綛糸とせせらぎの物語
廃集落を毎年訪れる若者、空。そこには、彼を待っている少女がいる。
せせらぎと糸枠が回る音は、鮮やかに約束を思い出させる。
幼い日の約束は、そのまま二人の『縁』となった。
山間の小さな集落……そこにはまだ、懐かしい風景が残っていた。
清らかなせせらぎが縦貫する平地を、鬱蒼とした山々が取り囲む。山裾から反対側の山裾まで、ゆっくり歩いても15分とはかからない。
ぼくが父と共にこの村で暮らしていた頃は、平地はすべて田んぼか蕎麦の畑で、十数軒の家は山の麓か中腹に、森を切り拓いて建っていた。
電気やガスは通っていたが、街灯は少なく夜は真っ暗。その代わり星はよく見えた。
集落の真ん中には、蕎麦を挽く水車小屋が併設された、たった1軒の郵便物取扱所を兼ねる商店があり、60代くらいの老夫婦が住んでいた。
小学校は、集落の鎮守社がある山の頂上付近にあり、ここには山の反対側にある集落からも児童が通学していた。全校生徒は30人もいなかったと思う。
そんな集落も、ご多分に漏れず過疎化の影響を受け無人となっていた。最後の住人が出て行ったのが3年前だと聞いている。
ぼくが、この見捨てられた集落を訪れたのは、懐かしかったからではなく、ある約束をしていたからである。
集落の中央にある水車小屋に足を向ける。近付くと、せせらぎの音と共にゴットン、ゴットンと、特徴あるリズムで水車が回る音が聞こえてくる。
標高の高いこの集落は、夏でも気温は高くない。
だが、長い距離を歩くとそれなりに汗はかく。ぼくが立ち止って一息ついたその時、不意に水車の側に中学生くらいの少女が現れ、ぼくに笑いかけてきた。
豊かな漆黒の長い髪、上品な着物を着たその少女は、最初逢った時とぜんぜん変わらない姿でそこにいた。水車の音と共に、カラカラと乾いた木がこすれ合うような音も聞こえてくる。
「今年も忘れずに来てくれましたね。この1年はどうでしたか、空?」
鈴の音のような声がぼくを迎える。ぼくは穏やかな微笑みに、微笑で答えた。
「おかげさまで」
「祖神様には詣でましたか?」
「はい」
ぼくがうなずくと、少女は誰もいない商店の引き戸を開け、優しい声で僕を誘った。
「では、空の近況を聞かせてください。私のお父様も、空のことは心にかけていらっしゃるようでしたから」
少女は店の奥の畳の間に正座し、綿花をほぐしながら言う。糸枠がカラカラと乾いた音を立てて回り、側にはいくつかの綛糸が置かれている。
ぼくは上がり框に腰かけ、近況を少女に話す。彼女は微笑んで聞いていた。
ぼくはこの少女と、13年前にある約束を交わした。いや、正確には『縁を結んだ』。それ以来毎年、ヒグラシが鳴き始めるまでにこの集落を訪れている。
それは、ぼくが7歳の時だった。当時この集落は、交通が隔絶された土地にあった事と、翡翠の加工品という特産物があったために、全国の同じような集落に比べると人口の減少は緩やかだった。
もちろん保育所とか幼稚園といった類の施設もなく、子どもたちは親の手伝いをしながら田畑で遊んだり、川遊びや山の探索に興じたりしていた。
その2年前、父の都合でこの集落に移り住んだぼくは、なかなか集落の子どもたちと慣れることができなかった。父が鎮守社の神主をしていたこともあり、集落の人たちからは『敬して遠ざけられる』状態だったと、今にして思う。
ぼくは、父を手伝って祭神様のお供物を準備したり、父から古い書物を読まされたり、一緒に滝に打たれたりしながら過ごしていた。
ある日、ぼくは父のお使いで、お札を水車小屋に届けに行った。水車小屋のおじいさんは、お札を受け取った後、ニコニコして僕に言った。
「月宮の坊(僕は一部の大人たちからそう呼ばれていた)、店の方に寄ってけ。ばあさんがお菓子を準備しとるがに」
