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山道の闇と心の話

 道はいよいよ険しくなり始めていた。大方のスケッチブックを見終えていた私は、もうささみ様を追うことに全てを注いでいた。と言うよりも、注ぎ込まねばならなくなっていた。それもそのはずである。道はいつの間にか道なき道へと姿を変えていたのだ。

 藪の中に微かに見える獣道を、ささみ様はするすると進んでいく。それを追う私は、枝やら木の根やら急すぎる坂やらに行く手を阻まれて、心身ともに満身創痍でささみ様の後を追っていた。

 この先に何があるというのだろう。洗い呼吸音が耳のすぐそばで聞こえているような感覚に陥りながら、私は今になってようやくそんな疑問を持ち始めていた。学校から抜け出して、ささみ様の後を追って、ずっとずっと歩き続けて、何を目指しているのだろう。訳も分からないままに、私は歩き続けている。

 ずるりと、足がすべって土に手を突いてしまう。段々、考えるのが億劫になってきていた。面倒くさいのだ。そんなことよりも、前を行くささみ様の真っ白な身体を探さ泣ければならないから。薮の中に見失わないように、置いていかれないようにするだけで精一杯だった。

 木に手をついて歩みが止まる。肩が激しく上下し続けている。荒い呼吸が止まらない。汗が吹き出る。あたりはいよいよ暗くなり始めていた。顎まで伝った汗を拭って前を向く。白猫がじっと私のことを見つめていた。

 ねえ、ささみ様、あなたは何者なんですか。私をどこへ導こうとしているのですか。そんなことを問い掛けてみる。もちろん、答えなど返ってくるはずがないのだけれど。ささみ様はずっと同じ瞳で、私のことを見つめ返してくるだけなのだ。学校でも、路地裏でも、公園でも、二股の交差点でも、ここでも。いつも同じ、いつも青い目をして私のこと見つめてくる。

 どうしろっていうのさ。

 本気で聞きたくなった。そんな私のことなど気にも留めずに、ささみ様が再び歩き始める。休憩はそれくらいでいいだろうと言うような態度だった。その素っ気なさはやっぱり変わらないんだね。懐かしいような気持ちになった。

 左腕に抱えたスケッチブックの感触を確かめる。確かにここにある。大丈夫。まだ付いていける。私は木から手を離すと、一歩再び全身を始めた。ちらりと視線を感じたから見上げてみれば、ささみ様が私の方を向いていた。

 やれば出来るんじゃないか。ささみ様がまた笑ったような気がした。

 山の中を歩き続ける。空が暗くなったのに加えて森の中にいるもんだから、回りの闇は余計に暗く感じられた。野鳥が、獣が、虫が、風が、命を持ってざわめきたてている。ざわりと木々の葉が音を立てる度に、私は何かに監視されているような不安な気持ちになった。懐中電灯ひとつないのだ。唯一暗闇の中で浮かび上がるささみ様の身体だけが、私を安心させてくれている。ささみ様がいなかったら、私はこの森の深さに潰されてしまうんじゃないだろうかと思った。

 道なき道を歩き続けているうちに、いつかこの道を通ったことがあるような不思議な懐かしさが込み上げてきていた。あれはいつのことだったのだろう。やっぱりこの道は暗くて道らしくなくて、私はただ必死に何かの後を追っていたような気がする。

 ああ、あれはあの夜のことではなかっただろうか。あの祭りの夜。人ごみの中で本当の孤独を味わったあの日。私はささみ様を追って、やっぱりこの道を辿ったのではなかっただろうか。

 呼吸音が響く。頭がぼんやりしている。身体中酸欠のような気がするけれど、身体は足は、目が捉えたささみ様の跡を無心に追っている。

 なんだ、これ。私が私じゃないみたいだ。苦しい呼吸の中で思った。

 そうだ。あの夜もそうだった。辛くて苦しくて、もう泣き出しそうになりながらも、前を行くささみ様を懸命に追っていた。追わなければならなかった。あの頃の闇は、今私の周りを覆っている闇よりももっと濃かったから。立ち止まったら食べられてしまうんじゃないだろうかと、本気で恐れていたような気がする。

