《500文字小説》春を告げる声
「梅の匂い…」
琴の手を止めて師匠が呟く。私は縁側に続く障子を開けた。柔らかくなった陽射しの中で、白梅が咲いていた。
「当りやわ、梅ですえ」
そう声をかけると、師匠はそっと微笑んだ。視力を失うと感覚が鋭くなるというのは本当なのだ、と彼を見ていると実感する。
「他の所も、咲いてはるかもなあ」
そう言って立ち上がる彼に近づくと、私は羽織を肩にかけた。「すまんなあ」という彼の手を取ると温かさが伝わってきて、涙が思わず滲んだ。
彼の妻は実家に戻ったきり、滅多にここへは立ち寄らない。風の噂では、自分の好きなことをして気ままに暮らしているという。それなのに離婚に承諾しないのは、師匠が親から譲り受けた財産と、知名度のためだ。けれど、私はそれを非難する気はない。だからこそ、こうしていられるのだから。
「梅には鶯いいますけど、この時期に声を聞くことはありまへんなあ」
「都会に来る鶯は、山で鳴き声の練習をしはって、キレイに鳴けるようになってから来るんや」
師匠の腕にすがるように、私は寄り添って歩く。こうして梅の匂いを感じて、鶯の声を一緒にずっと聞くことが出来るよう祈りながら。
昭和初期のイメージで書いてみました。もっと細かく書くべきとは思いますが、500文字というノルマを課していますので。短編オムニバスの一作品と思ってもらえればうれしいです。




