一夜の事件
1999年の夏、ロンドンのビッグベンが午後9時を指し示す。
その近くのホテルで、酒類の試飲会が行われていた。
その中で、ケイト・フィールドはポニーテールを振りながらスタッフとして駆け回っていた。
食事や酒を次々運ぶだけでも重労働なのに、時おり中年親父どもからウザ絡みされたりセクハラまがいな行いを何度も受ける。
お給金が良いので続けていたが、もう今日限りで辞めようと彼女は決めていた。
それから僅かな休憩時間に、ケイトは姿見に映る自分の姿にため息をつく。
……幸せって何だろう。
童話を読んでいた子どもの頃は、大人になって素敵な男の人と結婚すれば幸せになれると信じていた。
しかし父の死後、「ここなら絶対幸せになれる」と言う母親に連れられて、田舎からこの都会へと引っ越して来た。
しかし実際は学校ではいじめを受け、母の再婚でできた新しい父親には鼻つまみ者として扱われた。
それが嫌で家を出た今は、バイトを掛け持ちすることでなんとか生活している。
昔夢見た幸せな姿とは、似ても似つかない……。
それからまた忙しく働くうちに、今度はずんぐりと太った中年男に絡まれてしまった。
地面に引きずりそうな服の裾と飛び出した前歯も相まって、まるでビーバーだ。
「あの、困りますーー!」
「なんだよお嬢さん、ワシらの相手も仕事のうちだろぉ?」
そのまま中年は酒臭い口をこちらの顔に寄せて来る。
思わず目を瞑りかけた時、中年の顔が止まった。
恐るおそる目を開けると、自分の背後から白い手袋が突っ張ってくれていた。
後ろを振り向くと、細面の整った顔立ちで壮年手前くらいの男性が立っている。
「ちょっと飲み過ぎじゃないですか?」
男はこちらを見ずに、中年につ、と語りかける。
「な、なんだお前は? このワシが誰だか知らんのか⁉︎ あの大企業マウスーー」
「マウスクリーンの部長ですよね。よく知ってますよ。パーティーに出ると必ずセクハラ問題を起こすことで有名ですから」
男の言葉に、中年は酒で既に真っ赤になった顔が更に赤くなる。
そんな中年に顔を寄せて囁いた言葉が、近くにいたケイトにだけ聞こえてきた。
「それから失礼ですが、頭、ズレてますよ?」
男に指摘されると、中年は慌てて両手で自分の髪の毛を抑える。
そして周囲の視線がいたたまれなくなったのか、中年はネズミが穴に逃げ込むようにそそくさと人ごみに消えていった。
「あ、あの、ありがとうございます」
中年が去って、ケイトはお礼を言いながら男性の全身に目を向ける。
町では見かけない高級そうなスーツに身を包んだ姿は、このパーティーに参加している人の中でも、別格に見える。
「気にしないで下さい」
そう言うと、男性は今度はこちらの耳元に顔を寄せて囁きかける。
「よかったら、2人きりでお話ししませんか?」
ホテルのスイートルームの大きな窓ガラスから、ケイトは夜景の映えるテムズ川を見下ろす。
窓ガラスの暗がりには、先程の男が机に酒のボトルと2つのグラスを並べる様子が映った。
「付き合ってくれてありがとう。あのパーティーには兄弟も参加していたんだけど、姿が見えなくなってしまってね。1人で飲むのは寂しいと思っていたんだ」
そのまま男はグラスに慣れた様子で液体を注ぐ。
酒に詳しい訳ではないが、普段自分が飲んでいるものとは格が違うことは瓶のラベルで何となくわかった。
「それじゃ、乾杯」
男とグラスを打ち合って鳴らし、ケイトは一口飲み込む。
すると痺れるような味がした直後、ケイトは全身の毛穴が広がるような火照りを感じた。
それからビールやワイン、シャンパンなど、様々なお酒を開けていった。
やがてテーブルの上に空のボトルが溜まった頃、ケイトはかなり酔いが回り机に顔を伏せってしまった。
「そういえば、あらたのお名前は?」
視界が回り、ケイトは段々と呂律が回らなくなっていく。「まら……聞いて……無い…………れす…………よね………………」
激しい眠気が襲い、グラスが絨毯に落ち、中のワインが床を染み渡る。
それをぼんやりと見送ったあと、ケイトは机の端に、粉状の薬が少し残る小袋が見えた。
その直後、男の口角がまるでネズミのようにひきつり笑って見えた。
その瞬間ケイトの全身をネズミが這い回るようなゾワゾワとした気持ち悪さが襲う。
しかし圧倒的な眠気によって、ケイトは悲鳴もあげられないまま、名も知れぬ男に辱められてしまったーー。
翌朝、ケイトは目に当たる光で目を覚ました。
部屋に差し込んだ朝陽が、自分の眠るベッドに差し込んでいる。
居間の机には昨夜飲んだいくつかの酒と2つのグラスがそのまま残っていたが、昨夜の男の姿はどこにも無い。
あれは夢だったのかしらーー。
ケイトは最初そう思っていたが、段々蘇ってくる昨晩の記憶と、自身の下腹部に感じる違和感に、ケイトは昨晩のおぞましい強姦が現実のものであったと理解し、自分1人の部屋の中で悲鳴をあげたーー。
▷▷
雨が降りしきる中、丸内和泉は滑りやすくなった石畳を蹴りながらロンドン警視庁へと駆け込んだ。
ようやく屋根の下まで辿り着くと、子犬のようにプルプルと身を震わせて雫を落とし、職場へと向かう。
