に。
少年と言っても私よりも年上だろう。
背の高い、そして細身の体に私はどきっとした。
「待ってくれ。」
「はい。」
「透也、気づいた?急にどうしたの?」
「ここで歌ってほしい。」
「え?」
「俺に力を貸してくれ。君がほしい。」
それだけを言うと、また彼はソファに崩れ落ちてしまった。
わたしは、そんなセリフを言われたことはなくて、驚いて体が固まったまま、握られた手をふりほどくことができなかった。
「私も気に入ったよ。あんたの歌声」
と女性が笑顔で言ってくれた。
「私は佐倉理子。ここで私たちを捨てて出て行ったダンナの帰りを待っている。毎日じゃなくて良い。時間のあるときに歌いに来て。あんたの歌には魂がある。あんたの歌なら客が戻ってくる。そういうふうに透也は思ったんだと思う。」
私は自分の歌がこの人たちを動かしたということが分かって、さらに涙が止まらなくなった。
アルバイト禁止、男女交際禁止という掟が目の前をちらついたが私はここで何もせずに寮に帰るわけにはいかなかった。
「お願いします。」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、都会に出てきて居場所を見つけられなかった私は初めて自分の居場所を手に入れた。
そして夢への大きな第一歩である歌のステージも手に入れたのだ。
私は涙が止まらなかった。
このステージから私は羽ばたき、そして新たな出会いが桜華学園に大きな影響を与えることを私はまだ知らなかった。