第14話「声」
北区画の奥は、さらに空気が重く淀んでいた。
壁の苔が放つ淡い光だけが視界を照らすが、それもまるで深海の底に差し込む陽光のように心許ない。
通路は狭く、湿った石壁からは水滴が落ち、足元の泥がじわりと靴底に絡みつく。歩くたび、ぬるりとした感触が足の裏を滑らせた。
「足跡、まだ続いてます」
先頭の水無瀬がしゃがみ込み、泥に残る印を指差した。
「人間の靴跡と……あの四本腕の化け物の足跡ですね。まだ新しい」
榊原が周囲を一瞥し、低く呟く。
「何時間も引きずられてりゃ、体力はもたねぇ。急がないと、間に合わんぞ」
その言葉に、俺は無意識に竹刀を握る手に力を込めていた。
鎧騎士のときと違い、今回は守るべき命がある。戦う理由が明確だ。
曲がり角をいくつも抜けた先、薄暗がりの奥で何かが光った。
「……金属?」
慎重に近づくと、それは黒く煤けた拳銃だった。
滑り止めのグリップには、薄く血がこびりついている。
「識別番号、第三班の支給品です」水無瀬が端末を確認する。
周囲の壁には銃弾の痕と、黒い液体の飛び散った跡。
「ここで応戦したが、突破された……ってことか」榊原が低く言う。
俺は銃を拾い上げ、残弾を確認した。マガジンは空。装填し直す暇もなかったのだろう。
さらに進むと、床に奇妙な穴が開いていた。直径一メートルほど。
縁は滑らかで、まるで誰かが意図的に掘り抜いたようだ。
覗き込むと、下から生暖かい湿った風が吹き上がってくる。
「……下層に通じてるかもしれん」
「自然にできた穴じゃないですね。掘削の痕がある」水無瀬が慎重に分析する。
俺は背筋に冷たいものを感じた。
――もし連れ去られたのが下層だとしたら、生存率は一気に下がる。
穴を避けて進むが、通路はさらに複雑になっていった。
右へ曲がり、すぐに左、その先はまた三叉路。
地図がなければ方向感覚を完全に失っていただろう。
その時――かすかに、耳に何かが届いた。
……たす……け……
呼吸が止まった。
俺は反射的に足を止め、水無瀬と榊原を見る。
「今の、聞こえたか?」
「……ああ。女の声だ」榊原が即答する。
「方向は右前方、距離およそ五十メートル。けど、通路が迷路状で直線では行けません」水無瀬が端末を操作して即座に割り出す。
希望と緊張が同時に胸を締め付けた。
急がなければ命を落とす。だが、罠の可能性も否定できない。
こういう場面を何度も経験してきた榊原が、冷静に判断を下す。
「全員、警戒態勢。接近は迅速だが、突入は慎重にだ」
声の方向へ向かう途中、通路脇の陰から小型の魔物が飛び出した。
牙を剥き出しにした猿のような影が二匹、鋭い爪を振りかざして突進してくる。
「下がれ!」榊原が片方を撃ち抜き、俺はもう一匹の懐に滑り込む。
「面っ!」
竹刀の一撃が頭部を叩き、スキルが発動。魔物は糸の切れた人形のように崩れた。
その間にも、あの声は遠ざかっていく。
焦りが胸を焼くが、足を止めるわけにはいかない。
「急ぐぞ。間に合うかもしれん」榊原が先頭に立ち、俺と水無瀬が続く。
曲がり角をひとつ、またひとつと抜ける。
だが――声は、もう聞こえなかった。
暗闇はただ、俺たちの足音だけを飲み込み続けていた。