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11・母の嘘

まつりはその足で瀬川要を尋ねた。弱気にならないうちに会おう。そう思ったのだ。三つ編みのヘアスタイルが幼く見えて気に食わなかったが、そんなことは言っていられない。今を逃したら、また怖気づいてしまいそうだった。

 まつりは勢い込んで瀬川家を訪ねたのだが、呼び鈴を押しても応答がなく、肝心の瀬川要は不在だった。瀬川家には誰もいなかったのだ。

 仕方なく、まつりはいったん家へ帰った。

「どうだった?」

 好奇心で目を輝かせた母がまつりを待ち構えていた。この人は本当にこの手の話しが好きなのだろう。娘の恋愛に口をはさむ母に、苛立ちというよりは呆れ果ててため息が出た。

「ふう」

「まつり……」

「お母さんには関係ないでしょ」

「冷たいのね」

「お母さんの噂話の種にされたくないもの」

「そんなことしないわよ。あなたのことが心配だから」

「大丈夫、いいの。放っておいて」

 まつりの返事に、母は不満そうに腕を組んでこちらを見た。

「少しは娘のことを信用して自由にさせてよね」

 まつりは母に向かって嫌味っぽくにっこり笑いながら階段を上がった。

「心配しているのにそんな言い方しなくてもいいじゃない」

 母の大きな声の独り言が、階段を上がる途中で聞こえてきた。

「あ、まつりに言い忘れる所だった」

「何よ」

「瀬川さんのご家族、皆で病院へ行ったみたいよ。瀬川のおばあちゃんの容態が急に悪化したのかも」

「えっ! 何で早く言ってくれないのよ! いっつも肝心なことを後で言うんだから! それ、何時頃の話?」

 暢気な母の話し方が焦りを助長させ、まつりはきつい口調になった。

「そうねえ、まつりが出掛けた直ぐくらいかしら?」

 その返事を聞き終わらないうちに、まつりは階段を駆け下りてコートに袖を通すなり、行ってきますと言いながら玄関へ走った。

「どこへ行くの?」

 どこへ行くのかわかりきっているのに、わざとらしく訊いてきた母に、まつりは「病院!」と答えて玄関を飛び出した。

 自分が行ったからといってどうにもならないことは、まつり自身よく分かっていた。でも、行かずにはいられなかったのだ。瀬川のおばあちゃんは自分の不注意で体を悪くしたのだから。そんな罪悪感がまつりにあった。

 バスに揺られながら、まつりは最悪の事態を想像してしまっていた。いくら良い方に考えようとしてもどうしてもその考えが頭から離れないのだ。

 ――もし、おばあちゃんが死んでしまったら……。

 雪でがたがたの道を、路線バスはのんびりと進んでいる。病院まではバスの乗り継ぎになる。着くまでに一時間はかかってしまうだろう。

 ――ああ、神様!

