5 もう一度、母上と呼ばれたくて
教室に戻ったときには、もう誰もいなかった。
リセリアの机の上には、破れたノートとぐちゃぐちゃになった教科書。
何冊かは窓の外に投げ捨てられていて、ページが風にめくられている。
「……やっぱり、こうなるのね」
笑ってみたけど、声が震えていた。
堕天魔族ってだけで、こんな仕打ち。
でも、そうよね。瘴気って魔族にとっては毒みたいなものだもの。
……それでも。
前の人生で、私は魔界の瘴気を浄化してたのに。
魔王の妻として、少しでもこの世界を良くしたかったのに。
「……私、何も知らなかったんだな」
堕天魔族がこんなふうに迫害されてたなんて、知ろうともしなかった。
偉そうに“皇后”なんて呼ばれてたくせに、なにも届いてなかった。
──そりゃあ、息子にも嫌われるわけだ。
肩が重い。息が苦しい。立ってるだけで精一杯だ。
アルファードの顔が浮かぶ。
優しかった。私が堕天魔族でも、母親じゃないって突っぱねても、助けてくれた。
「……いい子に育ってたなぁ」
あの子がやっと話せるようになった頃、私はもう歩けなかった。
手を引いてやりたくても、ベッドから起き上がれなかった。
魔王さまは、そんな私の代わりにいっぱい愛してくれたけど──
アルファードが私を“恥ずかしい”って避けるようになってから、あの二人は、いつも喧嘩してたっけ。
「……ちゃんと、受け継いでくれてたんだね」
魔王さまの優しさ。
私の大事にしてたもの。
ちゃんと、あの子の中に残ってた。
涙がこぼれる前に、机の上の荷物を全部かき集めてカバンに押し込む。
明日、生きてたとしても──ここに来る元気はもう、きっとない。
誰もいない教壇に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「短い間だけど……お世話になりました」
教室のドアを開けた瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
仲間の堕天魔族に回収される。
リセリアの記憶はそこで途切れた。
ーーー
アルファードは、魔王城に戻ってからも落ち着かなかった。
あの堕天魔族――リセリアの言葉が、頭から離れない。
「……母上、か」
思い出すのは、しわしわの手。
小さくて、穏やかな背中。
笑ったときの、あの目尻のシワ。
違う。リセリアは、あんなじゃない。
でも――
「……気になるな。やっぱり」
父上に相談したい。
でも、あの人は――もう、あの日から変わってしまった。
亡き母上の魂が見つからず、精霊として戻らないと分かった日から、父上は執務室に結界を張った。
俺でも破れない、完璧なやつだ。
必要な仕事は、ドア前に置いておけば、翌日には転移で返ってくる。
魔王は断食じゃ死なないけど、もう、食事すら摂らなくなった。
厨房長のオーガも、教育係だったスネクも、
「また必要とされる日がきたら」と言って、去った。
今、魔王の代わりに政務を回してるのは、秘書官のトミーだ。
俺は執務室の外に、短くメッセージを置いた。
『伝書鳥を貸してください』
しばらくして、返事が来る。
『どうぞ』
……何に使うかなんて、聞かないのか。
まあ、聞かれても言えないけど。
父上の“最愛の妻”を名乗る十五歳の堕天魔族が気になるから、なんて。
――言えるわけがない。
「……ほんとに、あんなふうに誰かを愛せるものなんだな。父上は」
伝書鳥の籠を手に取って、俺はそっと、窓を開けた。
もし、また誰かに危害を加えられてるようなら、助けに行こう。そう決意して。