第16話「撤退戦」
背負われた斉藤巡査部長の呼吸は浅く速い。汗に濡れた襟元から、かすかな血の匂いが立ちのぼる。
「痛みは?」
「……だいぶ、マシ……です」
水無瀬が背負い直しながら短く答える。右腕は簡易固定。長居はできない。
「経路更新。来た道を戻るのは危険。右の枝道から南に抜けよう」
水無瀬の投影が薄緑の線で通路を描く。湿った空気に、ゆらりと光の地図が浮かぶ。
「了解。俺が先頭、真は中衛でカバー、水無瀬は後衛だ」
榊原の声が低く響き、すぐ足音に飲み込まれた。俺は竹刀を握り直し、泥に足を取られないよう体重を落とす。
曲がり角を一つ抜けたところで、甲高い擦過音。壁の影から、四本腕の影が二体、這い出してくる。先ほどより甲殻が厚い。
「接敵、二!」
榊原の射撃が先に走り、先頭の肩を跳ね上げる。だが止まらない。
俺は半歩踏み込み、振りかぶった腕の右小手へ鋭く落とす。
「小手ぇっ!」
澄んだ金属音、体の芯まで通る手応え。甲殻の下で、何かが確かに断たれた。一体が崩れ、通路に重い音を残す。
残る一体が水無瀬の方へ跳ぶ。
「下がって!」
俺は横から回り込み、胴線へ薙ぐ。
「胴っ!」
硬い抵抗を刃筋で割り、スキルが発動。二体目も崩れた。
息を整える間もなく、奥から連続した足音。
「まずい、増えるぞ。進む!」
榊原の号令で、俺たちは小走りに通路を縫う。
やがて空気が一段冷たくなり、床材が石から金属に変わった。点在する柱が視界を遮り、音の反響が方向感覚を狂わせる。
「ここは……機械区画?」
「第六層の旧施設跡だ。電源は死んでるが、構造は生きてる」
榊原がそう言い終えるより早く、柱と柱の隙間から、針の雨のような音が走った。
「伏せろ!」
床に飛び込み、頭上を細い骨針が掠めていく。柱の影に潜む小型の射出型――ニードラーだ。数が多い。
「真正面は被弾が多すぎる。右から回り込むルートを提案」
水無瀬の投影が光の矢印を描く。
「真、前へ。俺が釣る」
榊原が反対側へ身を晒し、短いバーストで牽制する。ニードラーの群れが銃声へ向けて散開――今だ。
俺は柱の影をつたい、最前列の個体に間合いを詰める。
「面っ!」
頭頂の器官を叩き割る。続けて一歩、二歩、連続で面。
リズムが合う。呼吸、足、竹刀の先、全部が一つの線になって前へ伸びる。
五体目を落としたところで、反対側の銃声が止んだ。
「弾替え!」
榊原の声。入れ替わるように俺が前へ出る。
「突きっ!」
喉器官を正確に射抜き、最後の一匹を壁へ縫い付けた。
静寂。残心。
「クリア」
呼吸を整え振り返ると、水無瀬の頬に汗が伝い、背の斉藤巡査部長の呼吸が荒い。
「循環が落ちてる。あと二十分以内に第六層のエレベーターホールまで出たい」
「急ぐ」
機械区画を抜けると、先ほど見た掘削跡の“穴”に似た縦坑に出た。だがここははるかに大きい。吹き上がる風が鉄臭く、生温い。
「ルートが二つ。安全度は左だが、距離がある。右は近いが、さっきの縦坑の上を通る狭い橋」
水無瀬の声に、榊原が即断した。
「右で行く。短期決戦だ。真、先頭で橋を抜け。俺は後尾で押さえる」
幅三十センチほどの金属桁。下は暗闇。靴底が薄く滑る。
息を殺し、一歩ずつ。橋の中央に差しかかったとき、背後で鉄が軋む音。
「接近――三、いや四!」
水無瀬の警告が落ちると同時に、通路の奥から四腕が躍り出た。しかも二体は天井を使って側面に回る。
まずい、橋の上で囲まれる。
「真、前をこじ開けろ! 後ろは任せろ!」
榊原の声。振り返れば、彼は通路の入口を身体で塞ぎ、連射で群れを押し留めている。空薬莢が橋の上で跳ね、暗い縦坑へ落ちていく光景が妙にスローモーションに見えた。
俺は前方の影へ踏み込み、天井から降ってくる個体の着地を待たずに打つ。
「小手っ!」
落下の勢いごと切り落とす。狭い。次が近すぎる。間合いを詰められる前に――
「胴っ!」
横へ滑るように一撃。二体目が揺らぎ、その体が橋にのしかかってくる。金属が悲鳴を上げ、桁がわずかに撓む。
「持たせる!」自分に言い聞かせるように吐き、体を壁側に押し付けてやり過ごす。
前路が開いた。だが背後、榊原の射撃が数拍遅れる。
「榊原!」
「大丈夫だ、詰めさせねえ!」
銃声。空白。詰めてくる足音。
「弾、残りわずか!」
追いつかれる――。俺は振り返りざま、橋の入口に突進する影へ、遠間から伸ばす。
「突きぃっ!」
竹刀の先が喉器官に吸い込まれ、影が前のめりに固まる。その体を榊原が蹴り落とし、縦坑へ消えた。
「今だ、抜けろ!」
橋を渡り切り、広い踊り場に転がり込む。榊原と水無瀬も続いた。
数秒の静寂――やがて追撃の気配は遠のいた。
「……ふぅ」
榊原が壁にもたれ、空を切るように呼吸を整える。
「残弾、ハンドガン三。ライフルはマガジン一本」
「医療残量、止血帯一本、鎮痛一回分」
「了解。ホールまでもう少しだ。急ぐぞ」
踊り場を抜け、緩やかな坂を上がる。壁面に刻まれた古い標識〈H-6 ELEVATOR〉が埃の下から顔を出す。
角を曲がった先――視界が開けた。
高い天井。中央に、地上へ伸びるエレベーターシャフト。
だが、ホールの四方に扉が開き、人型の影がぞろりと並んでいた。さっきの四腕ではない。全員、同じ背格好、同じ動き。無表情の仮面のような顔面――。
「……人?」
喉が乾く。次の瞬間、全員がこちらを向き、同時に首を傾げた。まるで“観察”している。
水無瀬の投影が、微かにノイズを含む。
「反応不明……人型だが、生体反応が薄い。注意」
列の中から、一体が一歩、前に出る。
そいつは口を開いた。
「……たすけて……」
十四話で聞いた、あの声。いや、抑揚も震えも、同じすぎる。
榊原が一歩、俺の前に出た。銃口がわずかに下がる。
「真、油断するな。“声”は餌だ」
「分かってる」
人型たちが一斉に動き出す。滑るような足取りで散開――盾も剣もない、ただ無機質な腕がこちらへ伸びる。
俺は中段に構え、息を一つ。気、剣、体。
この場で倒れるわけにはいかない。後ろには、守るべき命がいる。
「行くぞ――!」
俺たちは同時に踏み込んだ。
エレベーターホールに、竹刀の乾いた一音と、短く鋭い銃声が重なる。
闇はまだ、終わらない。