廊下のコンダクターと大脱走
廊下に出た私は、とにかく教室から離れようと先を急いだ。ささみ様の姿が幾分か小さくなっていたのだ。床に、窓から差し込んだ太陽が光の模様を浮かび上がらせている。進む廊下に模様は転々と続いていた。何個目かの模様を跨ぐ。ラジオのアンテナみたいにぴんと尻尾を伸ばして優雅に歩くささみ様に追いつくことが出来た。ずっと肩に乗っかっていた重石が落ちたような気がした。私はささみ様の後ろをゆっくりとついていく。
ささみ様の後ろを歩きながら、少しばかり余裕が出てきていた私は、あの尻尾は何かしらの信号を受信しているのではないだろうか、なんてことを考えてみた。まあ、そんなことはないだろうと思うけれど、少しだけ可笑しくなった。
例えばの話。ささみ様が何かしらの電波を受け取っているとする。その時ささみ様は、一体誰から受け取り、何を思い、何を知るのだろうか。ささみ様のふりふりと揺れるお尻をじっと見つめながら妄想を馳せてみた。電波を送っているのは誰なんだろう。人間じゃあないような気がする。少なくとも私たちみたいな今の人間じゃない。そう、例えば地底人とか、宇宙人とか、未来人とか。はたまた異次元人かもしれない。もしかしたら本当に人なんかじゃない存在かもしれない。猫の王様とか、大地の鼓動とか、海の呼吸とか。そんな星の声を理解しているのかもしれない。
ささみ様はとてつもない存在だ。妄想の果てに、私はそう結論付けて素直に驚いた。この猫、やっぱり出来る。先を行くささみ様の後を追いながら思った。ふりふりとお尻が揺れて、尻尾がくにゃりと形を変える。
かわいいくせに……。どういうわけか嫉妬のような気持ちが湧き上がった。かわいいくせに――何なのか、自分自身後に続く言葉が分からない。ただ、とにかく、かわいいくせに……。憧れなのだろうか。嫉妬なのだろうか。受容なのだろうか。かわいいくせに、を頭の中でぐるぐる回しながら、私はぼんやり判別しようとしていた。
気がつけば、いつの間にか立ち止まっていたささみ様がすっと私を振り返って、まっすぐに見つめ返してきていた。
ささみ様が止まったから、私も一緒に立ち止まる。五メートルぐらいの間を空けて、私とささみ様は廊下で見つめあった。
じっと、時間が止まってしまったかのように動かないささみ様を見つめる。どうしたんだろうと思った。尻尾がやっぱりくにゃりと形を変えている。くにゃり、くにゃり、くにゃり。まるでリズムを執るかのように動く尻尾を見ていたら、指揮者みたいに思えてきた。大自然のコンダクター。ささみ様の頬が歪んだように見えた。
急に、しん、と静まった音が私の耳に飛び込んできた。いや、覆ったと言ってもいいかもしれない。いつもの学校とは違う音が私の周りに落ちてきた。いや、学校の音なんかじゃない。廊下には、そう、喩えるなら深い霧に覆われた森林の水辺のような空気が漂っていた。六百人は下らない人数の人がいるはずの建物の中に、凛とした沈黙が降りていることが衝撃を持って私に降りかかってきていた。
何だこれはとどうしようもなく聞き続けるしかない私を見て、にやりとささみ様が笑ったような気がした。お前にも聞こえたかい。声が頭の中に響いたような気がした。
再びささみ様が歩き始める。音がしなくなっていた。私はただささみ様の後姿を見続ける。すたすたと歩いたささみ様は、唐突に開いていた窓にひょいっと飛び乗ると、なんの躊躇いもなしに空へとジャンプした。
確か、今、私がいるこの階は三階だ。十メートル近い高所からのダイブである。いかに猫といえども無事で済むような高さではないのではないだろうか。
ささみ様は、ささみ様が死んでしまった……?
