7・迷い
「要ちゃん、いますか?」
「あら、まつりちゃん。ごめんね。要は早くに出掛けて、今夜はそのまま忘年会だって言っていたから遅いと思うの。明日は祝日だし。何か用だった?」
瀬川のおばさんは、病院で見た時より元気そうに見えた。
「いえ、また明日来ます」
――要ちゃんが出掛けたの、気がつかなかった。車があったからいると思ったのに……。
「咲子」
おばあちゃんがうつろな表情で玄関ホールへ出てきた。
「おばあちゃん、出掛けなきゃならないのよ。一時間位で戻ってくるからうろうろしないでくださいね。ほんとにもう、大丈夫かしら」
瀬川のおばさんは、喪服を着ていた。これからお通夜に行かなければならないのだという。
「あのう、私、お留守番していましょうか?」
「えっ、でも……」
「おばあちゃんのこと危なくないように見ていたらいいんですよね。大丈夫です」
「そう、じゃあ頼もうかしら。有難う。助かるわ」
まつりは一旦家へ戻り、買い物に出掛けている母宛にメモを残してきた。
「いってらっしゃい」
まつりは瀬川のおばさんを笑顔で送り出した。
ちょっとどきどきしていた。それは、おばあちゃんを看ていられるかという不安からではなかった。少しでも要ちゃんに近づきたい。傍にいたい。そんな想いから何年振りかに足を踏み入れた瀬川家。以前と変わらない落ち着いた雰囲気の広々とした居間。ここで要ちゃんは生活しているのだ。そう思うと、まつりはどきどきした。
おばあちゃんは居間のベランダの前を、外に行きたそうにうろうろしている。
「おばあちゃん、足が疲れちゃうよ。こっちに座ろう?」
「でもねえ、咲子は母さんが帰るのをじっと待っているんだよ。川の側の家だから、寒くてね。薪を沢山くべるように言ってあるけれど、心配だねえ」
「咲子って、誰なの?」
「娘だよ。あんた、咲子のこと知らないのかい?」
おばあちゃんは不信そうな眼差しをこちらに向けた。
「よく知らなくて。そう、娘さんなんだ」
おばあちゃんの娘ということは、もうお母さんくらいの年? でもこの前、瀬川のおばさんが咲子は小さい頃に死んじゃったといっていたけれど。
「あの子はねえ、器量良しで自慢の娘なんだよ」
おばあちゃんの優しい笑顔。でもどことなく寂しそうだ。
おばあちゃんは軽くため息をついてから、ようやくソファに落ち着き、まつりも隣に腰掛けた。
「あれ? まつりちゃん?」
瀬川要が居間に顔を出した。
「お邪魔してます!」
まつりは緊張して、思わずソファから立ち上がった。
ちょっと派手なネクタイを締めた瀬川要は、もうほろ酔いのようだ。
「母さんは?」
「えーと、お通夜に行くって。それで、お留守番」
「なんだ、金を借りようと思ったのに。電話すりゃ良かった」
「これから忘年会?」
「ああ」
「要ちゃん、なんだか顔が赤い」
「少し飲んだからな」
「だいぶ飲んでいるみたいに見えるけれど?」
「世話焼き女房みたいなことを言うな」
「要ちゃんの奥さんになったら大変そう」
「どうして?」
「お酒代がかさみそうだから」
瀬川要は、にやっと笑った。
信じられないくらい、ぽんぽんと言葉が口から飛び出した。今まで通り冗談も言えるのだから、大丈夫。まつりはそう自分に言い聞かせた。
「要ちゃん、お見合いしたんだよね? 綺麗な人だよね。この前、街で見かけたの。その人と結婚するの?」
まつりは思い切って訊いてみた。勤めて笑顔で話したつもりだったが、顔が強張っているのが自分でもよくわかった。
瀬川要はそれに答えず、口の端で笑った。
「ちょっと俺の部屋へ来ないか」
「でも、おばあちゃんが……」
「玄関の鍵をかけておいたから大丈夫」
瀬川要はまつりの肩に手を掛け、並んで二階へ上がった。
さりげない要の行動は、まつりの心臓を早鐘にした。
瀬川要の部屋は煙草の匂いがした。本棚にベッド。硝子の丸テーブルが一つ。ベッドサイドにCDラジカセと、数本の吸殻が入った灰皿。簡素で整然と片付けられている室内。
「俺、さっき振られたんだ」
ベッドに体を投げ出すようにして座った瀬川要の口から、意外な言葉が飛び出した。
要は背広のポケットから煙草を取り出して、ライターで乱暴に火をつけ、ふうと煙を口から吐き出した。まつりにはその時間がとても長く感じた。
――振られたって、お見合いの相手に? 要ちゃんが?
