依頼
レンガ造りの事務所の中、キッチンにこもってブルースはポットで紅茶を蒸らしながら、チラリと隣の部屋の様子を伺う。石油ストーブが暖めている居間のソファーには、ウォルフと向かい合う形で2人の訪問客が座っていた。
1人は小柄で可愛らしい女の子だが、問題はその隣だ。グレイ警部。いくつもの事件を通じてかなり気心の知れた仲で、ウォルフさんの病気についても理解を示してくれている数少ない人物だ。しかしそれ故に、理由もなく事務所まで来るはずが無い。
……何が目的だ? もしかして今までは有耶無耶にしてもらった犯罪まがいの俺たちの行動が遂に庇いきれなくなって、しょっ引きに来たとか?
「……イヤイヤ! 今まで法律に触れることなんてーー」あった。というかあり過ぎた。心当たりが多過ぎて、ブルースはガタガタと全身が震える。
「おーい、まだかー?」痺れを切らしたウォルフから催促の声がかかる。
「ハーイただいまー」……とにかく、紅茶は濃くしておこう。ブルースは急遽、ポットにティーパックを2つ継ぎ足す。
それから形状、大きさの違うカップに紅茶を注いで、ブルースはなるべく動揺を見せない様に運んでいく。しかしテーブルに到着する頃には、カップの中身は半分ほどが溢れて丸トレイはビッチャビチャになっていた。
それでもカップを4人分並べてウォルフの隣に座ると、グレイが遂に口を開く。
「ーー実はーー」
「すいませんでしたぁぁあーー‼︎」グレイの言葉を即座に遮って、ブルースは腰が折れそうになる程頭を下げる。「何でもしますので刑務所だけはご勘弁下さいぃぃ! 女の子に嫌われちゃうからぁぁあ‼︎」
こちらの突然の土下座に、グレイは一瞬あっけに取られてから落ち着け、と宥める。
「落ち着け。今日はお前らに依頼をしたくてやって来たんだよ」
「へ? じゃあ俺たちを昔のことで逮捕しに来たわけじゃないんですか?」
「……逮捕される覚えのあることをしたんですか?」カップを机に戻して、グレイの隣に座る女子が眉をひそめる。
「…………イイエ? アルワケナイデスヨー」目を逸らしながら、ブルースは恍けてみせる。そのまま気をそらすために、その女子に話題を振る。「それより、あなたは?」
身元を尋ねられて、あどけない顔立ちの小柄な女子がペコリと頭を下げる。
「初めまして。丸内・和泉巡査です。お2人の噂はかねがね伺っていました。お会いできて光栄です」18〜20歳ほどに見えるが、フワフワとしたボブカットとどんぐり眼でより幼く可愛らしく見える姿は、まるで小型犬のような印象だ。
「それじゃ自己紹介が終わった所で、手短に本題に入ってくれるか。長い話は苦手なんでな」左顔の仮面を押さえ直し、ウォルフはカップを口に運ぶ。「……渋」
「ーーなるほど。最新のDHA鑑定でも犯人が分からない、と」
「DNAです。青魚に多く含まれる脂肪酸じゃないですから」こちらの勘違いに対して、イズミちゃんは真面目に返す。「とにかく、そういうわけで私としてはもう犯人を見つける手段が無いんです」
「そこで、お前らになんとかしてもらいたいってわけだ」ストーブの熱が部屋全体に回って、グレイは黒のコートを脱ぐ。
「お願いしますっ‼︎ このままじゃケイトがあまりに可哀想で…………」
イズミちゃんはそう言って深々と頭を下げるが、そんなことをされなくても、話を聞いた時点で俺は依頼を受けるつもりになっていた。
「お任せ下さい。ウォルフさん、引き受けましょう!」身勝手に女子を辱める男など、断じて許すわけにはいかないーー!普段の軽い態度ではなく、ブルースは真面目にウォルフに向き合う。
そうしてブルースとグレイ、イズミの視線が集まる中、ウォルフは視線を合わせずにソファーに体を埋める。
「ーー依頼は受けよう」天井を見上げて、ウォルフはポツリと承諾する。感情の起伏は小さいが、この男も理不尽を許さない性格ではあるのだ。
そんなウォルフの承諾に、イズミは再び頭を下げる。
「あ、ありがーー」