ぼくは喜んでお店に立ち寄り、おばあさんと少し話をした後、袋いっぱいの駄菓子をもらい、お礼を言って店を出た。どのお菓子から食べようかと迷いながら水車小屋の横まで来た時、水車の陰から一人の少女が出て来て、ぼくに近寄って来た。
ぼくは思わず立ち止まった。その子が可愛らしかったのもあるが、その当時でもすでに着る人が少なくなった和装で、それがすごく似合っていたからだ。
豊かな黒髪は肩を少し越えるくらい長さで、黒曜石のような瞳がぼくを見ている。そして牡丹の花びらのような唇が動いて、鈴の音のような声を出した。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
少女は幾つぐらいだろう? 背丈はぼくより頭一つ半ほど高く、大人びて見えたので中学生に違いないと思った。
「あなた、あそこ(と言いながらぼくが住んでいる神社を指差し)の子?」
少女の問いにぼくがうなずくと、彼女は『ふぅ~ん』と言いながら袂から何かを取り出し、ぼくに、
「月宮の神様にはお世話になっているから、これあげる」
と、色とりどりの撚糸でできた輪っかを押し付けるようにして言った。よく見ると、彼女の右手首にも、同じような輪っかが嵌められている。
ぼくは、こんなきれいなものをただで貰うわけにはいかないと思い、首を横に振る。
「おとうさんから、理由もなく人から物を貰っちゃいけないって言われているんだ」
ぼくが言うと、少女は左袖の袂で口元を覆い、くっくっと笑っていたが、
「……月宮の坊は、お父様がおっしゃるとおり利発ですね。
では、こうしましょう。私は何かお菓子が食べたいのです。あなたが持っているお菓子と交換していただけませんか?」
今思うと、大人のような物言いだったが、ぼくはさほど気にしなかった。5歳のぼくから見たら、中学生のお姉さんは大人と変わらなかったから。
ぼくは、袋に入っている駄菓子の中で一番高価なものと、一番色鮮やかで可愛らしいものを選んで彼女に手渡した。
「ありがとう。きれいだし、美味しそうね。手を出して?」
彼女はくすくす笑いながら、ぼくの手首に輪っかを嵌めてくれた。
ぼくが輪っかに見とれていると、さっと柔らかい風が吹き、顏を上げた時にはお姉さんの姿はなかった。
それからというもの、ぼくはたびたびお姉さんと顔を合わせるようになった。お姉さんの名前は瀬緒里さんと言って、川の上流に住んでいるとのことだった。
お姉さんはいろいろなことを知っていた。水は命の源であり、水の循環と同じように命も循環していること。山の木々が川や里を育んでいること。山が穢されれば、その影響は海にまで及ぶこと……そういったことを、子どものぼくにも解るように教えてくれた。
ぼくの父は、ぼくが瀬緒里さんからもらった輪っかを見た時、
「空、それはどうした?」
そう訊いてきたが、ぼくが中学生のお姉さんからもらったと答えると、何か考えるような顔をしたが、結局何も言わなかった。
そして、ぼくが小学校に上がる年の3月、ぼくは瀬緒里さんに誘われて、川上の谷間に咲く梅の花を見に行った。
その日、瀬緒里さんはいつもの和服ではなく、神社にいる巫女さんのような恰好をしていた。沢沿いの道を歩くには着物は不適当だし、巫女服だって五十歩百歩だとは思ったが、瀬緒里さんは軽やかに道を進み、ぼくの手を引きながらあっという間に山奥の滝までやって来た。
その滝は、いつもぼくが父と行をする滝よりも大きかった。
ぼくは、ごうごうと音を立てて流れ落ちる水、飛沫で煙る滝壺、水はどこまでも澄んで川底まで見え、サッと素早く泳ぐ魚の鱗がきらりと光るのを興味深く観察していた。
と、カラカラと乾いた音がするのに気が付く。ぼくが瀬緒里さんを目で探すと、少し離れた岩の上で、木綿糸を紡いでいるのが見えた。
