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公園と青年

 一体どれほど走っていたのだろう。立ち止まって膝に手を突き、肩が息をしているのを感じていたら、零れ落ちた汗がアスファルトに染みを作った。額を拭い、辺りを見渡してみる。いつの間にか閑静な住宅地に入ってしまったようだった。車の騒音が遠い。見上げた空はどこまでも青く澄んでいた。

 みゃあ、と声がする。ささみ様はブロック塀の上から私のことを見下ろしていた。ほっと頬が緩む。荒い呼吸を続けながらも、段々可笑しくなってきて、途切れ途切れに私は笑っていた。

 お腹が痛い。息が苦しい。暑い。汗が気持ち悪い。でも、とても清々しかった。

 やってしまった!

 不思議なことに、罪悪感は毛ほども感じられなくなっていた。

 一呼吸入れる。見れば、ささみ様はもうすたすた歩き始めている。ようやく笑いが収まった私は、再びささみ様の後を追うことにした。どこかへ連れて行ってくれるような気がするのだ。頬を撫でる風が気持ちよかった。

 ささみ様はいろいろなところを歩いて回った。と言っても、ささみ様が行ける所ばかりだったから、ショッピングモールとか、交通の激しい主要道路とかじゃなかった。路地裏のひっそりとした小道を、飽きもせずにただひたすら歩き続けたのだ。途中、私は自販機でジュースを買った。ささみ様は何度も顔を洗った。その度に私は空を見上げて、流れる雲と風のにおいを感じていた。穏やかな太陽が映し出す青色のキャンパスには、いろんな濃淡の白い絵の具で次から次へと抽象的な造形が描かれていた。観るでもなく流れていく雲を見ながら、どこまで来たんだろうと私はぼんやり思ったりした。風のにおいはどこか懐かしくて、落ち着いた秋の空気を運び続けていた。どこまで行けるんだろう。空を見ながら考えた。今ならどこまでも行けるような気がした。

 お昼になった。私はコンビニでサンドウィッチとおにぎりと紅茶、あと猫の缶詰を買った。占めて千円弱。猫缶が思ったよりも高かった。それにしても最近のコンビにはどんどん便利になるなあなどと、結構大きな公園のベンチに座りながら考える。食べ物に雑誌、文房具に家電製品。化粧品から下着、ペット用品まで売っていた。本当にコンビニひとつで生活が成り立ってしまうではないか。サンドウィッチを口に含む。おいしいようなでもあんまりおいしくないような、中途半端な味がした。でもまあ、これがコンビニの限界なのかもしれないなと妙に納得した。

 ベンチに影を作っている木の上で、知らない鳥が鳴いている。辺りを行き交うのは、老人か赤ちゃんを連れた母親ばかりだった。制服姿の女子高生はさぞかし目立つのだろうなと思った。

 ささみ様はベンチの足元に置いた猫缶にがっついている。口に合うか心配だったけれど、杞憂に終わったので一安心だ。おにぎりを食べる。マヨネーズで合えたシーチキンがおいしい。そう言えば、おにぎりの棚にはたくさんの種類のおにぎりが売られていた。サービスの向上、味への追及というものは留まるところを知らないらしい。けれど、あのおにぎりも売れなかったものは廃棄されているのだと思うと、なんだかもったいない気がした。良くも悪くも私達は恵まれているのだろう。二個目のおにぎりはトロサーモンだった。

 ペットボトルの紅茶を飲みながら公園の中を見る。ご飯を食べ終わったささみ様は、とてとてと視線の先に消えていったのだ。たぶん戻ってくるから大丈夫だと思う。水を飲みに行ったか、何か用事があるのだと納得しておいた。

 それよりも興味をそそられたのが、先ほどから芝生の真ん中に座っている人物の姿だった。ベンチからでは背中しか見えないから詳しくは判別しないが、どうやら熱心にスケッチをしているらしい。顔を上げてはスケッチブックに戻り、さらさらと手を動かしている。

 何を描いているのだろうと思った。この公園で描く物といってもそう多くはないはずである。あるとして風景か小さな遊具か人物か。辺りにそれらしい人がいないから、おそらく人物画はないだろうと見当をつけた。じゃあなんだろう。子供が残していったおもちゃだろうか。それとも、この秋の景色だろうか。どちらにしても、あまり見栄えのするような作品にはならないような気がした。きっと置き忘れたおもちゃと言うのは土埃にまみれ、傷が付き、さぞかしみすぼらしい風貌をしていることだろうし、景色だとしてもこの公園の中に描くに値するようなものは見受けられなかったからだ。

