雨の日の推考
テイラー兄弟への訪問をしてから数日後、ロンドンの上空は今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
苛立つイズミには、そんな天気すら不快に感じられる。先日の調査でも進展が無かった焦りから、仕事にも身が入らない。
そんなこちらを気遣って、グレイは調査内容を教えてほしいと切り出した。1人で抱え込まずに話した方が、気分がスッキリするだろうということだ。
「ーー結局、目ぼしい収穫は無し、か。その容疑者2人の関係はどうなんだ? 仲が悪かったとか無いのか?」
「もちろん本人たちから話を聞いた後、周りの人たちは聞き込みしました。でも特段目ぼしい話は出なかったんです。むしろお互いの関係者が、彼らに兄弟がいることも半年前に持ち上がった提携話で知ったと言っていましたよ」
「提携話?」
「はい。ラッセルの勤める会社の資金提供で、弟のビールを大量生産させて、それを会社が買い取って全国販売する計画だそうです。今日から数えて2日日後にラッセルの働く会社で契約書類にサインするとか。問題の日に行われた試飲会にレックスのビールが出されたのも、そのためのアピールだったらしいです。ただレックス本人は乗り気では無かったそうですが、兄と周りの従業員に押されて承諾したそうですよ」
「あの狼探偵は? この件について何か言ってたか?」
「まだ気分が伏せっていると、昨日ブルースさんから電話で教えてもらいました。戻り次第話してもらえるそうですけど」
「そうか……」
ツーブロックの頭を掻くグレイに、イズミは思い切って尋ねる。
「あの、グレイ警部はどうしてウォルフを信用できるんですか? 私には、あの人がそんな凄い人には思えません」
こちらの質問に、グレイはフッと笑いをこぼす。
「確かにあいつは変人だよ。普通の奴とは違う。だがそれ故に、あいつは普通の奴と違う視点で物事を見れる。普通の奴が常識や普通って言葉で片付けようとすることにも、きちんと理由や答えを探そうとする。そうやって、いつも謎を解いてきたのさ」そう語るグレイの顔には、ウォルフという男への全幅の信頼が表れていた。「だから、今回もきっと大丈夫だ」
そのままグレイは椅子を引きずって自分の席へと戻っていく。その奥にある窓の外をふ、と見ると、まだ雨は降り続いている。しかし不思議と、先ほどまでの不快感は感じなかったーー。
「ーーって訳で、当たって砕けろの精神で会ってみた結果、ものの見事に玉砕しました。やっぱりもう少し質問とかを考えてから行った方が良かったっすかね。迂闊でした」夕立が通り過ぎた頃、ブルースは事務所の中で、ようやくやる気が戻り始めた相棒に調査内容を説明していた。話は1つひとつを短く、分かりやすく、身振り手振りを交えて。統合失調症のこの男に対する話し方を、ブルースは数年来の付き合いから把握していた。
その後も話を進めながらブルースはウォルフを時折り見やるが、男はこちらの話を無視しているかのように目線を合わせない。しかしそれは、この男が目線を合わせることが苦手であるためと自分は知っている。そのためブルースは目の前にいる片割れの狼仮面を付けた男がこちらを見ず本を眺めていても構わずに話を進める。
ウォルフの広げているページには、みすぼらしい服を着たネズミと整った服を着こなすネズミが麦を食むイラストが載っていた。
その後も説明を続ける合間に、ブルースは机に置いたブドウの缶詰を開けて一口摘まむ。わざわざ高級品を選んだだけあって、瑞々しい食感と芳醇な味わいが口いっぱいに広がる。
「迂闊といえば、これもそうでしたね。相手の警戒心を解くためにこんな高い土産まで用意したのに、まさかあの兄弟が揃いも揃って金属アレルギーだったとは」
あの後知ったが、金属アレルギーの人間の中には缶詰めがダメなタイプもいるらしい。缶詰め自体に含まれる金属の成分が、中の液体に混じって内容物に溶け込むことがあるからだとか。それを踏まえて考えると、確かに弟のレックスはこちらが渡した缶詰めについて、体質に合わないから従業員に配ると言っていた。兄のラッセルにしても、全身高級ブランドに身を包んでいたのに腕時計を身につけていないのは不自然だと思ったが、両者が金属アレルギーだというなら納得がいく。そもそも同じ受精卵から別れて産まれた双子なら同じアレルギーを持っていて当然だろう。
自分が見聞きして来た出来事を話し終えると、ブルースはイズミからもらった、DNA鑑定の報告書のコピーを眺める。
あのどちらかが犯人なのは確かだが、どちらかは分からない……。
「……どうでしょうウォルフさん、どちらが相手か分からないなら、いっそケイトちゃんをより幸せにできる相手を犯人としてこじつけるっていうのは? どっちも自分じゃないって言ってるけど、現場に残された証拠品のDNAと2人の遺伝子は一致する訳だし、都合の良い方だけ見せつければなんとかなるんじゃーー」
ブルースは半ばヤケになって提案するが、それにもウォルフは無反応だった。仕方なくこの男の好きな冷やし飴でも用意しようと、ブルースは台所へ向かう。
仮にどちらでも良いとしたら、どちらの方が幸せだろう。ブルースは生姜をすりおろしながら考えを巡らせる。
弟のレックスは、のんびりとした生き方をしているが食事は不味く金に余裕もない。なにより己に自信が無いように俺からは見えた。
一方兄のラッセルは、エリート振るのが鼻についたが、仕事に追われる分だけの金を持っていて、将来も有望そうに見えた。
水飴以外の材料をステンレス鍋に放り込み、中火、弱火の順に煮立てていく。焦げ付かないように鍋を眺めながら、ブルースはウォルフが見ていた絵本のページを思い出す。
仮にこれが童話の"田舎のネズミと都会のネズミ"だったら、自由に生きられる田舎のネズミの方が幸せという結論に至るだろう。
ザルで濾した後水飴と共に鍋に戻して、中火で再び煮立たせる。
しかし俺たちが生きるのは現実だ。生きるために金が必要なのは当然だし、そのために時には我慢をするのもある種当然とも言えるだろう。ならば幸せなのは、兄の方なのかーー?
しばらく置いて粗熱が取れた後、ブルースは3分の2ほどを鍋に残したまま冷蔵庫に入れて、残りを2つのカップに注いでリビングへと持っていく。そっとカップを1つテーブルに置き、ブルースはもう1つを手に取り中のとろみのついた液体を口に含む。甘く、しかしどこかすっきりとした味わいだ。
そのまま男をぼんやり見ていると、ウォルフはしばらくして絵本をバタンッと閉じてポツリと呟く。
「電話を持ってこい」
「へ? 電話?」突然の言葉に戸惑いながらも、ブルースは黒電話を引っ張ってくる。
ウォルフはジーコジーコとダイヤルを回してどこかに電話を掛ける。それからも何回か電話を掛けた後、ウォルフはガチャンと受話器を下ろした。
「なら2日後、俺や依頼人をそのビルに連れて行け。しらばっくれた小賢しいネズミの化けの皮を剥がしに行くぞ」