瀬緒里さんは微笑みを浮かべ、優しい目でぼくを見守りながら、左手を綿の実に添え、右手のハンドルを回している。カラカラという音は、真ん中の糸枠が回る音だった。
その瞬間、ぼくは瀬緒里さんが人間とは違う、何か不思議な存在だと悟った。糸巻きをする彼女を木漏れ日が照らし、梅の花びらが舞う光景は、幼い自分の中で神々しいものとして記憶されている。
その光景を見て、ぼくは何故だか目が眩んだ。足がふらついて立っていられなくなり、ぼくは滝壺近くの水面に落下した。ぼくを見る瀬緒里さんの顔が、驚愕と焦りの表情を浮かべるのを見ながら、ぼくの意識は途切れた。
どぼんという音と共に、ぼくの身体は冷たい水に捉えられる。意識は途切れたはずなのに、それからの出来事ははっきりと覚えている。
不思議と、苦しくはなかった。
冷たさも感じず、むしろ温かい何かに包まれて、ぼくは眠っていたいような安らかな思いに満ちていた。
『空……』
懐かしい声が聞こえる。それは2年前、ぼくが物心ついたばかりの頃に亡くなった母の声だった。
ぼくは目をうっすらと開ける。ぼやけた視界に、忘れかけていた母の顔が映る。母は優しく笑っていた。そして座っているぼくの頭をなでて言った。
『寂しい思いをさせてごめんね? でも、母さんはいつも空を見守っているわ。忘れないで』
ぼくの背中を、母の温かい手がなでている。ぼくを見つめる母の顔は、いつの間にか悲しみに歪む瀬緒里さんの顔になっていた。その瀬緒里さんを、白い髪をした若者が叱責している。
若者は細面で、銀色の光に包まれている。父の古びた書物に描かれた、お公家さんのような身なりをした若者に、瀬緒里さんの横に立っている、修験者の格好をした白いひげのおじいさんが頭を下げて、しきりに謝っていた。
『坊は、麿が氏子にして縁深き者で、その父は麿に誠心誠意仕えている身。
その坊を危ない目に遭わせるとは、務めを疎かにしておるより許し難い。
坊とそちの娘の結縁、反故にしても良いでおじゃるか?』
『いえ、娘は決してそのようなつもりではなく、月宮の坊の為人を寿ぎ、神気にふれさせんとしたもの。ご立腹は尤もでございますが、どうか娘の気持ちもお汲みくださいませ』
おじいさんは必死の形相でそう言い、瀬緒里さんにも、
『これ、お前も月宮の皇子様にお願いいたさんか。さもなくば神徳を授けることも叶わなくなるぞ』
そう言ってせっついている。
しかし、瀬緒里さんは顔を伏せて、肩を震わしているばかりだ。
『瀬緒里お姉ちゃんは、何も悪くないよ?』
ぼくが思い切って声をかけると、瀬緒里さんはハッとした顔を上げる。桜色の頬が涙でぬれていた。
『ぼくがお姉ちゃんの姿にドキッとして、足を滑らせたのが悪いんだ。お姉ちゃんはぼくを一生懸命助けようとしてくれたし、一人ぼっちのぼくと遊んでもくれた。いろんなこといっぱい教えてくれた。だからお兄さん、瀬緒里お姉ちゃんを責めないであげて?』
するとお姉さんは、ぼくを力いっぱい抱きしめて号泣した。お姉さんは、早春の風の匂いがした。
白いお兄さんは、ぼくと瀬緒里お姉さんのことをじっと見ていたが、やがて、
『月宮の坊、川津媛に恨みや憎しみはおじゃらぬか?』
静かにそう訊いてくる。ぼくはうなずいて、
『お父さんは、自分の失敗を人のせいにするなって言ってた。それに命はジュンカンするんでしょ? ぼくはどこかで、またぼくを生きると良いんだ』
ぼくの言葉に、瀬緒里さんはビクッと肩を震わせる。そして一層強くぼくを抱きしめて、しゃくりあげながら言った。
『月宮の坊、ごめんなさい。私が力及ばないばかりに……』
その時、白いお兄さんが言った。
『三界の責務は替え難し。坊が去ねば、麿は彼に顔向けが出来ぬ仕儀と相成る。