 まつりは俯き、両手を重ねてきつく握り締めた。普段は神頼みなどしたことのないまつりだったが、すがれるものには何にでもすがりたい気分だった。

 あれこれと考えすぎて疲れきった頃、まつりは病院にたどり着いた。


 おばあちゃんは個室に移されていた。

ここまで来たものの、扉の閉まった病室の前でまつりは躊躇した。

 ただのご近所という立場のまつりが、容態が悪化して立て込んでいる所へ顔を出しても、邪魔になるだけではないか。やっぱり会わないで帰るべきだろうか。

そう思うと扉を開ける勇気がなく、まつりは暫く扉の前でうろうろしていた。

「あれ? まつりちゃん」

 背後から声をかけられ、まつりはびくりとした。振り向くと瀬川要がきょとんとした顔でこちらを見ていた。

「あの、ちょっと近くに来たから……おばあちゃんどうかなって……」

 ついでに寄ったにしてはもう外は暗くて不自然だったと、言った後に気がついた。

「そう。ありがとう。でも、ばあちゃんは寝ているから。折角来てくれたけれど、また今度会ってあげてくれるかな」

「個室に移ったのはおばあちゃんの具合……だいぶ悪いの?」

「いいや、微熱があるけれど変わりないよ。夜中に起きてごそごそするから同室の患者が寝られなくて移されたらしい」

 まつりは恐る恐る訊いたのだが、瀬川要はあっさりと否定した。

「でも、家族揃って病院に行ったって……」

「ああ、母さんに頼まれて街まで車で送ったんだ。で、俺が代わりに婆ちゃんの所に来たというわけ」

 まつりを安心させるために嘘を言っているのではないかと一瞬思ったが、瀬川要の態度からは深刻そうなものは感じられなかった。

 ――またお母さんの人騒がせな早とちり。いや、もしかして要ちゃんに会わせようとわざと嘘を言ったのかもしれない。母ならやりかねない。

 まつりは肩の力が抜けた。

「まつりちゃん、もう暗いから家まで車で送ってあげるよ。婆ちゃんは寝ちゃったし、もう帰ろうかと思っていたところだから」

 瀬川要は小学生に語りかけるように、優等生の笑顔で言った。

 まつりはこくりと頷いた。

あの夜のぎらぎらした瀬川要。そして、昨夜の車中での冷淡な瀬川要。あれは思い違いだったのかと思えるほど、今の瀬川要は面倒見の良い優しいお兄さんという態度だった。

 ――要ちゃんは私を子ども扱いするの? あの夜はお酒に酔ったせい?

 あの時、まつりはいつもと違う態度の瀬川要から逃げたのだが、こうして何事もなかったかのように子ども扱いをされてみると、突き放されたような寂しさを感じた。

 要ちゃんは、もう、妹分としか見てくれないの? まつりは何度かその言葉が喉まで出かかったが、黙って瀬川要の後ろをついていった。

 昼間あんなに日差しが暖かかったのに、息も凍りそうなほど外は冷え込んでいた。屋外の駐車場は路面が氷っていて、転ばないように足元に注意を払いながら歩いた。人気がなく、静まり返った駐車場は、二人の靴音さえも暗闇に吸い込んでしまうように思えた。

「はい、お姫様どうぞ」

 以前のように、瀬川要はおどけながら車の助手席のドアを開けた。

 こわばった表情のまま、まつりは席に着いた。

「なんだ、腹でも痛いか?」

 車が動き出した後も、無言でいるまつりに、瀬川要は軽い調子で茶化した。

「馬鹿」

「だって、渋い顔をしているから」

 ――要ちゃんは、どうして普段と変わらずに話ができるの? 昨日だって気まずいまま分かれたのに。私にはそんな器用なことできない。要ちゃんは何を考えているの?

 運転中、瀬川要の横顔は穏やかで、まるで何事もなかったようだ。こんな顔を見ていると、このままいつものように憎まれ口を叩いて二人で笑っていたい衝動に駆られてしまう。でも、それはもうできない。そんなことをしていたら励ましてくれた萩原君になんて言えばいいのか。振られるかもしれないけれど、しっかり告白しなくては。そして、萩原君にはやっぱり要ちゃんが好きだからと言わなければならない。

