2・噂
「お向かいのお兄ちゃん、婚約が決まったんだって」
その日、夕食の食卓で母が近所の噂話を始めた。
まつりはおかげでご飯を喉に詰らせてしまった。
「お、お向かいのって、要お兄ちゃんのこと?」
「ええ、そうよ」
「だって、まだ二十三歳でしょ? それに就職して一年しか経っていないのに」
――嘘だ、嘘だ。きっと何かの間違い。朝、要ちゃんはそんなことは一言も言っていなかった。お母さんはまたどこかで聞き間違えているに決まっている。前にも裏の家のおじいさんが亡くなったって慌ててお悔やみに行ったら、老犬が亡くなったのと聞き間違えていて大恥かいたことがあったもの。
矢萩まつりは、母親の言葉を必死で否定した。
「だって、瀬川さんちの隣の奥さんが言っていたのよ。早くにいい人が見つかって良かったじゃないの。近頃は独身の方が気楽で自由だからっていつまでも結婚しない人が多いって言うでしょ? まつりもそんなことにならないでね。お母さんはまつりが矢萩の名を継いでくれるのが夢なんだから。そして、まつりの可愛い赤ちゃんを抱っこするの」
「よしてよ。夢も希望もないことを言わないで」
「あら、赤ちゃんほしくないの?」
――母の話は飛躍しすぎる。その前に就職があるでしょう? 私にだって将来の夢があるのよ。
本当はそう反論したかったのだが、実際、まつり自身、どんな仕事に就きたいのかまったく見当がつかなかった。
――もううんざり。ことあるごとに、『矢萩』の名を継げというんだもの。
まつりは親戚に一度も会ったことはなかった。それに、一般の家庭となんら変わった所もなく、別段、由緒ある血筋とは思えなかった。『矢萩』は母方の姓だ。父は婿入りしたことになる。
夫婦別姓も珍しくない昨今ではあるが、好んで妻の姓を名乗る夫はそういないだろう。そうまでして守る価値のある名なのか。どういう理由があるにしても、名を継げと子供にまで押し付けられては迷惑だ。だが、まつりは母の悲しい顔を見たくなくて、いつものことだからと自分を納得させ、反論せずに黙ってご飯を口にした。
出張で留守がちな父。食事は大抵、母と二人で摂ることになる。母は食事中、静かなことが罪悪だとでも考えているのか始終話している。
小学生の頃はそれが嬉しかった。世間話が好きで賑やかな母。でもさすがに高校生となった今、この食卓は煩わしいだけになっていた。
――これも反抗期なのかな。
まつりは自分自身を冷静にそう分析して苦笑した。
「まつり、何がおかしいの?」
「別に、ちょっとね」
「おかしな子」
肩をすくめて母が言った。
矢萩まつりは母が言った要ちゃんの婚約話を、無意識のうちに頭の奥に葬っていた。
日曜日。朝十時を過ぎても冷え込みは緩まなかった。
矢萩まつりはいつものように自室の窓から、そっと様子を伺っていた。
瀬川要が出てきてワゴン車のエンジンをかけ、車の雪を下ろし始めた。十五分ほどして、両親と一緒に大学生になる妹が、よそ行きのコートを着て外に出てきた。おばあちゃんまで訪問着を着ている。
お向かいの瀬川家は、家族揃って出掛けるようだった。
――こんな時間からどこへ行くのだろう。要ちゃんまで正装している。
まつりはいてもたってもいられなくなり、ジャンバーをはおり、手袋をはめて外へ出た。
「お早うございます」
まつりは家の前のあまり積もっていない、数センチの雪を除雪しながら、瀬川家に挨拶をした。
「お早う、まつりちゃん」
瀬川家からそれぞれ挨拶が返ってきたが、要ちゃんはこちらを一瞥しただけで、黙々と雪下ろしをしている。
「まつりちゃん。えらいねえ、雪はねのお手伝いかい」
瀬川要の祖母がまつりに声をかけた。まつりが小さい頃、よく遊んでくれたおばあちゃんは病院へ車で通う以外は外に出ることはなく、久しぶりに顔を合わせたのだった。