刑事たちのたむろす部屋に入ると、ストーブの熱がむわっと全身に纏わりついた。
「よう、この雨の中お疲れさん」
白のダッフルコートを脱ぐと、先輩のグレイ・ハウンド警部に声をかけられた。
同僚たちから"猟犬グレイ"と呼ばれている通り、黒のトレンチコートで暖を取る大柄な姿は猟犬そのものだった。
そんなグレイはコーヒー片手にこちらに近づくと、バサリとタオルを頭に被せてきた。
身長が小さいせいで、時々こうして子ども扱いされてしまう。
「別にバスの無賃乗車犯の現場検証なんて明日でも良かったのに、ご苦労なこったな」
「出来ることは直ぐにする。事件解決で大事なことですよ。それから、私がしたのは実況見分ですから」
ミディアムボブの髪をワシワシと拭いてタオルを返却すると、イズミは自分の椅子に腰を下ろしてある茶封筒を取り出す。
「これって、民間の化学鑑定機関の名前じゃねえか」
後ろから聞こえた声に、イズミは思わずきゃあっ、と小さな悲鳴をあげる。
「グ、グレイ警部! いつからいたんですかっ⁉︎」
「さっきからずっと居たって。気づかなかったなんて、よっぽどテンパってんだな」
するとグレイは、私の机に腰を下ろして小声で喋りかけた。
「……この1ヶ月、勤務時間外の時間にお前が資料室とかで何かを調べてるって話が俺の所に来てるぞ。何やってんだ?」
「……それは…………」
言い出せないこちらを察したのか、グレイは人目を気にして辺りをキョロキョロと見回す。
「真面目なお前が俺たちに頼らないなんて、よっぽど訳ありなのは察するが、直接の上司の俺にくらい相談くらいしろよ」
そう言ってこちらを心配してくれる上司に、イズミは悩んだ末に悩みを打ち明けることにした。
「すいません。実はーー」
1ヶ月前、中学時代の親友ケイトから突然会いたいという連絡をもらった。
私の母親が再婚して日本から移り住んだ直後で友人のいなかった中学時代、境遇が似ていることを理由に親しくなったのがケイトだった。
引っ込み思案だが優しく穏やかな性格は、真面目すぎて融通の利かなかった自分にとって憧れの存在だった。
高校からは離れ離れになったが、それでも自分にとっては大切な親友だ。
そんな親友と寂れた喫茶店で再開した時、私は言葉を失った。
カントリー調の椅子に座っていたのは、かつて自分と笑い合っていた旧友の姿では無かったからだ。
幼い頃から保っているというポニーテールはショートヘアーに変わり、目元は泣き腫らして真っ赤、やつれて生気がない顔はもはや別人と呼べるほどだった。
それからケイトは、前日にホテルで受けた強姦事件を震えながらも教えてくれた。
私は親友が辱められたことに声も無く泣いた。
そして次に、親友を辱めておきながら何の責任も取らずに行方をくらませた相手の男への許し難い怒りが沸き起こった。
絶対に許さないーー!
「ーーそれから私は、犯人を捜すために独自で捜査をしていました。警察として動くとなれば、ケイトのが辱められた事実を公にしなければいけませんから」
「なるほどな。それでフリーの時間を使って調べてたってわけだ。それで、見つかったのか?」
「1人で行っていたので時間はかかりましたけど、容疑者は2人まで絞れました」
私はそう言って、手帳を開いてグレイに見せる。
「ラッセル・アルフ・テイラーとレックスという、それぞれ都会と田舎に住んでいる兄弟です。こっそり撮った写真でケイトに確認してもらった所、このどちらかで間違いないと」
手帳に挟んだ写真を見るが、兄弟なだけあってそっくりな顔をしている。
「現場に指紋は残ってなかったのか?」
既にこちらに協力する気満々のグレイは猟犬のようにグイグイと質問をぶつけてくる。
「指紋は見つかりませんでした。そもそも本格的な指紋検査や事情聴取は警察の捜査でないので行えませんから。でも現場にはお酒のボトルが数本とグラスがあったので、それと彼らの飲み終わったグラスなんかを鑑定機関に回してDNA鑑定を依頼した、というわけです」
ケイトはそう言って茶封筒をペーパーナイフで開いていく。
DNAは兄弟でも異なるため、これでどちらがあの現場にいた人間か確実に分かるはずだーー!
ドキドキという心音が聞こえそうになるほどの緊張の中、私はグレイ警部と共に中の書類を引き抜き、目を通す。
「ーーっ! そんなーー!」
書類の内容に、私は思わず愕然とする。書類には、こう記載されていたのだ。
『提出されたワイン、及びビールの瓶口に付着した唾液のDNA型は、同じく提出されたラッセル、レックス両名のDNA型と一致。
故に両名は同一人物、或いは一卵性双生児であると結論づけられる』
目の前が、一気に暗くなる。
どうしよう。
最新の科学鑑定でも、犯人がわからないだなんてーー……。
親友の悔しさを晴らしてあげられない悔しさに思わず泣きそうになる私を、グレイ警部は頭をワシャワシャと撫でつける。
「諦めるな。こういう面倒ごとでも、あいつらならなんとか出来るかもしれねぇ」
そう言うとグレイ警部はコートを着直して出かける準備をし始める。
「探偵の、"狼と青髭"に会いに行くぞ」