第五話:語られなかった名前
祠を後にしたセイとリィナは、小川のほとりに腰を下ろし、一息ついた。朝の冷気がようやく和らぎ、太陽が森の木々の隙間から差し込んでくる。きらきらと光る水面が揺れているのを見て、ふたりはようやく緊張を解いたように息を吐いた。
「……なんか、どっと疲れたね」
リィナが手にした水筒をセイに渡しながら言った。セイは礼を言い、それを口に含む。冷たい水が喉を通り、身体が少しずつ落ち着いてくる。
「記憶を見るって、あんなに体力を使うものなのか……」
「心が引っ張られるからじゃない? 誰かの大事なものに触れるって、やっぱりただじゃ済まないんだよ」
セイは静かに頷いた。短剣を使うたびに感じるあの不思議な疲労感。それがただの魔法の力ではなく、人の“重さ”を背負う行為なのだとようやく理解し始めていた。
「さっき言ってたよね。声を聞いたことがあるって。……誰の声だったんだ?」
しばしの沈黙が流れる。風が木々を揺らし、鳥のさえずりが川辺に響く。リィナの顔が少し陰った。
「たぶん……昔、うちの親父が一緒にいた人。顔は知らない。でも、幼い頃、夢の中で何度もあの声を聞いたんだ。私の名前を呼んでくれた、優しい声だった」
「親父の仲間だったのか」
リィナは小さく頷く。
「そう。親父は元々、盗賊団の一員だった。でも、ただ盗むんじゃなくて、“奪われたものを取り返す”ために動いてた。正義とかじゃない。……ただ、助けられる相手が目の前にいたら放っておけなかった、そんな人だった」
彼女の瞳には、尊敬と寂しさが同時に宿っていた。
「でもね、ある日突然、全部が終わった。仲間の裏切りで、親父は……殺された」
セイの胸に、冷たい痛みが走る。彼の父もまた、最期の仕事で命を落とした。似すぎていた。まるで鏡に映したような過去。
「……犯人はわかってるのか?」
リィナは首を横に振った。
「親父の仲間の中に、裏切り者がいたのは間違いない。でも誰かはわからない。ただ、最近……ずっと胸に引っかかってたあの声を、今日、祠で聞いたんだ。確かに、あの人がいた」
セイは短剣を見つめた。銀の刃に、微かにリィナの顔が映る。
「もしかしたら……君の父さんも、俺の父さんと繋がってたのかもしれない」
「そうかもね。あの記憶の中で、親父の名前は出なかったけど、空気が似てた。あの場にいた人たち、きっと同じ理想を持ってたんだと思う」
セイは静かに立ち上がり、手のひらに短剣を乗せた。
「この刃が“記憶”を繋げてくれてるのかもな。見えなかった糸を、手繰り寄せるように」
リィナも立ち上がり、川の水を一口飲んだ。
「じゃあ、その“糸”をたどってみようよ。父さんたちが何を守ろうとしてたのか、確かめるために」
セイは頷いた。
ふたりの旅は、ただの過去探しではなくなっていた。互いの記憶を重ねながら、“父たちが命を懸けて守ったもの”――その真実に触れる旅へと、静かに変わっていこうとしていた。