足が弱り、去年は心臓を悪くして数ヶ月入院していたと聞いていたが、暫く見ないうちにおばあちゃんの背は曲がり、杖を突くようになっていた。もう八十歳後半になるだろうか。まつりが記憶していた元気なおばあちゃんとは別人のように顔が痩せ、よろよろと杖を突きながらこちらへ近づいてくる。
まつりはおばあちゃんのことなど、すっかり気にも留めなくなっていた。瀬川要が自分のことを全く気にも留めなくなったのと同じように、自分もまた、おばあちゃんをすっかり忘れ去っていたのだ。
小学二年生の時、自転車に乗ったまま坂道で転倒し、脛に大きな切り傷を負ったことがあった。血はなかなか止まらず、どくどくと流れて靴も血まみれになった。母は丁度買い物に出掛けていて、家には誰もいなかったのだ。
もしかしたら、このまま死んでしまうのではないかとさえ思った。不安に駆られ、家の前で号泣していると、瀬川のおばあちゃんが駆けつけてきてタオルで足を縛り、近所の病院までおんぶして連れて行ってくれた。
「大丈夫、大丈夫。直ぐ痛くなくなるから。まつりちゃんは強いねえ」と、自分を背負って歩きながら、病院につくまで何度も優しく励ましてくれたのを、今でもはっきりと覚えている。その時、傷は五針縫う深さだった。帰宅した母はおばあちゃんから足を縫合したと電話口で連絡を受けて病院に駆けつけたのだが、動揺して涙ぐんでいた。母はおばあちゃんに何度も頭を下げてお礼を言っていた。
九年ほど前のことだから、今思えば、おばあちゃんはその頃、もう七十歳後半だったはずだ。心臓の弱いおばあちゃんが、息を切らしながら自分を背負って病院まで運んでくれたのだ。
――あんなに優しくしてくれたおばあちゃんなのに。
まつりはおばあちゃんのお見舞いに行こうと母に誘われた時、友達と遊びに行くからと断ったことを思い出した。今頃になって、薄情な自分が恥ずかしくなった。
そんなおばあちゃんが以前のように優しくまつりに声をかけてくれている。
まつりは顔があわせづらく、愛想笑いをしながら軽く会釈した。
「まあまあ、随分大きくなって。まつりちゃん、綺麗になったねえ」
顔をくしゃくしゃにして満面の笑みを浮かべ、おばあちゃんは懐かしそうに言った。
「まつりちゃんが、要のお嫁さんになってくれたらいいのにねえ」
「えっ」
『お嫁さん』と言う言葉に反応して、まつりは思わず顔を赤らめたのだが、その後に続いたおばあちゃんの言葉に耳を疑った。
「そうしたら、要もずっとここにいられるのに……」
――要ちゃんがどこかに行ってしまうの?
「ばあちゃん、もう行くぞ」
まつりが訊き返そうとした時、瀬川要が声をかけておばあちゃんを連れに来た。
「なんだ、まつり。雪はね手伝って点数稼ぎか。親に何をおねだりする気だ?」
瀬川要にはおばあちゃんが言った言葉は聞こえなかったようだった。にやりと笑い、まつりに向かって憎まれ口を叩いた。
瀬川要はいつものトレンチコートを着ていたが、髪をすっきりと整えていつもより大人びて見えた。そんな要のことが眩しくて、まつりはまともに顔を合わせられなかった。
「失礼ね! そんなことしませんよっ!」
これからどこへ出掛けるのか。要ちゃんは違うところにいなくなってしまうのか。と、喉元まででかかったが、口を尖らせてそう言い返すのがまつりには精一杯だった。
おばあちゃんはまつりに手を振ると、瀬川要に手を引かれながら車の方へ戻っていった。杖をつき、雪の上をヨチヨチと歩く後姿が、とても弱々しく小さく感じられた。
――私を背負ってくれた背中はあんなに小さかっただろうか。
おばあちゃんの変わり果てた姿に、矢萩まつりはうまく説明できない、胸の奥が締め付けられるような感情が沸き起こってくるのを感じた。
要もずっとここにいられるのに。
そして、おばあちゃんの言葉に、まつりは新たな不安を抱いていた。
しんとした雪に包まれた住宅街。雪も降らない、冷え込んだ昼前の出来事だった。