2 ここ、日本じゃないの?
温かい光のような気配を感じて、私は目を覚ました。
体を起こして辺りを見回すと、柔らかい草の茂る土の上に倒れていた。
どうやらまだ悪夢は続いているらしい。
目元がはれぼったく感じるのは泣いたからに他ならない。頬に何かが張りついたような感覚があるのは涙が乾いた跡だろうか。手の甲で頬をぬぐってみたけど、乾いていて何もくっついてこなかった。
まだぼんやりとする頭を振って顔を上げると、目の前にふわふわと光の玉が浮いていて思わずひゅっと悲鳴を飲み込んだ。
光の玉はまるで意思を持っているかのように私の周りを飛び回り、唐突にその光を弾けさせた。
一陣の風が吹きぬけて光の中から姿を現したのは、ふわふわした薄い緑色の髪を足の先まで伸ばした手のひらほどの大きさの少女だった。その背中には透明な羽が四枚、羽ばたくようにせわしなく動いている。
まるで本で読んだ妖精のような姿をした少女は、私の鼻先に近づくとエメラルドのような瞳をきらきらと輝かせて私の黒い瞳を覗き込んできた。目が覚めるような美少女だ。
『――――――――?』
「え?」
今なんて?
直接頭に話しかけてくるような鈴を転がしたような声に、きょとんと小さな少女を見る。彼女は背中の羽を羽ばたかせながらもう一度何かを言ってきたけど、残念ながら聞き取ることはできなかった。
特に怖い感じはしないから、危害を加えてくるようなものではないとは思うんだけど。
勘には多少自信がある方なので、きっと大丈夫だろう。何より彼女の表情は誰かを害するようには見えなかった。
それから何度か話しかけられたものの、やっぱり何を言っているのかわからない。
困って首を傾げると、小さな少女は突然何か閃いたかのようにポンと手を打った。そうしてふわりとほんの少し舞い上がって、何かを呟いて私の額にキスをした。
「!?」
『どう? ボクの言ってることわかる?』
さっきまで何を言ってるかわからなかった声が、急にはっきりとした意味を持った言葉に変わった。
一体何が起こったの!?
『ボクはラティス。キミは?』
「八神、凛……」
呆然としたまま答えると、ラティスと名乗った少女は満足そうに頷いた。
『ヤガミリン、変わった名前だね』
「あ、いや……名前は凛だよ。八神は苗字」
慌てて訂正すると、ラティスは口をへの字にして眉間にしわを寄せた。美少女はどんなに渋い顔をしても可愛いらしい。
『人間の名前って複雑で面倒くさいね。まぁいいや、リン。ボクの言ってることはわかる?』
「うん。さっきは聞き取れなかったのに、急にどうして……?」
『キミは異界の人だから言葉が通じなかったみたいだね』
こともなげにさらりと聞き流せない単語が聞こえて、私は思わず息をのんだ。
「異界ってどういうこと……?」
『ボクたち精霊はさ、この世界の人間の言葉ならどんなに違う言語を話していてもその言葉に合わせることができるんだ。それができなかったのは、キミがこの世界の人じゃないからってことでオーケー?』
「え、でも、今は言ってることわかるよ?」
『そりゃそうだよ。ボクがキミに統一言語を理解できるように加護を授けたんだから』
えへんとぺったんこな胸を張って、ラティスがどや顔を向けてくる。
言外に褒めて褒めてというオーラが体からにじみ出ていて、無意識に手をラティスの頭に伸ばす。
そうして人差し指と中指で頭をそっと撫でてあげると、ラティスはくすぐったそうに身をよじった。右手の指先で機械的にラティスを撫で繰り回しながら、反対の手は口元に持っていき目をさまよわせる。
「異界の人ってどういうこと……? 私はこの世界の人じゃない? それに統一言語がわかるようにラティスが加護を授けた……?」
頭で処理しきれなかった言葉が呟きにもれていたらしい。
耳ざとく聞き取ったラティスが、頭を撫でくり回されながら両腕を組んでうんうんと頷く。
『そ! さっきキミのおでこにチュってしたでしょ? あれが加護だよ。さすがに言葉が通じないのは不便だからね』
まだよくわかってないことがたくさんあるけど、とりあえず言葉がわかるようになったのはラティスのおかげらしい。
「あの……ありがとう。言葉、わかるようになって嬉しい」
『どういたしまして!』
「それで、できたら教えてほしいんだけど……ええと、まずラティスは精霊なの?」
聞きたいことがまとまらないので、とりあえず思いつくところから質問してみれば、ラティスは大きくうなずいて肯定した。
『そうだよ。ボクは風の精霊。キミは人間なのにボクのこと見えるんだね。異界の人だから?』
「異界の人?」
『ん? だって、キミ、この世界の人間じゃないだろ?』
「それ、さっきも言ってたけど…………ここは日本じゃないの?」
声が震えて、心臓があり得ないほど早鐘を打ち始める。
血の気が引くような感覚に足がふらつきそうになったけど、しっかりと地面を踏みしめてラティスの返答を待つ。
『そうだよ』という肯定の言葉を聞くのが怖い。
どうか日本のどこかであってほしい。そんな思いはラティスの言葉によって早々に打ち砕かれた。
『日本って何だい? 君のいた世界?』
「え……」
『すごい! キミ、本当に異界から来たんだ!』
戸惑う私をよそに、ラティスが興奮気味にまくしたてる。
エメラルドの瞳をきらきらと輝かせて無邪気に言い放つラティスの姿に嘘を言っている様子はない。
私はどうしても信じたくなくてもう一度尋ねた。
「ねぇ、本当に……本当に日本を知らないの?」
『知ってるも何も、日本なんてこの世界に存在しないもの。知ってるわけがないだろ?』
「存在……しない……?」
聞き返す声がかすれる。
頭の中で可愛らしいラティスの『存在しない』という声が何度もこだまする。
この世界のどこにも日本は存在しない、その現実を突きつけられて、私は目の前が真っ暗になった。