 だから余計に気になった。その人物が何を描いているのか。見てみたいと思った。

 コンビニのビニール袋にゴミと空っぽになった猫缶を突っ込み、近くにあったゴミ箱に捨てる。分別はしてないけれど、ゴミ箱がひとつしかない方が悪いってことにしておいた。まだ残っていた紅茶を手に、ゆっくりとスケッチを続ける人へと近づいていく。なんだかどきどきした。

 その人は、ゆっくり近づいているからなのか、背後に忍び寄る私にまったく気付く気配がなかった。熱心にスケッチを続けている。絵の世界に吸い込まれているかのような様子だった。

 一メートルくらい後ろに近づく頃には、その人が何を描いているのかが分かった。と言うよりも、その人の目の前に座っていたささみ様の姿を見て分かってしまった。その人はささみ様を描いていたのである。私は爪先立ちで少しでも視野が広がるようにしてスケッチブックを覗き込んでみた。けれど、あんまりよく見えない。輪郭はおぼろげながら見て取れるものの、画のディティールとなるとてんで見ることが出来なかった。

 もうちょっと、と欲張ったのがよくなかったのかもしれない。私の接近にずっと気が付いていたささみ様が、みゃあとひとつ鳴き声を上げた。やばい、と思ったのも束の間、ゆらりとその人は振り返った。こざっぱりとした端正な顔立ちの若い青年だった。

「あの、どうかしましたか」

 私が二の次を告げないでいると、青年はそうやって話しかけてきた。明るい、爽やかな声色だった。私は目の前でぶんぶん手を振りながら、あの、とか、その、を数回繰り返して何とかこうにか「違うんです」とだけ返事をした。

「違うんですって、何が」

 ますます意味が分からないといったような表情で彼は尋ねてきた。なるほど、確かに何が違うのか私自身よく分からない。こういった発言が多いのが少し困ったこところだと、私は自省した。それから少し呼吸を整えて落ち着いた私は、視線をスケッチブックに移して尋ねた。

「遠くから描いているのが目に入ったものだから。何描いてるのかなと思って」

「ああ、そう言うことか。突然違うんですなんて言うもんだから何のことか分からなかったよ」

 言って、彼は綺麗に笑った。つられて私も笑顔になる。ただし、私の場合恥ずかしさの分量が結構多いのだけれど。

 手にしていた鉛筆を置き、描く姿勢から直りながら、彼は秘密を共有しようとする子供のように話しかけてきた。

「見たい?」

「見たい」

 即答で答えた私に、彼はちょっぴり恥ずかしそうに頭を掻く。

「人に見せるようなものじゃないんだけどね」

 そう言って手渡されたスケッチブックを、私は食い入るように見つめた。

 そこには、ささみ様が描かれていた。のんびりと日向ぼっこをするかのようにねっころがったささみ様。幸せそうな表情に、温かみを感じた。この人はささみ様を、猫を愛しているんだろうなと思わせる優しさが滲み出ているような気がした。でも、それだけではない。この絵にはささみ様しか描いていないはずなのに、差し込んでいる陽の光、吹いている風のさざめき、草のにおいまで写りこんでいるようだった。写真でもビデオでも、こうはいくまい。

「すごい……」

 私は素直にそう口にしていた。

「はは、恥ずかしいな。そんなたいしたもんじゃないよ」

「そんなことないですよ。この絵、すごい。生きているものよりも生きているような気がする」

「ありがとう」

 そう言って彼は苦笑した。どうして苦笑なんかするのか、なんだか引っかかった。褒めているのに。

「どうしてそんなに寂しそうなんですか」

 溜まらず聞いていた。聞いた後でしまったと思った。聞くべきことじゃないのかもしれない。後悔しても遅いのだけれど。

 彼はくしゃりと顔を崩すと、私の問いには答えず話し始めた。

「この猫はね、ぼくの友達なんだ。いや、友達以上の存在かもしれない。大切な、大切な猫なんだ」

「私もこの猫のこと知ってますよ」

「あ、そうなの」

「私は小さい頃にこの猫に助けてもらいましたから。お祭りの時、人ごみの中で親とはぐれちゃった私を導いてくれたのがこのささみ様なんです」

「ささみ様?」

「あ、私が勝手につけてる名前です。祭りの後の何度か合うことがあって、その度にささみの切り身を上げてたからそう呼ぶようになったんです」

「へえー。君は結構昔からこの猫を知ってるんだね」

「ええ。でも、かれこれ十年以上前のことだから、たぶん違う猫と勘違いしてるんだと思うんです。猫はそんなに長く生きられないから」

 そう言って私はささみ様の頭を撫でた。そうなのだ。ささみ様はあの時のささみ様ではないのだ。こんなに若い猫であるはずがないのだ。でも、その風貌があまりに似ているから。私は第二のささみ様を、昔のささみ様と同じように考えているのだ。


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