12・父と母
冷たい涙を流し、寒さで頬を真っ赤にして帰宅したまつりは、穏やかな母の笑顔に迎えられた途端、何故かまた涙が溢れた。
「泣きたい時はね、思いっきり泣くのが一番。自分の家で格好つける必要なんてないんだから」
何もかも分かっているかのように、まつりの母は言った。
「だいっ嫌い! お母さんなんか! なんでいっつも何でも知っているようなことを言うの? 私にかまわないでっ!」
半分八つ当たりだった。まつりは苛々した気持をそのまま母にぶつけていた。
「うるさいといわれようがお母さんはあなたのお母さんなのよ。まつりのことを心配するのがお母さんの仕事なの。大事な娘だもの。紅茶、飲みなさい。温まるから」
八つ当たりなどまつりの母は意にも介さず、穏やかな態度は崩れなかった。
まつりは母に肩を押され、コートを脱がないままソファに座った。
暫くして、紅茶の香りが漂ってきた。その香りは母の香りと重なるほど母は紅茶をよく口にする。
まだ涙が枯れないまつりは、マグカップに並々と注がれたミルクティを母から受け取った。
マグカップから手に伝わる温かさが心地よい。口に含んだ紅茶は心までも温めてくれる気がした。紅茶の香りはまつりの気持を少しずつ落ち着かせた。
「ケーキ、食べる?」
にっこり笑った母は白いケーキをのせた皿をまつりに差し出した。
「いらない……」
「食べなさい。ケーキを食べたら、元気が出るから、ね?」
まつりは渋々皿を受け取り、一口、口に運んだ。
母の手作りケーキ。まつりはいつの頃からかクリスマスを友人と過ごすようになっていた。それでも母は毎年ケーキを作っている。まつりの帰りが遅くなっても必ずケーキを差し出すのだ。誰のために作っているのだろう。父のため? 父はクリスマスに家にいたことがない。この数年間、母は毎年一人で過ごしてきたのだ。ずっと一人の母。父が最後に帰ってきたのはいつだっただろうか。
そんなことを考えながら、母を見たまつりは、その笑顔の奥に寂しい影が隠されているような気がした。もしかしたら、父と母はうまくいっていないのだろうか。それとも、やっぱり母と父は……。まつりは急に不安になった。瀬川要のことで頭が一杯だったはずのまつりは、母のことが気になり始めていた。
「お母さんはいつも一人で寂しくないの?」
「寂しくないって言ったら嘘かもしれない」
母のことだから、「寂しいわけがないでしょ。お父さんがいなくてせいせいするわ」などと、笑って返すと思ったのだが、予想外に真顔でそう答えたので、まつりは戸惑った。
母はまつりの真向かいに座り、まだじっとこちらを見ている。
「あのね、まつり」
嫌な予感がした。いつもと違う母の緊張した表情。何か嫌なことを聞かされる。まつりは身構えた。
「あなたに話していないことがあるの」
まつりがどんな反応を示すのか一瞬も見逃さないようにと思っているのか、母は瞬きもせず、まつりをみつめていた。
「お父さんはよそのうちのお父さんなの」
言葉が出なかった。
――今なんて言った? よそのうちって? お母さん、何を言っているの?
まつりは混乱した頭の中、そう訊きたくても声が出なかった。
「まつりにはお父さんがいないの」
「嘘……」
そう呟くのがやっとだった。
「お父さんには別のところに本当の家族がいるの」
――本当の家族って何? じゃあ、まつりやお母さんは嘘の家族だというの?
