8・命
「矢萩!」
振り返ると、萩原紀が息を切らせて走ってきた。
「萩原君?」
「間に合ってよかった。俺んち、ここから近いんだ。おまえ、知らなかっただろう? カイロ、ポケットに入れておけ」
「有難う……」
まつりは事情が飲み込めないまま、萩原紀から使い捨てカイロを受け取った。
「さっき、電話でおばさんから聞いた。俺も探すのを手伝う」
「どうして、萩原君が?」
戸惑うまつりをよそに、萩原紀は持って来た懐中電灯を照らしながら一緒に歩き始めた。
「そのばあちゃん、よくうろうろ出て行くのか?」
「自分の家に居るのに家に帰らなきゃって、窓の外を見ていたの」
「まだ出て行ってからそんなに時間は経っていないんだろう? この近くにいるはずだ。どこかに行きたいとか、何か言っていなかったか?」
「……そういえば、おばあちゃんは川の側の家って言っていた」
「じゃあ、川沿いを探そう」
この近くには忠別川が流れていた。冬の堤防は除雪もされず、雪に覆われたままだ。
吹き付ける雪。人を近寄らせない冷たい風景。二人は土手から住宅街を見下ろしながら歩いた。だが、それらしき人影はない。
まつりは急に不安になった。
「おばあちゃん、もし死んじゃったら……」
「馬鹿なことを考えるな! きっと大丈夫だ。行くぞ」
萩原紀の怒鳴り声で、動転していたまつりは少し落ち着きを取り戻した。
――そうだ、今はおばあちゃんを見つけることだけを考えよう。
堤防沿いを、まつりの先に立って萩原紀がどんどん歩いていく。まつりが歩きやすいように足で雪をかき分けながら歩いてくれていた。
益々降り積もる雪。足跡さえかき消してしまう勢いだった。人を飲み込んでしまうように不気味に青白く染まる雪の中、萩原紀の背中を追いながら、まつりは黙々と歩いた。
「大丈夫か?」
「うん……」
萩原紀のぶっきらぼうな声掛けが優しく感じる。
萩原君は何故こんなことに付き合ってくれるのか。まつりには分からなかった。ただ、彼の背中がとても頼りがいのあるものに見えた。
木が生い茂る神楽岡公園を通り過ぎ、神楽橋が見えてきた。遠くに街の明かりも見える。
「萩原君、もうだめだ。おばあちゃんは見つからない。おばあちゃんの足でこんなところまで来れないよ」
まつりは立ち止まって、萩原紀のコートの裾を引っ張った。
「めそめそするな! 諦めるな! そうだ、警察の方が先に見つけているかもしれない」
萩原紀が携帯電話でまつりの家に電話をかけた。
――もう時間が経ち過ぎている。もし見つかっていなかったら、おばあちゃんは……。
まつりは最悪のことを考えてしまっていた。
「……見つかっていないって」
萩原紀は携帯電話を切り、視線をそらしたまま言いづらそうに呟いた。
「萩原君、もういいよ」
涙が滲み、遠くに見える街の明かりがぼやけて見えた。
「もういいって、どういうことだ? おまえは帰ってろ。俺が探すから。きっと見つけてやる。お前が諦めても俺は諦めないからな」
萩原紀はまつりの言葉を待たずに、先へ進んで行った。
このまま帰るなんてできない。
まつりもその後をついていった。
「そう簡単に死んでたまるか!」
前を向いたまま、萩原紀は大声でそう叫んだ。
自分が諦めてどうする。萩原君がこんなに一生懸命探してくれているのに。まつりは恥ずかしくなった。
「あっ! 誰かうずくまっている!」
土手の先に黒い人影が見えた。二人は全速力で走ったが、膝まで積もっている雪が行く手を阻み、足が重くてなかなかたどり着けずにもどかしかった。
「おばあちゃん!」
まつりが息を切らせながら叫ぶと、じっとうずくまっていた人影が動いた。
――おばあちゃんだ!
全身に電気が駆け抜けるような感覚が走った。よかった。おばあちゃんが見つかった!
「ああ、咲子。迎えに来てくれたんだね」
おばあちゃんはゼーゼーしながら立ち上がり、にっこり微笑んでまつりの頬を撫ぜた。
手袋もはめていなかったおばあちゃんの手は冷え切り、氷のように冷たい。
「私はまつりだよ? おばあちゃん、家に帰ろう」
「帰ろうと思ったんだけど家が何処にもなくってね。おかしいね。敬三もお腹を空かせているだろうし。咲子、母さんが悪かったね。ずっと敬三の子守をさせて。ごめんね、ごめんね」
拝むように両手を顔の前でこすり合わせて、おばあちゃんはしきりにまつりに謝った。寒さで頬を赤くさせ、唇を震わせている。
「敬三って誰? おばあちゃん、しっかりして!」
おばあちゃんはその場に座り込んでしまった。
「おばあちゃん、おばあちゃん! ごめんなさい。私が、私が……」
まつりは気が動転してただ名前を呼ぶことしかできなかった。
――このままじゃ、おばあちゃんが死んでしまう!
「矢萩! しっかりしろ! カイロで婆ちゃんの体を温めるんだ! 今、救急車を呼ぶからな!」
萩原紀が携帯電話で救急車を呼んだ。
――私のせいだ。私が、あの時気がついていれば。要ちゃんに近づこうとおばあちゃんを利用して、おばあちゃんのことを考えていなかった私が悪いんだ。
そのあと、何がどうなったかまつりは何も覚えていなかった。萩原紀が全て動いてくれたようだった。
気がついた時には、まつりは病院にいた。
「まつりちゃん!」
車で駆けつけた瀬川のおばさんが駆け寄ってきた。
「ごめんなさい! 私……」
「おばあちゃんを見つけてくれて有難う。帰りが遅くなったおばさんが悪いの。まつりちゃんのせいじゃないわ」
瀬川のおばさんは涙ぐんでいた。
「でも、おばあちゃんに何かあったら」
「全部おばさんのせい。おばさんね、最近苛々していて……お通夜のあとにおばあちゃんのいる家に帰りたくなくて、喫茶店へ行ってただぼおっと珈琲を飲んでいたの。おばあちゃんから逃げたくて。馬鹿ね。そんなことをしても何にもならないのに……だから、まつりちゃんは悪くないの」
瀬川のおばさんはハンカチで目頭を押さえた。
「おばさん……」
苦しそうな瀬川のおばさん。おばさんはきっと誰にも頼れず、一人で何もかも抱え込んでいたのだろう。瀬川のおばさんの涙に誘われ、まつりも一緒に泣いてしまった。
それから救急室での処置が終わるまで、まつりは救急室のドアをじっと見つめてただひたすら祈っていた。
――どうか元気になりますように!
一時間後、危険な状態は脱しましたと医師からの説明があり、まつりは足の力が抜けた。
おばあちゃんは軽い肺炎を起こしたうえ、心不全が悪化しており予断は許さない状況だが、今のところ大丈夫だろうとのことだった。