幸い、坊はまだ黄泉戸喫をしておじゃらぬ。川津媛、そなたの神気で坊を黄泉平坂より呼び戻せ。麿が許す』
その言葉に、瀬緒里さんはハッとして白いお兄さんを見つめる。白髭のおじいさんは、沈痛な面持ちで瀬緒里さんを見つめ、小さくつぶやいた。
『媛は神去るが、致し方なし』
そして白いお兄さんは、ぼくに向かって言った。
『坊、川津媛が自らの命を懸けて坊を呼び戻すでおじゃる。媛を神去らせたくないでおじゃるかの?』
『神去る』の意味は分からなかったが、直感的に二度と会えなくなるのだと悟った僕は、白いお兄さんの言葉にうなずいた。
お兄さんは笑いながら、
『さても利発な御子におじゃるな。では、坊は毎年、梅が咲いた後、ヒグラシが鳴く前にこの土地で川津媛と会うがよい。坊がそれを忘れぬ間は、媛は神去ることはないでおじゃろうよ』
ぼくにそう言った後、瀬緒里お姉さんには、
『いい縁を結べてよかったでおじゃるな。坊が二十歳になるまで途切れることなく会えば、そなたも神去る恐れはなくなるでおじゃろう』
そう言って、空気に融けるように消えて行き、それと同時にぼくの意識は再び途切れた。
ぼくが目を覚ましたのは、病院のストレッチャーの上でだった。ぼくが身体を動かした時、頭の上で
「ひっ!」
という女の人の声を聞いた。
それからが大変だった。
どうやらぼくはいっぺん死んだらしい。医師がぼくの死亡を確認し、霊安室に移される途中で息を吹き返した。
ぼくの死亡と蘇生を聞いた父は、『さもありなん』と言う感じで、お医者さんの説明にも淡々と対応していたそうだ。
ぼくのような事例は稀にある話らしいが、とにかく集落では大変な噂になったようだ。
集落の人たちは、月宮様がぼくを救ったと思っているらしい。それはそれで間違いではないが、もう一柱、川の神の娘である瀬緒里さんのおかげでもある。
そのことは、ぼくが中学校に上がるために集落を出る際、父が教えてくれたことだ。
何でも父は、ぼくがあの輪っかを瀬緒里さんからもらって帰って来た日に、瀬緒里さんが何者なのかを知ったそうだ。
「土着の神から気に入られることには、メリットとデメリットがある。
俺は、お前に近付いてきたものが誰で、何のためにそうするのかを祭神様から告げられていたので静観していた。悪いようにはならないと思ったからだ。
だが、お前の事故で、お前は祖神様や媛とかなり強い縁を結んでしまった。恐らく人並みの恋愛や結婚はできないだろう。それだけは覚悟しておけよ」
そう言いながら、ぼくに糸枠を渡してくれた。それには墨で黒々と2首の和歌が書かれていた。
『来たり去る命を水と例えしは、我が背に語りし理の道』
『忘れまじ、梅が枝に咲く背の笑顔、悔いなき時を生きる誓約を』
……その糸枠は、今ぼくの『無常堂』に飾っている。そして瀬緒里姉さんと会うべき時期には、必ずカラカラと音を立て、ぼくにあのせせらぎと、あの神々しい風景を思い出させてくれるのだ。
(終わり)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ホラーって難しいですね。何というか、「これはホラー?」って感じの作品になっちゃいました。
日本的なじっとりとした、足元から這い上がってくるような恐怖体験をしたことはありますが、それを文章化するとフラッシュバックしたり、いろいろな思いが混じっちゃったりして、自身の精神衛生上、結局、不思議系の作品に落ち着いてしまいました。
ただ、前述したとおり、僕は結構恐怖体験(というより不思議体験)は多い方だと思いますので、せっかく生まれた空というキャラクターで、不定期に『不思議な物語』を書いて行こうかと思います。
では、またいつか。
シベリウスP