6 異世界での初めての夜
目が覚めると、まず目に飛び込んできたのは見慣れない木目の天井だった。
そのまま顔を左右に巡らせると、ベッドのすぐ側の椅子にエクスさんが座っていた。
エクスさんは分厚くて見るからに難しそうな本を読んでいるところで、集中しているのか、まだ私が起きたことに気づいた様子はない。
その肩越しに見える窓から差し込む光は赤い。
今は夕方だろうか。
ゆっくりと身を起こしてみると、自分が寝ていたのは清潔そうな白いシーツが敷かれた簡素なベッドだった。
「目が覚めましたか」
穏やかに響く声の方へ顔を向けると、エクスさんが本から顔を上げたところだった。
「――――――熱は……なさそうですね」
座ったまま手を伸ばして、私の額に触れてくる。ひんやりして気持ちいい。
イケメンに熱を測られるというシチュエーションに、何だかいたたまれない気持ちになってそっと目を伏せる。
「気分はいかがですか?」
「えと、もう大丈夫です……あの、すみません。ご迷惑をおかけしてしまったようで」
「いえいえ、お気になさらず。でも、驚きましたよ。いきなり倒れるので……何かありましたか?」
そう問われて、私はごくりと唾を飲み込んだ。
聞かなきゃ。今聞かなきゃ。
「あ、あの……イーニスについて教えてほしいんですけど」
「主神イーニスについて、ですか?」
「そう! それです! どこにいるとか、どうやったら会えるかとか!」
私の言葉にきょとんとしたエクスさんは、続いて可笑しそうに笑いだした。
え。私、今何か変なこと言った?
私が怪訝な顔で見ているのに気がついたからなのか、エクスさんが笑いを治めて答えてくれる。
「すみません。昨今の子供でもしてこないような可愛らしい質問だったので、つい。主神イーニスは概念のような存在です。我々のようなただの人が会いたいと思ってもお会いできるような方ではないのです」
「そんな……」
詰んだ。
私、詰んだんじゃない?
私をこちらの世界に連れてきたっていうイーニスに会えれば元の世界に帰してもらえるかもって思ったのに、エクスさんの話だとそう易々と会えるような存在ではないらしい。
これからどうしよう。
絶望に打ちひしがれて、ベッドの上で膝を抱える。
すっかり黙り込んでしまった私を励ますように、エクスさんがその手を膝を抱える私の手に添えた。
「そんなこの世の終わりのような顔をしないでください。主神イーニスは常に私たちを見守ってくださってますから、リンさんが強く望み続ければいつか姿を現してくださるかもしれませんよ?」
何の根拠もない言葉だとわかってる。
わかってはいたけど、優しい言葉に思わず目頭が熱くなった。
ぎゅっと目をつむって涙を目の奥に追いやると、私は顔を上げて頷いて見せた。
私が気を持ち直したことに安心したのか、エクスさんはどこかほっとしたような笑みを浮かべて優雅に立ち上がると、ベッドサイドに目を向けて「もうこんな時間ですか」と呟きをもらした。
それを追うように目を向けると、サイドチェストの上に砂時計のようなものが置いてあった。
砂時計と言ってもやけに大きい。高さは三十センチくらいあるだろうか。ガラスの容器の中に入った白い細やかな砂が、絶えず下に落ちて降り積もっていく。
そのガラスの容器の表面には十個の目盛りと何か文字のようなものが書いてある。エクスさんがもうこんな時間ですかと言ったことから、時計であることが推測できた。
「そろそろ夕食にしましょうか。起きるのもつらいでしょうから、こちらに運んできましょう」
「大丈夫です! 起きれます!」
部屋を出ていこうとするエクスさんに置いて行かれないように、私は急いでベッドの縁から足を下ろして立ち上がる。ちょうど足元に黒いローファーも置いてあったので裸足にならずに済んだ。
ベッドを出てすぐに外用の靴に履き替えるのに違和感を覚えつつ、立ち上がってみれば先ほどのぐらりとした感覚もなくなっていた。
「大丈夫なようでしたらこちらへ。食堂でいただきましょう」
エクスさんに続いて部屋から出ると、その先は真っすぐな廊下になっていて片側は窓、反対側には私が出てきた部屋と同じ木製の扉が三つ並んでいた。
エクスさんは真っすぐに廊下を進み、突き当りにある扉へ向かう。
それを追いかけていた私は、ふと窓の外に気配を感じてそちらに目を向けた。
窓からは夕焼けが差し込んでいて、その向こうの景色は赤く染まっている。教会だけあって墓地が隣接しているのか、形の整った細長い石が等間隔にいくつか並んでいるのが見えた。
墓石を横目で流し見ながら歩いていたけど、思わず声を上げそうになって息をのんだ。
墓石のそばに小さな子供の姿を見つけてしまったからだ。
男の子だろうか、小学校に上がったばかりくらいの少年がそこに立っていた。
少年は何をするでもなく、虚ろな目をしてただ立っている。
直感的に少年が幽霊だと気づいてしまったけど、目を合わせちゃだめだと思って急いで目をそらせた。
大丈夫。何も見なかった。
自分に言い聞かせて小走りでエクスさんに駆け寄る。