母の言葉を受け入れられない気持とは裏腹に、まつりは以前からそのことに薄々感づいていた。いくら出張が多い仕事といっても、父は家に二日と続けて泊まったことがないのは、いくらなんでもおかしい。父の職業が何であるかを訊いても、冗談交じりに『何でも屋』としか答えてくれず、濁されたまま、まつりは高校生になってしまった。それでもまつりは現実を認めたくなくて、心の中でその事実をずっと否定してきたのだ。
「まつり、普通の家庭とは違うと感じていたでしょう?」
すまなさそうにまつりの顔色を伺っている母。
――母を責めたくはない。母がどんな恋愛をしていたとしても、母の生き方を否定したくない。ちょっとおしゃべりでおせっかいだけれど、大切な母。母を悲しませたくない。でも、どんな顔をしたらいい?
まつりは笑顔を作ってみようとしたが、顔が引きつって他人の顔のように言うことをきかない。
「そんなこと分かってたわよ」
「まつり……」
強がってみたが無駄だった。涙がじわじわと視界を遮っていく。世界がぼやけて何も見えなくなった。
まつりは自分でも何の涙なのかわからなかった。悲しいのか、それとも怒りなのか。説明のつかない涙がただただ流れた。手で拭っても次から次へと涙が溢れてくるのだ。
その間も、母の視線はずっとまつりを捕らえたままで、息苦しい重圧感があった。
母と顔を突き合わせていたくない。このまま一緒にいたら、母が傷つくことを言ってしまいそうだ。
「そんなこと……イブに言わなくってもいいじゃない!」
まつりは俯いて母と視線を合わせないまま、語彙を荒げて吐き捨てるように言った。
――やってしまった。
母の顔が曇る。辛そうにこちらを見つめている。まつりは言ったそばから後悔した。そんなことを言うつもりはなかったのに。母を悲しませることはしたくなかったのに。母はいつでも威勢が良くて、元気で、笑顔を絶やしたことがないのに。その母が今にも泣き出しそうに目を潤ませている。まつりは感情を抑えきれなかった自分に苛立った。
いたたまれなくなり、まつりは逃げるように二階へ駆け上がった。
部屋では赤いリボンをつけた包みがまつりを待ち構えていた。勉強机の上に置いてあるそれは、瀬川要に渡すはずだった皮手袋の包みだ。そして、コートのポケットには瀬川要が貸してくれた手袋の片方が入ったままになっていた。
どうして渡さないの? このまま中途半端に終わらせてもいいの?
赤いリボンがまつりを恨めしそうに責め立てる。
振られると分かりきっているのだ。今更、告白してどうなるという。困ったように頭をかき、すまなさそうにこちらを見る瀬川要を容易に想像できてしまうのだ。
まつりはドアに寄りかかったまま、その場に座り込んだ。
「まつり、話を聞いてほしいの」
母がドア越しに声をかけてきた。
「もういい! 今は何も聞きたくない」
「今聞いてほしいの。お父さんとお母さんは結果的にはこうなってしまったけれど、後悔はしていない」
「後悔していないのなら、何故今まで隠していたの?」
「ごめんなさい。これはお母さんの我が儘なの。ごく普通の家庭を持ってみたかった……」
「言い訳なんかしなくたっていいじゃない。珍しくもない、ただの不倫でしょ?」
まつりは唇をきつく噛んだ。母を責めるような言葉が出てきてしまう自分が恨めしかった。
「お父さんはそんなに器用な人じゃない。付き合っていた時は独身だったの。それに、まつりを身篭ったことを話す前に、お父さんは結婚しようと言ってくれた。でも、お母さんが断ったの」
「どうして?」
「お父さんは、当時、既に会社のほとんどのことを任されていた。大きな会社ではないけれど、お父さんが抜けるわけにはいかなかった」
「結婚と会社は関係ないじゃない」
「そうね。でも、そういえないこともあるの。……所長の娘がお父さんのことが好きで、その娘もその会社で働いていて……ずっとお父さんのことを見ていたのを私は知っていた。なのに、私は彼のことを好きになってしまったの。私と一緒になれば、彼は会社には居づらくなる。彼から仕事を奪いたくなかった」
