明くる夜空と私の中の種
次に気が付いた時は、あの丘の上だった。私は草の上に横になっていて、目の前には満点の星空が広がっていた。飲み込まれるような気がした。それから小さく声を出して伸びをする。満足そうに祭り会場を見つめていたささみ様が、私の方を向いた。
「よかった。気が付いたみたいね。何かおかしなところはない?」
上体を起こして、身体をあちこち見てみる。別におかしなところはなかった。頭もすっきりしている。私はささみ様に頭を振って返事をした。ぴんぴんしていた。
そんな私を見て、ささみ様はほっと、息をつく。それからどういうわけか目を伏せてしまった。
「ごめんなさいね」
発せられた言葉にびっくりした。
「少し無理をさせてしまったみたい。あなたも楽しそうだったから、つい長居をさせちゃったの」
本当にごめんなさい、と繰り返すささみ様に、私は慌てて返事をする。
「そんなことないです。楽しかったですよ。……あんまり覚えてないけど」
そう言って、ささみ様を下から見上げた。ばっちり目が合って、しばらく見詰め合う。じっと空気が止まるような感覚。段々可笑しくなってきて、私とささみ様はどちらともなしに噴出してしまった。祭り囃子が小さく響いてきている。
「あの時も、あなたはそんな風に無邪気に笑ってくれたんだったわね」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ささみ様はそう言った。私はそっとささみ様に微笑み返す。遠い昔のことを思い出すかのように、ささみ様は目を細めた。
「あの日、重陽の宵祭りに来ていたわたしは、小さな声を聞いた。お母さん、お母さんって覚束ない口使いで泣き叫ぶ声だった。折角の祭りなのにと、ちょっと冷や水を注された気分になっちゃったのね。だから、この耳煩い泣き声の主は誰なんだと、声を辿ったの。そしてあなたを見つけた」
「私は人ごみの中で、突然現れたささみ様を見つけた」
「そうだったわね。うん。声を辿って地上に降りて、泣いているあなたを見つけた。表面上は泣いていなかったけれど、あの時あなたは確実に泣いていた。あまりに煩いものだからついつい呼んでしまったの」
「私はその声につられてよろよろ付いていった」
「そうね。覚束ない足取りだった。……実はね、歩いたのは危険な道だったの。あなたがあの道でわたしを追うことをやめていたら、きっといろいろなものがあなたを食べていたと思う」
それを聞いて、急に鳥肌が立った。綺麗なささみ様が、綺麗過ぎるがゆえに底のない深い井戸のように思えた。
「もしかして、さっきの道も……」
「それは大丈夫。さっきの道は安全よ。ちゃんと選んで進んできたから。あそこには何もいない。でも、あの夜は違った。あなたを呼んだのはよかったけれど、わたしはいち早く宵祭りに戻りたかったの。だから一番近い道を、それこそ本当に獣道を通っていたの。ここで付いてこなくなるなら、それでもいいと思っていた」
「それでも私は付いてきた」
「そう。驚いたわ。人間の、それもまだ幼い子がここまでやって来られるとは思っていなかったもの。でも、今こうしてあなたと向き合っていると、何となくその理由も分かる気がする。そもそも、泣き声が宵祭りまで届いたと言うことから考えても、あなたにはそれ相応の素質があったことは明白だったのかもしれないしね」
「素質、ですか」
呟いて、私は心臓の辺りをぎゅっと掴んでみた。服を握った拳に、とくんとくんと鼓動が響いてくる。顔を上げて見上げたささみ様は優しい瞳で私のことを見つめていた。
「そう、素質。あなたはまだ気が付いていないみたいだけどね。でも、いつかきっと気が付くはず。いつかきっと花開くはず。わたしにはその種が見える」
「種……」
「うん。でも、それも全てあなた次第よ。種があるからといって必ずしも花は咲かないのだから。土と水がなければ、どんな花も開くことはないの」
「彼にあったのもそのためですか?」
私はふと思いついたことをささみ様に聞いてみた。にっこりと微笑んだささみ様はゆっくり頷いた。
「そう。彼もまた種を持つ者だった。でも土は涸れ、水は枯渇し始めていた。彼はね、さっきいた梟のお気に入りだったの。幼かった頃、まだ彼に今の自我が形成される前に、梟と彼はお話をしたそうなの。その時、よほど気に入ってしまったのね。最近彼の様子がおかしいから、何とかしてくれって頼まれちゃって」
「それで、彼の前に現れたんですね?」
ささみ様は頷いた。
「彼の渇きを癒すのは簡単だった。彼に世界を見せるだけでよかったんですもの。うん。彼は本当に目がよかったのね。いろんなものを見ることが出来る人の子だった」
「分かります。彼のスケッチブック、本当にすごかったから」
そうね、とささみ様は同意してくれた。それからささみ様は再び宵祭りの会場を見た。私も会場の方を向く。どんちゃん騒ぎが続いていた。
「正直なところ、あなたの中に眠っている種がどんな種なのか、今のわたしにもわからない」
会場を見ながらささみ様は言った。
「でも、それはとても大切な輝きを放ってくれると思うの。あなたにとって、そして他の誰かにとってもね。わたしたちは一応、闇のもの、山のものだから、あまり人とは係わらないのだけれど、あまりに綺麗な光には吸い寄せられてしまうのよ。だから……」