幸いエクスさんに気がついた様子はなく、私は何事もなかったように後に続いた。
***
廊下の突き当りの部屋は食堂だったようだ。
食堂に入ると他の部屋に続く扉が二つあって、それぞれキッチンと礼拝堂に繋がっているそうだ。
中央には十人ほどが座れるくらいの木製の長テーブルと椅子が十脚。
何か手伝おうとする私に座っているように言うと、エクスさんはキッチンへ入っていき、ほどなくして木でできたお盆を両手に戻ってきた。
「ルッツの奥方様が作って届けてくださったのですよ」
そう言って並べられた木製のスープ皿には、お肉のようなものとキャベツのような葉っぱや根菜っぽい野菜が入ったスープがなみなみと注がれていた。
白っぽくて平べったいパンのようなものが入ったバスケットをテーブルの中央に置いて、エクスさんは 私の向かいへ腰を下ろす。
初めてみる異世界の料理は、どことなくあちらの世界の洋食を彷彿とさせた。
「では……我らが主神よ、今日も多大なる恵みに感謝いたします」
片手を軽く上げて、指先をぴんと伸ばしたエクスさんが祈りを口にする。どうやら食前に祈るのがこちらのしきたりらしい。先程、教会の教えに従うこという誓約書にサインしたので、私も同じように祈りを復唱した。
「我らが主神よ、今日も多大なる恵みに感謝いたします……いただきます」
つい口をついて『いただきます』と言ってしまい、それをエクスさんに聞き留められる。
「貴女のいた国では食前に『いただきます』と言うのですか?」
「はい。作ってくれた方や食材に感謝していただくという意味だそうです。つい癖で言ってしまいましたが、教会の教え的にはまずかったですか?」
「いえ、そこは問題ないですよ。いい習慣だと思います」
にっこりとしたエクスさんの笑顔に安心した私は、手元のスープに手を伸ばした。
木を削って作られた木製のスプーンを片手に、まずはスープだけをすくう。木製のお椀にスプーンだとスープの色がよくわからない。
道の料理に少し緊張しながら口に含んでみると、野菜と肉の旨味が口いっぱいに広がった。
シンプルな味なのに、すっごく美味しい。
「おいしい……」
「それは良かったです」
思わず口にしていた呟きに、エクスさんがにこりと笑みを返してくれる。
私はもう二口くらいスープに口を付けた後、手を伸ばして白いパンを取った。見た目よりも固い。
ちぎって口に放り込むと、噛み応えのあるぱさぱさしたパンに唾液を持っていかれる。スープは美味しいのにパンはちょっと残念な感じだ。
ふと向かいを見ると、エクスさんが慣れたようにパンをちぎってスープに放り込んでいる。
なるほど、ああやって食べるのね。
そうとわかれば右に倣えだ。私も同じようにスープにパンを浮かべてもう一度口に運んでみる。
すると、ぱさぱさだったパンが美味しいスープを吸ってスープの具の一つになった。
確かにこうやって食べたほうが美味しい。
エクスさんは食事中に話をするタイプの人ではないらしい。
私自身、寮では他の友達と食事をすることもあるけど、休日は一人で食べることも多かったから沈黙が苦痛に感じることはなかった。
「ごちそうさまでした」
綺麗に食べ終わったお皿を前に挨拶をすると、視線を感じて顔を上げる。
エクスさんがきょとんとした顔でこちらを見ていた。なんだか不思議そうな顔をしている。
どうしたんだろう。
「えと、何か?」
「あなたのところでは食後も祈りを捧げるのですか?」
「え? ええと、祈りというよりも挨拶のようなものなんですが」
「――――やはり貴女は狭間に落ちた方なのですね。もう少し話を聞きたいですが、今日はもう休まれた方がいいでしょう。あまり顔色がよくありません」
そうしてエクスさんは先ほど私が起きた部屋へ送り届けてくれた。
私が割り当てられた部屋は元々来客用に使われていた部屋のようで、誰も使っていないからそのまま使っていいとのことだった。
エクスさんはベッドサイドに置いてあったランプを手に持つと「火の加護を」と小さく唱えた。
すると不思議なことに、火種もないのにどこからともなくランプの中に火がともった。ランプ自体は小さいもののはずなのに、火を灯したそれはまるで蛍光灯のような明るさだった。
ちなみに、消したいときは普通にランプを開けて息を吹きかけて消せばいいらしい。
本当に異世界なんだ。
まるで魔法のような光景を前に、しみじみとこの世界が地球じゃないことを実感した。
一通りのことを説明して「では」と部屋を出ていこうとしたエクスさんを引き留めて、聞こうかどうしようかと思っていた事柄を口にする。
「あの……お風呂とかって、どうすればいいですか?」
なんとなく男の人に聞くのは気恥ずかしい。でも、今日は朝から汗だくで高校に行って、こちらの世界に来てからは気を失って地面に転がったし、村に来るまでに歩いて汗もかいた。できればお風呂に入ってから寝たい。
そんな私の問いかけに、エクスさんは首をかしげる。
「おふろ、とは何ですか?」
「!?」
まさか、この世界ってお風呂ないの!?
