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青年のスケッチブック

 しばらく黙っていた彼がポツリと言葉を漏らした。

「……もしかしたら、そうじゃないかもしれない」

「え?」

「いや、ううん。なんでもない。ただね、その、この猫はもしかしたら昔君を導いた猫なのかもしれないなって」

「でも、もうかなり昔のことですよ。こんなに若い猫のはずがない」

「うん。そうだけど」

 そうだけど、と繰り返して、再び彼は黙ってしまった。黙ったまま優しい視線でささみ様を見つめている。私はゆっくりとささみ様の額を撫で続けていた。ささみ様は目を閉じ、身体の力を抜くように伸びをしている。

「君は、この猫が普通の猫だと思うかい?」

 唐突に彼が尋ねてきた。私はささみ様の額から手を外して背念の方を向いた。真摯な表情がこちらを見つめ返してきていた。

「普通の猫じゃないと、あなたは思っているんですか?」

 尋ね返した私に、彼はまたしても黙ってしまう。きっとこの人は自分の考えを口にするのに幾つものステップを踏んでいるに違いない。私とは正反対だなと思った。私にはそんな慎重さは微塵もないから。

「普通じゃない、と言うよりも特別といった方がいいのかな。あ、同じか。うーん、なんて言ったらいいんだろう。君はこの猫に何か感じないかな。そう、そうだよ。例えば君がこの猫を、自分を導いてくれるささみ様だと思っているようにさ。ほら、思ってるんだよ。君もこの猫を特別だってさ」

「ちょ、ちょっと待ってください。そんなに一気に喋らないで」

「あ、ごめん。ちょっと興奮してしまって」

 言って、恥ずかしそうに頭を掻く彼を見ながら、私は前言を撤回しようと思った。彼は私と正反対などではない。どちらかと言うと似ている。始めの一歩が出にくいだけなのだ。そうに違いない。少しばかり彼への親密さが沸いた。

「でも、そうは思わないかい。この猫には何かしら特別なところがあるんだよ」

 言われて、私は唸った。確かにささみ様には何かありそうな気がするのだ。ささみ様は何かを知っているような気がする。ささみ様は確かに他の猫とは違うのだ。空気と言うか、雰囲気と言うか、持てる気配が異質であるような気がする。二人の人間に見つめられる当のささみ様は、暢気にもお昼寝タイムに入ったようだった。

 愛らしい寝顔を眺めながら、私は彼に聞いてみた。

「ねえ、あなたも何かささみ様に不思議な経験があるの?」

 彼は少し空を仰ぐと、実はね、と話を切り出した。

「ぼくは大学で美術を勉強していたんだ。試験に試験を重ねて、何とか入った美術大学でね、入った当初はそりゃ手放しで喜んだんだよ。でもね、ある時からだんだん違和感を覚えるようになったんだ。確かに大学では絵が描ける。技術は向上する。知識も増えて、ぼくの内にある衝動や感動をより的確に表すことができるようになった。でもね、気が付いたんだ。ぼくの筆先が論理まみれの鋳型に嵌ってしまっていることに。言葉に嵌ってしまっていることにね。それからぼくは絵を描くことに虚しさを覚えるようになった。言葉で表せないもの、そのものを描こうとしているのに、どうしても言葉の檻から出られない。構図を考え、筆をなぞる度に、ああ、これはあれこれの技法だ、ここはこうしなくちゃあの表し方に反するって思えてしまって。結局のところぼくの個性が論理に負けてしまっただけのことなんだけどね。……いつの間にかぼくの絵自体もつまらないものになってしまっていた。もう駄目かもしれないって思ってたんだ」

 私は彼の隣に腰掛けて、右手でささみ様のお腹をさすりながら話を聞いていた。ちょっとだけ分かるような、でも分からない話だなと思いながら聞いていた。

 そんな私の内心が分かったのか、彼は「ごめんね、変な話で」と言って頭を掻くと、私と同じようにささみ様を触り始めた。二人も触ると、ささみ様はうざったく感じるかもしれない。思い、私は手を引っ込めた。彼の話が続けられる。

「でも、そんな時にこの公園でこの猫と出会った。ぼうっとベンチに座って、もう絵を描くのに嫌気が差していた時だった。足元でこの猫が鳴いたんだよ。まるで私を描きなさいって言うみたいにね。ぼくは知らず知らずの間にスケッチブックを開いていた。絵を描くのが嫌になっても、スケッチブックだけは肌身離さず持ち歩いてたんだ。で、ぼくは猫を描き始めた。始めはいつも道理、被写体を観察し、構図を決定し、あたりをつけて段々細部を描いていく。そんな風にしていたんだ。でも、途中から鉛筆の運びが変わった。自分でもはっきりと分かるくらいに鉛筆のすべりがよくなったんだ。何かすごいことが起きてるなって感覚はあった。でもその感動に浸るよりも、この猫を描きたくて描きたくて堪らなかった。ぼくは無我夢中で鉛筆を運んでいたんだ。確かあの日も今日みたいな晴れの日だったと思う。ベンチで絵を描くぼくと描かれている猫は、二人してどこか違う空間に行っていたような気がするんだ。二人だけの空間で、ぼくは今までとはまったく違う絵を描くことが出来た。そのものをそのまま写し出す絵を描くことが出来たんだよ」

