10・励まし
けだるい朝。
まつりは翌日、祝日だということもあり、昼頃までベッドから出なかった。体は疲れていたのだが一晩中眠れなかったのだ。
おばあちゃんは本当にもう大丈夫なのか。瀬川要はもうこちらを向いてくれないのか。萩原紀とはどうしたらいいのか。夜通し悶々としていた。
自己嫌悪。自分が嫌になった。もう何も考えたくない。夜が明けても、布団の中でまつりはただぼんやりとして現実逃避をしていた。
「もういい加減に起きなさい!」
母が部屋に乗り込んできてカーテンを開けた。
眩しい日差しが差し込む。まつりは布団をかぶった。
「どうせ休みなんだから放っておいてよ」
「瀬川さんの奥さんから、おばあちゃんはもう心配ないから有難うって電話がきていたわよ」
「えっ。よかったあ」
まつりは布団から顔を覗かせた。
「それより、萩原君から午後二時に来るって電話が来ていたわよ」
「どうして早く言ってくれないの! もう一時半だ。シャワーも入れない!」
まつりは布団を放り、急いで着替えた。
「何度も言ったけれど、生返事ばっかりしていたでしょ。困った子。それに、まつりの好きな人って瀬川のお兄ちゃんじゃなかったの? それとも、もう告白して振られたから乗り換えたの?」
母は心配そうにこちらを見ている。
「お母さんには関係ないでしょ!」
まただ。母は何でもお見通しだ。瀬川要のことも見透かされていた。まつりは母に丸裸にされたような気がしてうんざりした。
キッチンに行き、トーストをほおばりながら、まつりは母親に抗議した。
「どうしてお母さんはそうやってなんでも詮索するの?」
「だって心配だから……それで、まつりはどうするの? 萩原君にするの? 明日はイブでしょう?」
「娘の恋愛にまで口を挟まないで!」
「でも、一言だけ言わせて。好きという気持は妥協できないのよ。あっちがだめだったからこっちの人というわけにはいかないの。本当に好きな人でないとうまくいかないものよ。それに、相手を傷つけることになるから」
「そんなこと、わかってる」
口ではそう返事をしたが、図星だった。
瀬川要は諦めて萩原紀でもいいかもしれないなどと、自分が傷つくのが怖くてふと考えてしまっていた。気にしていないつもりだったが、友達にも彼氏がいて、ちょっと寂しく思っていたのも事実だ。
「よく、考えてね」
鋭い母の一言が胸を突く。
母は今までにどんな恋をしたのだろう。母の意味ありげな言葉は、まるで自分の経験を語っているような、どことなく含みを持たせるような言い回しに聞こえる。
再び好奇心が頭をもたげてきた。
「ねえ、お母さん。お父さんとはどうやって知り合ったの?」
「突然、何よ。あなたの参考にはならないわよ」
キッチンを磨く手を止めないまま、母が受け流した。
「だって、前にも聞いたけれど教えてくれないんだもの。大恋愛なの? もしかして人に言えないような不倫だったりして!」
「親をからかわないの!」
強い口調。母の手が一瞬止まった。その後姿に緊張が走ったように見えた。
――まさか、ね。
まつりは母の態度に何か引っかかるものがあったのだが、「もう二時になる」との母の一言で、今はそれどころではないということを思い出し、慌ててトーストの最後のひとかけらを口に放り込み、急いで洗面台の前へ立った。
寝癖が無残なヘアスタイルを作っている。今からドライヤーで整えるには時間が足りない。まつりは仕方なく三つ編みにしてみた。
「あら、三つ編みにしたの? そうしているとお母さんの学生時代そっくりね」
母は腕組をし、目を細めて懐かしそうにまつりを見た。さっきの硬直した態度が嘘のように、いつもの穏やかな母だった。
母の若い頃の写真はない。家が火事になったと聞いている。今度、父が帰ってきたら母のことを色々訊いてみようとまつりは思った。
玄関のチャイムが鳴った。
「ほら、来たわよ」
母に言われるまでもなく、まつりは玄関に出た。
「出掛けてくる!」
「部屋に上がってもらうんじゃないの?」
母の声を背に、まつりは外へ出た。
「行こう、萩原君」
「何処へ?」
「とりあえず歩く」
