第二話:最初の記憶
旅に出てから三日目の朝、セイは小高い丘の上に立っていた。地図にも記されていない、名もなき村の跡地。母の日記に一度だけ書かれていた、その名は《ナグレア》。
草に覆われた道、崩れかけた石垣、窓ガラスの割れた家屋。人の気配はどこにもないが、風に運ばれてくる土と木の匂いが、かすかにかつての暮らしの名残を伝えていた。
「ここが……ナグレア」
セイは背負い袋を下ろし、辺りをゆっくりと歩いた。母の遺した日記には、「父が最後に訪れた地」として、この村の名が記されていた。地図には載っていない。それでも、セイの中では“ここに来るべきだ”という確信があった。
村の中心には、苔に覆われた古い祠があった。石段を登ると、中央には風雨にさらされた石碑が佇んでいる。古びた文字は風化し、もはや解読することはできなかった。
けれど、セイの心には、確かに何かが響いた。
腰の短剣に手を伸ばすと、柄の部分が微かに脈打つように震えていた。セイはゆっくりと跪き、短剣の刃を石碑の表面へとそっと触れさせた。
空気が凍りつき、世界の音が消える。視界がぐにゃりと歪み、そして、光が全てを包み込んだ。
目の前に現れたのは、見覚えのある後ろ姿。
――父だ。
まだ若く、旅装を身にまとっている。その父が、フードを被った人物と向き合っていた。
「この刃を、あいつに渡すのか?」
「全部じゃない。ただ、“選べるように”しておきたいだけだ」
「だが、その力は危うい。あの子はまだ若い」
「だからこそ、信じるんだ。俺たちよりも、ずっとまっすぐにこの力を使えるはずだ」
フードの人物は何も言わなかった。ただ、じっと父を見つめていた。
そして次の瞬間、父がセイの方へと振り返った。
「セイ……お前がこの記憶を見ているのなら、きっと旅を始めたんだな」
父の目が、まっすぐにセイを見ていた。
それが“記録”であると分かっていても、その視線は確かに彼を見つめていた。
「お前にすべてを託すことはできない。だが、選ぶ力だけは渡したかった。誰かの記憶に触れ、想いを知り、何を残すか、自分で決めてくれ」
言葉が終わると、光がすっと引いていった。
風が吹いた。
セイはゆっくりと目を開けた。現実が戻る。祠の空気は冷たく、彼の背中には汗がにじんでいた。
「……父さん」
震える手で短剣を握りしめる。
あの記憶の中で交わされた会話。決して聞いたことのないはずの言葉なのに、どこか懐かしかった。
そのとき、祠の奥にある壊れかけた棚の中に、紙の切れ端のようなものが差し込まれているのが目に入った。
セイは慎重にそれを引き抜く。
薄汚れているが、しっかりと描かれた手書きの地図だった。その中央に赤い印が記されている。
《風に記されし、第二の鍵》
その言葉を目にした瞬間、セイの中で何かがはっきりと形を持った。
「父さんは……ただ過去を伝えたかったんじゃない。俺に“選ばせたかった”んだ」
彼は地図を胸に抱き、祠を後にした。
旅は、ただの追憶ではない。これから紡ぐ未来のために、過去を“選び直す”旅だ。
風が、再び彼の背を押した。