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第一話

 メメント森は、朝から憂鬱である。

 決して余人には推し量ることができないが、目覚めたときから希死念慮と戦っている。起き上がるだけで吐きそうなので、枕に顔をうずめて、頭の中にしかいない架空の幼馴染・イヌマエルを相手に会話をするのが日課である。

 メメント森は、あまりの不遇な人生に辟易している。DV家庭に生まれ育ち、メメント森が高校生の頃には親が倒れてヤングケアラーとなり、世に出たときは就職氷河期だった。

 結婚はしたものの、配偶者は年を経るごとに亭主関白になり、メメント森の実印で勝手にクレジットカードを作り、ついには娘の学費にまで手をつけたので離婚した。

 夫婦仲が冷え切ってからは「お前の飯、うまいと思ったことがないんだよ!」などと言い出したので、結婚当初にうまいうまいとがっついていたのはなんだったのだろうなと、メメント森はむなしくなった。決して自分の努力を評価されたいわけではなかったが、罵声をぶつけられる謂れなど全くない。

 元夫は相場数万円の養育費をほとんど支払わなかったので、メメント森はさすがに裁判所で調停をした。養育費は子供の権利だ。その後、元夫はおとなしく養育費を支払ったが、娘に会うたびに「俺たちは味方だからな!」とか「お母さんとはこんなに美味しいお寿司は食べられないだろう」とか吹き込んだので、最終的には嫌われた。

 子供の進学に備えて、仕事を掛け持ちしながら懸命に働くメメント森だったが、その頃、父が亡くなった。

 メメント森は遺産相続をすることになったが、弟は「遺産を放棄しろ」「弁護士に頼んでも、弁護士費用の方が高くつく」「調停するなら縁を切る。一族にも嫌われるぞ」「ろくな仕事もできないくせに。掃除のおばさんのバイトでもしてろ」とメメント森に迫り、またもや調停にもつれこんだ。

 親族の何人かが「相続放棄しなさい。あの子は悪いようにはしないから」と言ってきたが、メメント森は自分が長年見てきた弟の姿を信じた。弟本人から、交際相手に詐欺まがいのことをしてきたのを何度も聞いていたのである。交際相手に多額の借金をしては破局をくりかえし、悪びれずに「パチンコで六万円すったわ!」と爆笑しながら電話してきた弟の姿を、メメント森は信じたのである。捕まらない詐欺師だ、とメメント森は思った。何かの拍子にうっかり弟が逮捕されて、姉のコメントを求められる日が来てもおかしくはない。

 結局メメント森は、それなりの遺産を手にした。弁護士費用の方が高くつくと言った弟は、大嘘つきだったわけである。

 親族の一部に「遺産を放棄した方がいい」と言われたときに、自分がおかしいのかと考え込んだが、自身の権利のためにも調停をしてよかった。しかしそれでも、メメント森はひどく落ち込んだ。親戚付き合いも含めて真面目に生きてきたメメント森が、なぜこんな目に遭わなくてはならないのだろう。「誰かが泣かなくてはいけない」と親族の一人は言ったが、それがいつもメメント森である必要などない。

 娘の進学のために懸命に仕事をしたが、子供は子供で抱えるものがあったのか、学校をサボりがちになった。娘に片思いをしている男性が、家までつけてきたこともあるようだった。小学生の頃にもらった、名前を書いた植木鉢を捨てて欲しい……そう頼まれて、メメント森は娘の置かれている状況を心配した。

「このままでは成績が危うい」──学校からそんな連絡があったことにメメント森は激怒し、呆れ返ったが、子供に懸命に仕事の楽しさを伝えた。希望の職に就くには、勉強をしなさいと遠回しに伝えたかったのである。

 メメント森自身も、仕事のために努力をした。日々変化していく業界についていくのは大変な苦労だった。

 ある日、メメント森は、あまりにも自分が人生を楽しんでいないことに気がついた。友人と出かけたり、お酒を飲んだりはしていたが、せっかく元夫と離婚して自由になったのだ。子供も成長した。もう少し人生を楽しんでもいいだろうと、昔好きだったミュージシャンが今何をしているのか調べた。コロナ禍でライブができず、バンドのメンバーが抜け、苦労しているようだった。

 メメント森は、配信でライブを見た。観客の様子をうかがうような推しの姿に、傷ついているのではないかと心配した。推しの誕生日に一念発起してファンレターを送ったのは、純粋に励ましたかったのである。ピエロ役を演じるように、バカなことも書いた。バカ過ぎて、叱られたこともあったほどだ。そのときはきちんと謝った。足繁くライブに通い、どれほど応援しているか、どれだけ励まされたか、推しがどれだけ素晴らしい楽曲を作ってきたか、ライブをどのように見たか、いかに好きかを切々と語り、語り過ぎて長ったらしいメールになった。

 SNSでそれとなく返事があって、ちょっかいを出されるうち、メメント森はすっかり舞い上がった。推しが好きすぎたのである。

 それが、メメント森を襲った最大級の不幸のはじまりだった。

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