母の話の中で、途中から、『お母さん』は、『私』になっていた。母は、母ではなく、愛する人を想う一人の女性に変わっていたのだ。
「彼は彼女の気持ちに気づいていた。でも彼もまた他の女性のことが好きで、彼女の気持ちに気づかない振りをしているようだった」
母の小さなため息が、ドア越しに聞こえてきた。
「彼の恋は報われないもので、それでも彼は諦めきれず、その人を想い続けたまま。そんな一途な恋をする彼に、私はいつしか気持が傾いてしまったのだと思う」
まつりは黙って母の話に聞き入った。
「私は普通の家庭を知らない。物心がついた時には両親がいなかったから。子供の頃はかなり荒んでいて、生意気な可愛げのない子供だったと思う。こんな境遇にした者への恨みと復讐に全てを捧げていた。誰も信じず、背伸びをして生きていた。家族なんて要らない、一人で生きていけると確信していた。だけど私は変わったの。高校生の時、ある人に出会ったから。その人もまた傷ついていて無器用な愛情しか知らなかったけれど、家族の温かみを教えてくれた大切な人」
そこまで話し、母の声は途切れてしまった。まつりは母が泣いているのではと不安になり、そっとドアを開けて母の様子を窺った。
ドアに背を向け、両足を腕で抱えて廊下に座っていた母は、意外にも穏やかな顔に笑みを浮かべ、その頃を懐かしむように目を細めていた。
母にとってその頃は、輝かしい青春の思い出なのだろう。母の表情が生き生きとしていた。
「ある人って?」
こちらを見上げた母に、まつりは訊ねた。
「簡単に言うと、その人は復讐しようとしていた人の娘だった」
「えっ?」
「話すと複雑で、長くなるから言わないけれど――」
そう言った母は本当に楽しそうに笑った。
「私はちょっぴり彼女にも恋をしていたかもしれないわね」
わけが分からなかった。復讐しようとしていた人の娘で、しかも家族の温かみを教えてくれた大切な人。おまけに、彼女に恋をしていたなんて。まつりの想像力もかなわないほど、母の青春は突飛で波乱万丈なもののようだった。
「ちょっと驚かせちゃった? 悪いこともしていたけれど大切な出会いも多かった。本当に色々なことがあったの」
肩をすくめて茶目っ気たっぷりに笑った母は、女子高生の顔をしていた。
「荒んだ心が解れてからは、子供の成長に一喜一憂するような、ごくありふれた普通の家庭に憧れるようになった。でも結局、そううまくはいかなかったけれど」
母は真っ直ぐまつりを見つめている。
「話が少し脱線したけれど、辛気臭い話しをしたかったわけじゃないの。お母さんはね、一つも後悔はしていない。まつりを産んで良かったと思っているし、まつりのことがお母さんには必要だった。血の繋がった家族がどうしてもほしかった。まつりは大切な家族なの」
母が大切に思ってくれていることは充分すぎるほどまつりにも分かっていた。どんなことでも真剣に相談に乗ってくれるし、いつも見守ってくれている。煩わしく思うことも多々あるが、母の愛情は掛け値なしに実感できた。だから父がいなくとも物足りなく感じることは滅多になかったのだ。父のことは衝撃的だったが、感づいていた分、冷静になると直ぐに納得してしまった。それ以上に母の若かりし頃の話しの方が衝撃だった。平凡な人生を全うしてきたような母に、そんな過去があったなんて。
ゆっくりと立ち上がった母は、まつりの肩に手をかけて顔を覗き込むようにして言った。
「結果がどうであれ後悔しないように」
母の、一人の女性からの重い言葉。
「いい? 行動するの。じゃないと何も始まらないのよ」
最後に母はウインクをして階段を下りていった。
まつりはコ―トのポケットに入ったままになっていた瀬川要の皮手袋をぎゅっと握り締めた。
――まつりの馬鹿。告白するって決めていたじゃない。
勇気を奮い立たせ、まつりは自分に言い聞かせた。