そこからささみ様の言葉は続かなかった。続かなくても何が言いたいのかは分かるような気がした。私はぎゅっと服を握り締めたままじっと会場を見続けていた。とても気持ちのいい時間が過ぎているような、満たされた気分だった。
どん、と音がして、白い火筋が闇を切った。あっと思った瞬間、星まで届くような大きな振動を響かせて、小さかった火の玉は見事な大輪になった。色とりどりの火花が私の顔を、ささみ様の顔を、町を染めていく。綺麗ね、とささみ様が呟いた。そうですね、と私は答えた。私は打ち上がっては花を咲かせ、消え落ちていく花火に思いを馳せていた。
もしも人生が花火のようなものだとしたら、それは幸せなことなのだろうか。大輪を咲かせるために幾日もの月日を重ねて、たった一瞬で消え去っていく。そんな人生があったとしたら、どうなんだろうって。
鑑賞しているから、いいのかもしれない。そんなことを思った。どん、と打ち上がっては花火は消えていく。命がひとつ消えていく。
「終わりが在るというのは、とても美しいことだと思わない?」
唐突にささみ様はそう尋ねてきたが、私は答えなかった。ささみ様も答えを期待してはいないようだった。でも、私はささみ様が尋ねたことを反芻しながら、ささみ様と私との違いをはっきりと理解した。鏡の向こう側にいるから、手の届かない何かを求めずにはいられないのかもしれない。たぶん、そういうことなのだろうと思った。
夜が更けていく。お囃子は鳴り続けていて、花火は夜空を彩っている。私とささみ様は何も話さず、じっと祭りを見続けていた。夜が明けるその時まで、私たちはずっと見続けていた。
そうして空は青くなり始める。遠く水平の向こう側から太陽は昇り始めていて、夜空に光を忍び込ませているのだ。見上げながら、夜色に光を透かすとサファイアのような青になるなんて不思議だと思った。ブルーモーメント。たった数十分だけ現れるその青は、地球上に現れるどんな青よりも青らしく綺麗だと私は思う。
「そろそろ、お開きね」
ささみ様が呟いた。見ればいつの間にか光の勢いは落ち、その範囲も小さく弱々しくなっていた。祭りが終わりつつある。ぼんやりと、その光景を私は見ていた。
「この祭りはね、輪廻の輪の始まりと終わりを教えてくれる祭りなの。こうして大きな祭りが終わる。わたしたち、山の永きものたちにも儚さを教えてくれる。終わるんだって。もう続きはないんだって。じんわりと沁みてくるものがあるの」
声が終わるや、不意に瞼が重くなり始めた。眠くはないのに、どうしようもなく強い力で視界を閉ざされているような気分だった。どうしたことだろうと、不思議に思ったけれど、でも、まあいいかもしれないと思えた。このまま深く眠ってしまうのも、いいのかもしれない。小さく、閉じていく思考の片隅にささみ様の声は流れ込んできていた。
「でもね、こうも考えるの。これは始まりなんだって。また来年の宵祭りまでの日々の始まりだって。ねえ、どうして星は回っているんだと思う。どうして季節は巡るんだと思う。どうして陽はまた昇るんだろう。始まりを告げるためじゃないかな。ね、そうは思わない」
思わない。いや、そうなのかもしれない。分からない。面倒くさい。今はとても眠い。
「回って、廻って、一巡り。終わりを予感しながら朝は始まり、始まりを期待して夜は終わる。どこでわたしたちは死ねるんだろう。いつからわたしたちは生きているんだろう。ぐるぐる回るこの輪の中で、どれだけの智を囲い込めるんだろう。智なんてあるのかな。わたしは時々そんなことを考えてしまうの」
そうなんだ。難しいことを考えているんだね。
「うん。でも分からない。分からないことだらけなの。分からないことに埋もれて、分からないことを受け止めて、それでも生きてる。いつ分かるかも分からないままに」
いつかがそんなに重要なの。輪の中にも、外にも、輪そのものにも存在があるのならば、存在こそがすべてなんじゃないのかな。
「そうね。でもそれじゃあ、止まってしまう。わたしたちのような存在になってしまう」
それのどこが悪いのだろう。
「虚無は満たされすぎた瞬間に訪れるものなのよ」
……虚無。何もないこと。
「そう。だからね、渇望して欲しいの。飢えて欲しいの。そうすれば、あなたはきっと気が付くはずだから」
気が付くって、何に?
「さあ。何かによ」
結構、放任主義なんだね。
「ごめんなさい。でも、あなたにならきっと分かると思うの。だから、信じていて。自分のことを。あなたの種を大切にし続けて。ああ、もう、時間だわ」
時間。時間。時間。時間っていったいなんなのだろう。
「分からないわね。わたしにも分からない。いえ、わたしだから分からないのかもしれない。でも時間は必ずそこにあるのよ。さあ、おやすみなさい、人の子。またいつかこうして空を見てみたいものね」
待って、ささみ様。まだ何も分からない。
「そうね。分からないことだらけだわ。この世にも、この夜にも」
待って。待って。待って――。
「でも、分からないからこそ面白いんじゃないかしら。ね、わたしはそう思うのだけれど、あなたはどう思う?」
そこで私の意識はぷっつりと途切れた。