 まつりの気持はそう決まっていた。

 ――でも、もしかしたら少しくらいは望みがあるだろうか。

「要ちゃん……」

「なに? そんな怖い顔をするな。昨日は俺が悪かった」

「え?」

「昨日、馬鹿なこと言っただろう? 俺、あいつに可愛い妹をとられたようで癪に障ったんだ。嫌な気分にさせただろうなって、あの後からずっと気になって……」

 正面を向いたまま、瀬川要は照れたように笑いながら言った。

 ――可愛い妹。

 まつりの頭の中はその言葉で一杯になった。他の言葉は耳に入らず、ただ、その言葉が何度も繰り返し響くのだ。

「クリスマスにあの男の子と会うんだろう? かっこいい彼氏ができて良かったな。俺も可愛い彼女を見つけるとするか」

 無言でいるまつりに、瀬川要は賑やかに話し続けた。

 ――もう振られたも同然。

瀬川要の話に呆然とし、まつりはどんどん告白する機会を逸していた。

――要ちゃんにとって、自分は妹分でしかない。

 もしかしてと少し期待していた分、ショックは大きかった。まつりは瀬川要の顔をまともに見られなかった。その優しい笑みは妹分に向けた笑顔なのだ。

「彼氏ができたからって、俺のこと無視するなよ? 今まで通り、学校まで送ってあげるからさ」

 瀬川要はそんなまつりの気持を逆なでするように、優しい笑顔で話し続けた。

――微笑みかけないで。冷たく振られた方がまだましだ。もう勘違いさせないで。

 まつりは最後の勇気を振り絞った。

「要ちゃん、ちょっと遠回りしてくれる? 神楽岡公園の横を通ってほしいの」

 瀬川要は「オーケー」と言って、少し道を戻り、神楽橋を通ってプラタナス並木の道に入った。

「ここで車を停めて」

「こんなところで?」

「少し、一緒に歩きたい」

 瀬川要は頷いて車を路肩に止めた。午後六時。辺りはすっかり暗くなっていた。プラタナス並木のトンネルを次々と車が通り抜けていき、サーチライトが眩しかった。

二人は黙って雪道を歩き始めた。歩道は道が悪く、片方が雪深いところを歩かなくては、並んで歩けない。瀬川要のスラックスの裾は雪だらけになっていた。

「まつりちゃん、手袋はめてないのか。霜焼けになるぞ」

 瀬川要は立ち止まり、まつりの冷えた片手をとって自分がはめていた黒い皮手袋をまつりの片手にはめた。

「こっちの手はこうすると暖かい」

 瀬川要はそう言ってもう片方のまつりの手を握り、自分のコートのポケットに突っ込んだ。

「こういうの、一度やってみたかったんだ」

 瀬川要は照れたように笑い、

「好きな彼氏とじゃなくてごめんな」と、続けた。

 瀬川要の、大きくて暖かい手がまつりの手を握っていた。

 まつりの手から早鐘のような鼓動が瀬川要に伝わってしまうのではと思うほど、まつりはどきどきしていた。

 夢のようだった。瀬川要とこんな風に歩けるとは、まつりは思っていなかった。

 ――でも、これがきっと最初で最後。振られてしまって今は辛くても、いつか楽しい思い出として笑って話せる日が来るのだろうか。

 まつりはそんなことを思いながら、俯いて歩いていた。

「まつりちゃん、見てみろよ。教会が綺麗だ」

 瀬川要が足を止めた。道路を挟んだ向かい側に、クリスマス用の大きなリースが取り付けられた教会が見えた。美しくライトアップされ、暖かな明かりが雪を照らしている。

「まつりちゃん、もしかして、これが見たかったのか」

 確かに、この道を瀬川要と一緒に歩いて教会を見上げ、楽しい想像をするのがまつりの夢だった。今、まさに状況はその通りになったのだが、とても楽しめる心境にはなれなかった。

 ――要ちゃんの心は私にはない。

「クリスチャンじゃないけれど、こんなところで結婚式を挙げたらいいだろうなあ」

 まつりが黙っていると、瀬川要はそんなことを呟いた。

「男がこんなことを言ったら変か」

 苦笑した瀬川要に、まつりは何も言い返せなかった。

 ――要ちゃん、残酷すぎるよ。まつりの前でそんな話をしないで。

 まつりは無意識に、繋いでいた手に力が入っていた。

「まつりちゃん、寒いのか?」

「……違うの」

 まつりは頭を大きく横に振った。

「さっきから黙っているけれど、どうかした? 俺、何か気に障ることをしたかな。やっぱり手を繋ぎたくなかった?」

「違う、違うの」

 まつりは再び頭を横に振った。口を開くと涙が流れそうだった。声を上げて泣き出してしまいそうだった。

 ――要ちゃんが好き。どうしようもなく好き。要ちゃんの声が優しければ優しいほど、たまらなく辛い。要ちゃんは私のことを妹分としか見てくれないのだから。

「……要ちゃん、もう、私に優しくしないで!」

 要の手を振り払い、そう言うのが精一杯だった。まつりは泣いていた。涙がぽろぽろと流れた。

「まつりちゃん?」

「歩いて帰る!」

 要に背を向け、振り向かずにまつりはそのまま走った。プラタナス並木が続く道を、息が切れるまで走り続けた。

 ――もう要ちゃんと顔を合わせられない。最悪なクリスマス・イブ。

 暖かく幻想的な電飾の明かりも、プラタナス並木のトンネルも、まつりにはただ辛い景色に変わってしまったのだ。

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