思い、私はすぐに窓へと駆けだした。飛び降りた。ささみ様が飛び降りた! 目の前の光景に頭を持っていかれそうになりながらも、思考の片隅に先ほど聞こえた声が木霊していた。
「お前にも聞こえたかい」
意味も何も、全て分からないけど、とてつもなく胸を揺さぶられたような気がした声だった。そもそも、あの言葉を言ったのがささみ様なのか、本当に声がしたのかどうかさえはっきりとは判別しない。けれど、もしあの言葉を喋ったのがささみ様なのならば、この飛び降りにはどんな意味があるのだろうと思った。意味などあるのだろうか。
死の影がずっとちらついている。死とは何を意味するのだろう。馬鹿みたいに奔流する思考の中で、私は必死になっていた。ささみ様の様子を確認しようと躍起になっていた。
たった数メートルしか離れていなかったはず場所が、数百メートル先にあったように遠かった。私は開いた窓に頭を突っ込む。覗き込んだ視線の先。待っていたかのように見上げるささみ様が、みゃあと暢気に鳴いていた。アスファルトの上である。腰が抜けたような骨が抜けたような虚脱感に襲われながら私は思っていた。なんなんだろう、あの猫。
そんな私を笑うかのように、もう一度、今度はにゃあと鳴いて、ささみ様は校門の外へ向かって駆け出していった。太陽の光に晒されたアスファルトの上を颯爽と駆けていくささみ様の姿は、とても格好良く見えた。
こうしてはいられない。早くあとを追わなければ。気がついて、私は階段へと急いだ。誰もいない階段をするすると降りていく。一階に辿り着き、体勢を小さく、足音を立てないようにして素早く玄関まで進んだ。一階には職員室がある。誰かに出会うと一環の終わりなのだ。そう思えば、と三階でのことを思い出した。よく、誰とも会わなかったなあと感心してしまう。いくらテスト中だといっても、ガラス越しに誰かが廊下を歩いているのに気が付く先生はいるはずである。誰とも出会わないままこうして玄関へと辿り着けたのは。とても運がよかったのかもしれない。
ひとつ深呼吸をして、それほど荒くなっていたわけでもない呼吸を整える。大事なのは気持ちの持ちようなのだ。この一息がこれからの意気込みを変えるような気がしていた。
ローファーを靴箱から取り出し、馴染むようにつま先でコンクリートの床を叩く。履き始めてかなり時間が経っているのに、まだ履きにくいから正直あんまり好きじゃない。ただ、みんなが履いているからなおざりで買っただけなのだ。これからのことを考えても運動靴のほうがいいような気がする。
周りに流されて、行き着いた先が今の状態だと思うと、なんだか落ち込んできた。自分の意見を通していたら、何か変わったのかもしれないのに。ため息が出そうになる。そんな吸い込んだ空気を吐き出すことにならなかったのは、ひとえに後ろから聞こえてきた足音のおかげだった。
ぺたんと、廊下を叩いたスリッパの足音にぞくりと背中が粟立つ。早くここから動かなければ。思い、焦るほどにもう片一方のローファーが履きにくく感じる。苛立ちが募る。どうしてか女友達が憎く感じられた。それから何よりも私自身も。それでも何とか履いて、前進しながら床を叩いた。
よし、これで大丈夫。早くしないと。
ちょうど玄関を出ようとしていた時だった。
「おい、お前どこ行くんだ」
振り返ってみれば、不思議そうな顔をした体育教師の犬丘先生が私のことを見ていた。表情が固まったのが自分でも分かる。頭の中で見つかったと叫ぶ声が聞こえる。何か言葉を発しなければいけないのだろうが、それよりも先に私の身体は一気に稼動し始めていた。前を向くのと同時に、左足は一歩前へと踏み出していた。
「ちょっと待て、どこ行くんだ!」
駆け出した背中に届いた声が段々遠くなる。私はアスファルトの上を全力で駆け抜けていた。たぶん、これで職員室にいる先生にも、教室でテストをしている生徒にも、いろんな人にばれてしまうに違いない。もう戻ることは出来ないと思った。親にも連絡が行くかもしれない。明日から学校に来られないかもしれない。怒られるのだろう。大変なことをしてしまった。瞬時にいろんなことが頭をめぐった。膨れた罪悪感が身体を強張らせたような気がした。
でも、走っているうちにどんどん違う感情が沸き起こってくるのも感じていた。後ろに流れて消えていく左右の風景。耳のそばを通り抜けていく風の音。差し込む秋の太陽の温もり。私はとてもわくわくしていた。飛び出すのだ。そう思った。
校門の先に、ささみ様が座っているのが目に入った。まだ遠くに見えるのに、笑っているのが分かったような気がした。そんなささみ様のそばを一気に駆け抜ける。当てもないまま、私は学校から、日常から飛び出した。
さて、次はどこへ行こう。
全力疾走しながら、期待に胸が膨らんでいた。
この先には光があるのかもしれない。
秋の空の下を、私はただただ走り続けた。




