7 瀕死の堕天魔族は魔王の妻
リセリアの体は氷のように冷たく、かすかにでも息をしているのか分からなかった。
「アルファード、そっちの手首から全力で魔力を流せ」
「はいっ!」
久しぶりに見る父上――魔王の姿はひどくやつれていた。痩せこけ、髪もぼさぼさ、服も汚れたままで、まるで落ち武者だ。
ツノがなければ、俺でも気づけなかったかもしれない。
だけど――その腕は、やっぱり桁違いだった。
魔力の流れが一瞬で切り替わった。
自然の摂理さえ従わせるような、重く静かな魔力――
それは、魔王のそれだった。
見たこともない速さで術式を構築し、魔力をリセリアの体に送り込んでいく。
とてもじゃないが、読み取れるような速度じゃない。まさに、異次元の力だ。
俺なんて、ただの補助。人間で言うところの「輸血」レベルの魔力供給でしかない。改めて、自分の無力さを痛感する。
俺、正直ずっと無双だと思ってた。
今思えば、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「命を繋いだら、あとは私たち交互に魔力を注げ。完全回復させると反動がくる」
「了解です……!」
状況を冷静に分析し、魔力の理論を即座に判断する。
その指示に、一切の迷いもない。
完全に“魔王”としての指揮だった。
父上は、淡々と術式を重ね続ける。
その魔力と共にリセリアの血流がゆっくりと戻り始めていた。
手を握った。細い。こんなに細かったか?
昨日スキャンしたとき、なぜ気づけなかった。どうして傷の多さだけに囚われたんだ。後悔ばかりが湧き上がる。
――ていうか、俺は何してるんだ? 目の前の女は敵だ。俺と父上を殺そうとした、堕天魔族だぞ。
リセリアの指先が、ぴくりと動いた。そのとき――
「リン……戻ってきてくれてたんだね。ごめんね。迎えに来るの、遅くなって……ごめんね……」
父上が、涙を流していた。
――は?
「な、なに言ってるんですか、父上!? こいつはリセリアですよ!? 俺と同い年で、母上が生きてた時にはもう生まれてましたよ!? しかも堕天魔族で、俺たちを殺しかけた――」
思わず、リセリアの手を放そうとする。
「アルファード、魔力を絶やすな!」
父上の声が震えることなく響いた。
その一言に、声に、王としての威厳がある。
「は、はいっ!!」
これは、誰だ?俺の知ってる父上じゃない。
叱咤が飛び、慌てて再び魔力を流す。意識を集中する。
赤紫の頬が、ほんのわずかに赤みを取り戻してきた……のか? 腫れすぎてて、正直よく分からない。
「リンが起きてくれない限り、何があったのか分からない。ただ、私が気づけなかったのも……全部、私の失態だ」
「父上の……失態……?」
頷く父上は、続けた。
「閉じこもっていた数年、リンが転生したり、どこかに魂が迷っているんじゃないかと魔界全体を探知していた。……気が狂ってると思うだろうな。だが、本気だった。その時、お前から初めてSOSを感じて、転移してみれば……お前の腕の中に、瀕死の妻がいた」
つまり――俺の腕に、母がいた……?
「堕天魔族は力は弱いが、瘴気に強い。それが彼らの強みだ。私の弱点が強みというのは、今後の対応次第では障壁になりかねない。だから、あえて関わらず現時点では接触を図らなかったし、堕天魔族の置かれた環境にも目を瞑っていた。だが……まさか、死んだ堕天魔族にリンが転生しているとは……私も想定外だった」
父上は、腫れ上がったリセリアの頬にそっと手を当て、冷やしてやる。
その瞬間、リセリアの顔が少しだけ……苦しみから解き放たれたような表情を見せた。
――母親、って言われても、目の前にいるのはリセリアだ。
でも、父上が間違えるとも思えない。
それに、どうして父上は一目で母だと分かったんだ……?
俺は、記憶をたどった。あの小さな、ベッドに伏せた母上の面影を。
だが今ここにいるのは、パンパンに腫れた堕天魔族の女だ。似ても似つかない。
……それでも、たしかにふとした微笑みや、揺らぐことのない姿勢など「何か」が重なる気がした。