「ただし」体をのそりとソファーから起き上がらせて、ウォルフは伸びをする。「しばらくの間、捜査はブルースに任せる。どうにもやる気にならねぇんでな」そのまま奥の部屋の扉をギギギィと軋ませながら開けると、探偵は引っ込もうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」イズミは慌てて立ち上がると、ウォルフの背中に呼びかける。「何の咎もない人が辱められたんですよ! 可哀想だとか許さないとか、そういう他の人に気持ちを考えることはできないんですか⁉︎」
「あっ!」「げっ‼︎」イズミの言葉に、ブルースとグレイはまずい、という表情をする。
「…………人の気持ちを考える。そんなことができれば、俺は探偵なんてならずに済んだだろうよ」自嘲するように呟くと、ウォルフはギギギィと音を立てて扉を閉めてしまったーー。
「信っじられない! なんなんですかあの人は⁉︎」閉まった扉に向かって、イズミは怒りを露わにする。「あれが探偵の態度ですか? やる気にならないから帰るって、子どもじゃないんですよ!」
"狼と青髭"といえば、警察官になって月日の浅い自分でも噂は聞いていた。"ハーメルンの笛吹き男事件"や"3匹の子豚事件"など、警察も匙を投げた難事件を解決してきた名探偵だと。だからこそ、先程見た狼仮面の男のいい加減な態度には呆れるばかりだった。
なおも怒りが収まらないイズミに、ブルースは平身低頭で謝罪する。
「ウォルフさんがごめんね。あの人も悪気があったわけじゃ無いんだけど。ただあの人は、普通の人とは頭の造りが違うもんだから」
「天才ということですか? だからってあんな態度を許せるわけーー」プンプンと怒りながらも、イズミはソファーに座り直す。
「いや、そうじゃ無くて寧ろその逆だよ。ていうかグレイ警部、この娘に教えて無かったんですか?」
「どうせ会えば分かると思ったからな」ツーブロックの髪を掻きながら、グレイはやれやれとため息を漏らす。「しかしこんな最悪な形になるとは」
「何の話ですか?」
「ウォルフはな、"統合失調症"っていう精神疾患を持ってるんだよ」グレイは自分の頭をコツコツと指で叩く。「統合失調症には様々な症状があってな。中には幻聴が聴こえたり普通の奴からしたら荒唐無稽と取れる行動をとることもあるらしい」
グレイの話に、イズミの荒ぶっていた気持ちが収まる。
「……すいません。知らなかったとはいえ、酷い態度を取ってしまいました」
頭を下げるこちらに、ブルースは気にしないでと声をかける。
「酷い目にあったのは大切なお友だちでしょ。気持ちが焦っても無理ないよ」
ブルースの言葉に、イズミは心臓がドキリとする。素性は伏せていたはずだけど、流石は探偵の助手ということか。
「それにあの人が空気読めないって勘違いされるのはしょっちゅうだからね。まぁ変に気を使わずに、ちょっとーーいや、かなり変な人として接してあげてくれれば大丈夫だよ。そもそもあの人は軽度で、幻聴とかの重いの症状は無いらしいし」ブルースは特に憐れむわけでもなく、世間話をするように落ち着いた口調で答える。下手な同情や気を遣わないのが、彼と探偵の関係なのだろう。「ただ全く症状が無いわけではないらしいからね。前に聞いた話では、感情の鈍麻や対人関係の欠如、注意・集中力の低下、そして意欲、つまりやる気の低下があるらしいんだ。だから普通の人に比べたら1つのことに集中していられる時間は短いし、長い話難しい話は理解するのに時間がかかるんだ」
ブルースの説明に、イズミは先ほどのウォルフのやる気ならないという言葉を思い出す。あれは面倒臭くなったのでは無く、本当に気持ちが湧かなくなってしまったのだ。だからグレイもブルースも、ウォルフが去る事を引き止めなかったのだ。
「しかし今回の依頼はなるべく早く解決してもらいてぇ。お前1人で大丈夫か?」姿勢を前のめりに変えて、グレイはブルースに尋ねる。
「心配ご無用! 俺をただの用心棒と思わないでください。そもそも俺があの人に雇われたのは、あの人が苦手な聞き込みとかの対人捜査を代わりにするためでもありますから」そのまま帽子を被り直すと、ブルースはこちらの両手を握り、真っ直ぐに見つめてきた。「イズミちゃん、この男ブルース・ベイヤードにお任せください!」