苛々している要に、まつりはなんと言って良いのかわからず、その場に棒立ちになっていた。
「で、自棄酒。笑えるだろう? くそっ、あの女、とんだ食わせ者だった」
くわえ煙草の要の口から、信じられないような言葉が飛び出した。眼鏡の奥の、ぎらぎらした目。こんな瀬川要は見たことがなかった。
「俺のことが、好きなんだろう?」
唐突に腕を引っ張られ、まつりは傍へ引き寄せられた。煙草と酒の匂いが鼻につく。
いつもの優しい要ちゃんとは全く違う、別人のような要ちゃん。瀬川要は、紳士でも、王子様でもないのだ。生身の大人の男なのだ。まつりは勝手に想像を膨らませ、自分の都合のいい瀬川要を作り上げていたのかもしれない。そう気がつくと、瀬川要のことが急に怖くなった。
「クリスマス・イブ、一緒に過ごそうか?」
要の笑顔も、今のまつりには空々しいものに見えてしまった。
「要ちゃん、手、離して」
「まつり、どうした?」
呼び捨ての名前に、違和感を覚えた。まつりは後ずさった。
「ごめんなさい!」
まつりは部屋から、瀬川要から逃げ出した。
階段を駆け下りた所で、足の力が抜け、階段下にへなへなと座り込んでしまった。
心臓が飛び出しそうだった。瀬川要はまつりが望んでいた通り、クリスマスを過ごそうと誘ってくれた。なのに、逃げ出してしまうなんて。まつりは自分が分からなくなった。
「俺の早合点だったかな。ごめんな。脅かして。じゃ、俺、出掛けるから」
要はまつりの頭を軽くぽんぽんと撫ぜて、玄関を出て行った。
――違う、違うの。要ちゃんが好き。要ちゃんから誘われるなんて思っていなかったから、驚いちゃったの。
まつりはそう言いたかったが、声にならなかった。床に座り込んだまま、ただ呆然と、要が玄関から出て行く背中を見送ったのだった。
「私、何をやっているんだろう。折角のチャンスだったのに」
まつりは予想外の出来事に放心状態になり、なかなか立ち上がれなかった。
部屋は嫌にしんと静まりかえっていた。
――ああ、外は雪なんだ。
まだカーテンをしていなかったベランダの窓。暗闇の中、白く冷たい生き物が風に舞い、次々に地上へと落ちてくる。雪は音を吸い込み、静寂が支配する。
――でも、静か過ぎる。
「そういえば、おばあちゃんは?」
まつりは立ち上がった。不安がよぎり、ソファに駆け寄った。おばあちゃんはいない。トイレも覗いた。いない。和室にも、キッチンにも。
「おばあちゃん!」
まつりは叫びながら家中探し回った。不安が増していく。考えたくなかったが、最後に玄関の靴を確認した。
おばあちゃんの靴はなかった。
「おばあちゃん!」
まつりは玄関を飛び出した。
外は雪が強く降り、視界が悪く、おばあちゃんの姿どころか人影はまったくなかった。
「おばあちゃん!」
雪が渦巻く中、まつりの声が空しく響いた。
――どうしよう。どうしたらいいの。
頭の中が真っ白になった。こうしている間にも、おばあちゃんは雪が降りしきる中を彷徨っているのだ。
――要ちゃんのことに気を取られて、おばあちゃんを一人にした私のせいだ。おばあちゃんから目を離さなければこんなことにはならなかった。おばあちゃんに何かあったら……どうしよう!
夜七時。瀬川のおばさんが出かけてから二時間は経っていた。
――誰か、助けて!
冷たくなった涙が頬を伝った。まつりは町内を闇雲に探し回った。だが、おばあちゃんの姿はどこにも見つからない。息が切れて、とぼとぼと歩いた。
だめだ。一人では無理だ。落ち着け。まつりは自分に言い聞かせた。早く、早く見つけなければ。もしかしたら、おばあちゃんは家に戻っているかもしれない。
僅かな望みに、まつりは瀬川家まで走った。
いない。
瀬川家の玄関前に戻ったまつりは、失望し、再び涙が滲んだ。
「おばあちゃん……」
泣いていても、おばあちゃんは見つからない。まつりは俯いて涙を堪えた。
「まつりちゃん? 何かあったの?」
顔を上げたまつりの前に、通夜から帰ってきた瀬川のおばさんが驚いた表情で駆け寄った。
「おばさん、ごめんなさい! おばあちゃん、いなくなっちゃったの。ちょっと目を離した隙に。私が、私が目を離さなければ……私のせいで。ごめんなさい!」
おばさんの顔を見た途端、まつりは後悔と罪悪感で胸が押しつぶされそうになり、涙が溢れ、膝をがくがくと震わせて、顔色をなくした。
「まつりちゃんのせいじゃないわ。コートも着ないで。寒かったでしょう」
夕闇に、雪が降り続いていた。いつの間にかまつりの頭や肩に雪が降り積もっていて、瀬川のおばさんは、その雪を優しくはらってくれた。
「帰りが遅くなったおばさんが悪いの。おばあちゃんはきっと大丈夫よ。さあ、おばあちゃんを探さないとね」
瀬川のおばさんの言葉でまつりはようやく少しだけ落ち着きを取り戻し、涙を手で拭った。
「私、おばあちゃんが見つかるまで捜します!」
「ありがとう。でも、お母さんが心配しているでしょう? 一旦、家に帰ったほうがいいわ。それに、コートを着ましょうね。まつりちゃんが倒れたら大変」
まつりは頷いた。
瀬川のおばさんは警察に連絡して捜索を依頼した。まつりは急いで家に帰り、母に事情を話した。
「そういうわけだから、行ってくる」
「後は警察に任せたほうがいいんじゃないの? こんなに冷え切って。あなたは家にいなさい。お母さんが行くから」
「私が行く! じっとしていられないの!」
まつりは母の暖かい手を振りはらった。
「そう……気をつけてね」
心配そうにまつりの母は一言そう言った。
「まつり、待って! クラスメイトの萩原君から電話よ」
まつりが玄関を出ようとした所へ、母が呼び止めた。
「萩原君? 後で掛けるからって言っておいて!」
まつりはそのまま出て行った。
もし、おばあちゃんが見つからなかったら……。
まつりはおばあちゃんのことで頭が一杯だった。
――おばあちゃん、一体どこへ行ってしまったの?
まつりはさっき見て回った道をもう一度歩き始めた。