まつりは萩原紀の顔をまともに見ないまま、先に立ってどんどん歩いた。家では母に何かと詮索されそうで嫌だったのだ。
青空に眩しい太陽。雪に反射して下を向いても眩しさは変わらない。昨夜降った新雪がきらきらと眩い光を放っている。
萩原紀は無言でまつりの後をついてくる。
気がつくと、プラタナス並木が視界に広がっていた。まつりの足は無意識にこの道へと向かっていたのだ。
「矢萩になかなか言い出せなくて。昨日はあんな時に言ってごめん」
萩原紀はまつりの横に並び、ちらりとこちらを向いて言った。まつりはただ、こくりと頷いた。
「怒っているのか?」
まつりは頭を大きく横に振った。
――そんなことないけれど、萩原君の気持ちは嬉しいけれど、でも……。
「あいつのこと、まだ好きなのか?」
「……うん」
まつりはようやくそう答えた。
「でも、あいつにはもう彼女がいるんだろう?」
「……振られたって言ってた」
「きいたのか?」
「昨日……瀬川のおばあちゃんと留守番していた時に、要ちゃんが帰ってきて――」
まつりはぽつりぽつりと話し始めた。
「……俺のこと好きなんだろう。イブは一緒に過ごそうって……でも酔っていたし、からかわれたんだと思う」
「あいつにちゃんと訊いたのかよ!」
萩原紀は足を止めて大声を出したので、まつりは目を見開いた。
「どうして萩原君が怒るの?」
「……おまえの、矢萩のことだから」
足元を見て萩原紀は呟いた。
可愛いと思った。視線をそらしたまま、苛々した口ぶりで、自分のことを心配してくれている萩原紀のことが可愛い。
まつりはつい、ふふっと笑ってしまった。
「なんだよ! 人が心配してやっているのに!」
「ごめん。萩原君、ありがとう」
まつりは素直に謝り、笑顔を返した。
「きっと覚えていないと思うけれど」
萩原紀はそう前置きして話し始めた。
「俺、矢萩に小学生の頃、会っているんだ」
「え?」
「おまえ、転んで足に怪我をしたことがあるだろう? あの時、俺もその病院にいたんだ」
萩原紀は照れくさそうに鼻の頭を手でこすった。
「あの病院、俺んちなんだ」
まつりは記憶を思い起こした。
そういえば、確か萩原整形・外科医院という名前だった。
「土曜日の時間外に来ただろう? あの時、俺は丁度、親父と出掛ける所だった。それなのに急患が来たからふてくされていたんだ。それで、どんな奴が折角の土曜日を台無しにしたのかと診療を覗いた。そうしたら矢萩がいて。おまえさ、大泣きしていたのに傷を縫合する時はまったく泣かなかった。親父が縫合しやすいように動かないでじっとしていただろう? 凄い奴だなって」
うろ覚えだった。だが、そう言われてみれば同い年くらいの男の子が、診察室を恨めしそうに覗いていたような気がする。
「うまく言えないけれど、お前って根性あるんだからさ、強気でいけよな」
一生懸命、励ましてくれる萩原紀。
――そんなことを覚えていてくれたなんて。ずっとわたしのことを見ていてくれたのだろうか。
まつりは気恥ずかしくなった。
「きちんと告白してさっさと振られて来い。そのあとは……俺が矢萩を貰う」
まつりの瞳を見つめてそう宣言した萩原紀はとても凛々しかった。
眩しい陽の光の下、一点の曇りもない萩原紀の真っ直ぐな瞳は、まつりには眩し過ぎて思わず目を伏せた。
「うじうじしているのはお前らしくないぞ」
「うん……」
まつりは臆病になっていた。瀬川要に告白した後に傷ついた自分を想像すると、怖気づいてしまうのだ。萩原紀に背中を押され、まつりは少し勇気を取り戻した。
そこからは冗談を言い合い、憎まれ口を叩くいつもの二人に戻れた。道沿いにある教会を過ぎ、石倉造りのお菓子屋さんで珈琲を飲み、二人はたわいのない会話を交わし、そしてさよならをした。
「俺、矢萩からの電話を待っているから。どっちにしても絶対電話しろよ!」
帰り際、萩原紀は念を押すように言った。
笑顔で手を振って別れたのだが、まつりはもう心に決めていた。
瀬川要に振られても萩原紀とは付き合えない。やっぱり、そんな身勝手なことはできない。そう思ったのだ。