 今もそうなのだろうか。今も、もしここで立ち止まったら私は闇に食べられてしまうのだろうか。もし、ささみ様が私を置いていってしまったら、食べられてしまうのだろうか。

 一体何に。

 決まっている。恐怖にだ。私の心の中にある真っ黒い恐怖に食い潰されてしまうのだろう。それは孤独よりも恐ろしい。消失よりも恐ろしい。捕食の末に待つのは、螺旋のような闇の中を漂う地獄なのではないだろうか。

 考えて、でも何も思わなかった。怖いことなのは分かったけれど、でも、それはそれでありなのかもしれない。闇の中だから見えるものもあるのかもしれない。そう思った。そうさ。明るいところにいては見えないものもある。暗いところにいなければ見えないものもある。また逆も然り。ともすると、私はこれまでの人生の中で、またこれからの人生の中で、一体どれほどのものを見ることが出来るのであろうか。時間が単一の独立した存在の連続だとする。ある刹那に見ることが叶わなかったものを、私は一生見ることが出来ないのではないだろうか。記録を見たとする。でも、じゃあその記録を見ていた時の刹那を見落としたことにはならないだろうか。

 私は一体どれほどの今を見ることが出来るのだろうか。また、暗闇はどこまで広がっているのだろうか。分からない。分からない。分からない。闇は時間すら超越しているように思える。

 ささみ様が白い。私の足は重い。スケッチブックの存在を感じる。私はまだ大丈夫。光ならここにあるから。目の前にも。ああ、闇が心のうちにあるように、光もどこかにあるのかもしれない。そもそも光と闇は表裏一体。片方だけの存在などありえないのだから。そうか。そうなのか。私はここにいて、だからこうして歩いていて。ああ、だからなんだ。器を離れた心で、何かに辿り着いた。

 みゃあ、とささみ様が鳴いた。視界がささみ様を捉え、心が身体に戻ってくる。消失していた肉体の痛みが、一気に噴出したような感覚に襲われた。呼吸が荒い。見上げたささみ様の後ろには、綺麗な空が広がっていた。青よりも濃く、黒よりも深い夜の色。あちらこちらに星が瞬いていた。

 私は力などどこにも残っていない身体を鼓舞して、どうにかこうにか最後の坂を上った。草を、茎を手に、上体を持ち上げる。開けた原っぱに身体を投げ出した。

 ようやく辿り着いたその場所は、町のどこよりも高く、どこよりも空に近い場所だった。透明すぎる夜風に、荒い呼吸は白い靄となって立ち昇っていく。少し開けていたその場所に、私は仰向けに倒れてしまった。心臓がばくばくしている。

 みゃあ、と声がする。ささみ様の存在を近くに感じた。なんだか無性に嬉しかった。嬉しかったから目を閉じた。胸いっぱいに透明な空気を吸い込ませる。穏やかな達成感を、懐かしい静寂が包み込んでいてくれた。

 しばらくそうして寝そべりながら、私は息を整えていた。身体中が酸素を欲していたからじっとしているしかなかった。そしてようやく呼吸も落ち着いてきた頃、私は意を決して声を出してみた。

「ささみ様」

 満点の夜空に、私の声はすっと染み込んで行く。まるで夜空が音を吸い込んでいるみたいに。呼び声の名残が消えて辺りに再び静寂が訪れた時、ささみ様は静かに返事をしてくれた。

「よく、ここまで付いて来られましたね」

「二度目ですから。身体が覚えてましたよ」

「ふふっ。それは何よりなことで」

 私は上体を起こして隣に座るささみ様のことを見る。座った私の背丈と同じぐらい、身長百六十五センチメートルほどはあろうかと言う巨大な白猫が私を見ながら微笑んでいた。

「お疲れ様でした」

 言ったささみ様に、私は少し照れながら微笑んだ。

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