いや、待って。言い方が違うのかも。
「ええと、シャワーとか?」
「しゃわー?」
「んー……サウナ?」
「さうな? どんなものですか?」
違う言い方をしても聞き返される。他にお風呂っぽい単語を探してみたけれど、これだという単語がなかなか見つからない。諦めた私は、お風呂の説明することにした。
「ええと……こう、体を綺麗にするためにお湯で体とか髪を洗ったりするところ、なんですけど……」
私の説明に、エクスさんは「ああ!」と手をぽんと打った。
「『清め』でしたか!」
「きよめ?」
今度は私が質問する番になった。
「水の精霊の加護を受けて体を清めることですよ」
どうやらこの世界にはお風呂というものが存在しない代わりに『清め』というものがあって、水の精霊の加護を受けて体を綺麗にしているらしい。
各部屋に清めの加護が得られる魔法陣が描かれたマットが置いてあって、その上に立って加護を求めると全身が水で洗ったように綺麗になるそうだ。同様の方法で洋服や靴も洗濯ができるらしい。
部屋の隅に敷かれていた一メートル四方の水色のマットを示して置いてある場所を教えてくれた。
本当にマットしかない。
とてもではないけど、そんな小さなマットで体が綺麗になるとは思えないし想像もつかない。
「寝衣はあちらの引き出しに入っているものを使ってください。私は廊下に出て一番奥の部屋におりますので、何かあったらいらしてください」
「はい。何から何までありがとうございます」
「いえいえ、それでは」
エクスさんが去って扉が閉じられると、部屋の中がしんと静まり返った。
私はとりあえず引き出しにあるという寝衣と、清めのマットなるものを確認することにした。
寝衣は深い青色の麻のような布でできていて、裾がひざ下より長いシンプルなネグリジェタイプのものだった。
ネグリジェを椅子の背もたれにかけて、部屋の隅にある清めのマットの前に立つ。
正方形のマットの表面には、丸い円と三角としずく型をいくつか組み合わせたような水っぽい印象の模様が描かれていた。
私はカーテンを閉めて扉に備え付けられていた閂をかけると、ドキドキしながら服を脱いでマットの上に立った。
が、何も起こらない。
ポーズを変えてみるけれど、やっぱり何も起こらない。
これ、どうやって加護を受けるんだろ。
しっかり使い方を聞いておくんだった。
エクスさんに聞いてくるべきかとも思ったけど、もう一度服を着てエクスさんの部屋に行くのは非常に面倒くさい。とりあえず、もう少し頑張ってみるかと思ったところで、つい先程部屋のランプに火を灯してもらった時のことを思い出した。
あの時エクスさんは「火の加護を」と言っていたような気がする。もしかしたら祈りを口に出す必要があるのかもしれない。
「えっと……水の加護がありますように……?」
手を胸の前に組んで祈るようにぽそりと呟くと、急に足元が青白い光を放ち始めた。驚いて下を向いたのもつかの間、頭から温水をぶっかけられたような衝撃を受ける。
それは一瞬の出来事で、水を感じたと思ったのに体を見下ろしても濡れてすらいなかった。
その代わり手の甲に書いてあったメモ書きが綺麗に消えているのを見て、もしかしてと頭に手を伸ばす。さっきまでべたついて気持ち悪かった髪がさらさらなお風呂上がりの状態になっていた。
「……おおっ……」
思わず声が出た。
なにこれすごい。魔法みたい。さすが異世界。
そうして麻の寝衣に袖を通してベッドにごろりと横になると、急に体が鉛のように重くなった。思っていた以上に体は疲れていたようだ。
今日は色んな事がありすぎた。
気がついたら異世界とか、どこのラノベだって言いたい。
保護してもらえたのはラッキーだったけど、これからどうやって日本に帰る方法を探せばいいんだろう。
たった一つわかったのは、私をこちらの世界に連れてきたのは『イーニス』っていうこの世界の神様ってことだけだ。
ぼんやりと天井の木目を眺めながら深く息を吐いた。
私、これからどうなっちゃうんだろう。
これからのことを考えると不安しかない。ラティスのおかげでなんとか言葉はわかるけど、文字は読めないし、知ってる人も場所もお金も何一つない。
そんな場所でこれから生きていかなければいかないのだ。
あまりの心細さに体を抱きしめるように横を向いて小さくなれば、目からあふれた涙がシーツを濡らした。
そういえば、と日本のことを考える。
寮では夜八時に点呼がある。点呼までに戻れない場合、本人からの連絡がない時は家族に連絡がいくようになっている。向こうに家族はもういないけど、後見人になってくれた叔母さんに連絡がいっただろうか。
高校に進学する時も、寮じゃなくて家から通ったらいいじゃないと言ってくれた優しい叔母さんだ。自分が行方不明になったとわかったら、きっと心配してしまう。
叔母さん、ごめんなさい。
ぽつぽつと色んなことを考えているうちに、異世界での初めての夜は更けていった。