「つまり、あなたにとってささみ様はスランプを脱出させてくれた存在ってことなのね」

「スランプっていうと陳腐に聞こえちゃうけどね」

 そう言って彼は苦笑した。なかなかに長い話だった。私は彼と、彼に撫でられているささみ様を見た。二人だけの世界。なるほどなと思った。確かにこの画には何かしらの共有物があるように思える。少しだけ羨ましくなった。だからだろう、口から思ったことがそのままこぼれた。

「いいな……」

「ん。いいなって何が?」

 そうやって聞くことが出来ることだよ。内心そう思ったけれど、口には出さないことにした。何でもない、とごまかして、芝生を引っこ抜いた。

 空に向かって投げてみる。吹いた風が少しだけ遠くへ運んでくれた。

 遠くの林で小鳥が鳴いた。太陽は優しく照っていて、とても過ごしやすい昼下がりだった。私は空を見上げて、見上げて、見上げて、そのまま背中から芝生に寝転んだ。見上げた空はやっぱり青くて、でも目の前が全て空の青で塗りつぶされるとなんだかとっても不思議な感じがした。

 海とは違う優しい青。太陽の光が青を濁らせてのっぺりとした、でも奥行きを感じられる色を生み出している。

「秋の空は一番好きだな」

 首だけを動かして見ると、隣で彼が同じく寝そべって空を眺めていた。

「私も一番好き」

 答えて、そのまま二人静かに空を鑑賞し続けた。

 どれだけ時間が経ったのだろう。見上げていた青の端っこに、ささみ様の顔がひょっこり覗いた。どうやら出発らしい。よいしょと上体を起こして、私は傍らの彼に声をかけた。

「ねえ、よかったらあのスケッチブックしばらく貸してくれない。ささみ様の絵だけじゃなく、他のスケッチも見てみたいんだ」

「いいよ」

 彼はねっころがったまま答えた。それから、よっ、と言う掛け声と共に上体を起こすと、スケッチブックを手に持ちこう言った。

「よかったら、これ、あげるよ」

「へ?」

「あげる」

 はい、と差し出されたスケッチブックを、私は、はあ、と受け取る。スケッチを誰かにあげてしまってもいいものだろうか。私の頭の上にたくさんの疑問符が浮んだ。

「実はね、その猫、ささみ様を描いてもう使い切っちゃってたんだよ、そのスケッチブック。だからあげる」

「え、でも何か創作に使うんじゃ……」

「いや、このスケッチは使わないよ」

 彼はやさしい笑顔を浮かべて言った。

「使えないんだ」

 私は手にしたスケッチブックの表面を見た。茶色の無地の表紙。この中には、あのささみ様の絵のような絵が他にもたくさん詰まっているのだろう。何となく、彼がこのスケッチブックを創作に使えないと言った理由が分かったような気がした。

 このスケッチブックは、この状態でひとつの作品なのだ。今日、この場所で完結したのだ。だから他の作品になんか使えない。完成された芸術に、手は加えられない。たぶんそういうことなのだろうと思った。

 しかしながら、でも、と思ってしまう。そんな完成された作品だからこそ、私が貰い受けるわけにはいかないのではないだろうか。私は表情が曇っていくのが判るような気がした。

「あの……」

 貰えないと言おうと彼の表情を見て、私は何も言えなくなってしまった。これはもう返すわけにはいかないのだ。スケッチブックを両手でぎゅっと抱きしめて、私はもう一度彼を見た。

「分かりました。ありがたくいただきます」

「よかった。ぼくからもお礼を言わせて貰うよ。ありがとう」

 彼はそう言って安堵の表情を見せた。それからしばらく沈黙して、少しだけ寂しそうにこう続けた。

「……うん。でももし、もし君がこのスケッチブックを手放したいと思うような時が来たら、もう一度この公園に来て欲しい。ぼくはずっとここにいるから。もしいらなくなった時は、またぼくに戻してくれたらいい」

 そうして彼は、またあの寂しそうな笑顔を私に向けた。声もなく、私はただ頷いた。

「じゃあ、私そろそろ行きます」

 立ち上がって、私は彼のもとから歩き出した。ささみ様は、いつの間に前に出たのやら、もう私の先を歩いていた。途中、振り返ると手を振る彼の姿があった。振り返るたびに段々と小さくなる彼に、私は一度だけ大きく手を振った。彼は私が公園の角を曲がる直前まで、ずっと手を振り続けたいた。その姿はとてもとても小さく見えた。

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