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学校とささみ様

 黒板の上に取り付けられた丸時計が、九と十の間の曖昧な空白を指し示している。その下に、パイプ椅子に腰掛けながらどっしりとした存在感を放つ、監督の冴山先生の姿がある。教室は数学のテストの真っ最中だった。

 机の上に広がるA4の用紙をもう一度眺めてみた。一瞥しただけで拒絶反応が起きたテスト用紙は、見事なほど適当な数字で答えが埋られている。開始十分で答案を終了させたのだ。同時にテストの結果がどうなるのか、大まかな予想が立ってしまったのだけれど。結局私は、早々に何もすることがなくなってしまった。暇な時間を過ごすしかなかった。寝てもいいのだろうと思う。見れば。周りには寝て時間を潰しているクラスメイトもいる。けれど、私は寝起きのだらしのない顔を学校で他の誰かに見られたくはないのだ。気にすることでもないといえばそうなのだろうけれど、嫌なものは嫌なのだ。そう言うわけで、退屈な私に出来る残された唯一のことと言えば、この狭苦しい空間の中に詰め込まれた人物達を観察することくらいだった。

 でも、そんな観察も大体一通りしてしまった。テスト用紙は問題と回答部が同じ用紙に印刷されているから、迂闊に落書きも出来ない。机に書いてもいいのだけれど、ゆくゆくは消さねばならないと思うと、なんとも書き込む気になれなかった。私はどうでもいいような見栄と微妙すぎて笑われそうな律儀さとのせいで、もう本当に退屈で暇で身動きが取れないどうしようもない時間を過ごさねばならなくなっていたのである。

 よく学校の先生達は無駄な時間を過ごさないようにしましょうとか、わずかな時間を見つけて単語を覚えましょうとか適当なことをのたまうことがある。なんとも都合のいい言葉だなあと思えてきてしまった。今の私には、このテストで余ってしまった時間と言うものこそが、一番無駄で有効的に使うべき時間だと思えて仕方がなかったのだ。「先生、暇なんで勉強してもいいですか」なんて、挙手して尋ねてみたらどうなるんだろう。きっと怒られるんだろうな。

 私は頬杖をついたまま教壇に居座る冴山先生を見た。英語の予習を忘れたのが分かると、ネチネチとしつこく説教をたれる中年親父だ。いかにも頭が固そうに見える眼鏡も、ちょっと後退し始めた脂ぎった額部分も全部含めて、正直、苦手なタイプ。たぶん、さっき思ったようなことを口にしたら本気で怒ってくるのだろう。親父は怖いのだ。

 そんなことを思いながら、私はしばらく冴山先生を凝視していた。やめていた人間観察の再開である。椅子に深く腰掛けた冴山先生は、ピクリとも動かなかった。

 少しだけ気になった。生徒ならまだしも、対面する形で座っている冴山先生を見続けることはなかなか難しいことのはずなのだ。と言うのも、目が合う危険がある。別に目が合うのが悪いわけではないけれど、心的に嫌なものがある。先生の観察と言うのは、細心の注意を払って望まねばならない観察のはずなのだ。

 けれど、今の冴山先生を観察するのにはミジンコの心臓ほどの注意も要らなかった。ぼうっと気の抜けたなまずのように凝視し続けても、ばれる気配さえないのである。どうしたことだろうと思った。こんなの、まるで石像じゃないか。むむむと俄然興味を込めて観察してみる。あることに気がついた。冴山先生自身のことではない。その目の前にいる、最前列のクラスメイトの様子だ。数人の生徒がちらりちらりとテスト用紙から顔を持ち上げて冴山先生の表情を覗き見ていた。

 その背中にただならぬ空気が揺らめいているような気がした。色をつけるなら、紫と黒と赤がぐるぐると交じり合った妖気のような気配。見上げる表情が忌々しそうに歪んでいるのが、背中越しにも係わらず見えたような気がした。また、教室の端っこに位置する、少々羽目を外しすぎる男子が、ふざけて千切った消しゴムを冴山先生に投げつけ始めているのにも気が付いた。消しゴムが顔面に当たる。クスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。それでも、冴山先生はひとつも動かなかった。

 これはもしかしてもしかするのだろうか。むくむくとある予感が顔をもたげ始めた。冴山先生は寝ているのではないだろうか。予感は一気に実像を結び始めた。思えば、冴山先生はあの椅子に座ってから一度も動いていないような気がする。テストが始まってから今に至るまで、そのほとんどを寝て過ごしているのではないだろうか。だとしたらひどい態度だ。先生なのに。

 少しだけむかついた。それから、いや、もしかしたら先生だからなのかもしれないと、視点を変えて考えてみようと思った。暇だったからだ。

 例えば、私が先生だったとする。それで、テストの監督を指示されたとしよう。授業でもなく、ただ用紙に向かう生徒達を、沈黙の中監督すると言うのはとてもつまらない時間じゃないだろうか。私はその時間を無駄な時間だと考えやしないだろうか。自分の教科に関係しているわけでもないし、一応生徒を信頼しているから疑うことも煩わしい。そんな時間を有効的に使うには、這い上がってくる眠気に身を任すのがちょうどいいのかもしれない。

 ふと、世の中は不公平だと思った。

 別に今までの考え方からしたら、寝ている冴山先生の態度はそれほど悪いわけではないと思う。と言うか、結論としてそう至った。けれど、その身の上とか、立場とか、そんなのを考えてみると、何となく腹が立ってくるのだ。立場にかまかけた強制的な発言を幾度となくしていたのは誰なのか。そんな人物が軽率な行動を取っていいのだろうか。駄目じゃないのか。いつの間にか自身が先生だったらというシミュレートを離れていた私は、私の中で先生という職業に対する怒りが込み上げてきているのに気が付いた。

 だから先生は嫌いなのだ。学校が嫌いなのだ。自分勝手な大人たちに支配されているような気になるから。生徒の意思を尊重するとか、自発的な取り組みを期待するとか、適当なことばっかり口にして、最後には怒鳴りつける。押し付ける。力で理解させようとする。大人はいつも数字を気にしているのだ。すごく独善的で卑怯だ。だから私は、私は……。

 みゃあ、と一声、猫の鳴き声が聞こえた。引かれるように声がした方を振り向く。ドアの向こう側にささみ様がお座りをしていた。目を数度瞬かせてから、私は一度クラスの中を見渡す。誰も鳴き声に気がついた人はいないようだった。それとも、鳴き声がしても無視しているのだろうか。はたまた、私だけに聞こえた幻聴だったのだろうか。ともすれば、ささみ様も幻覚。いやいや、待て、待て。そんなことが起きるはずがないじゃないか。見たのだから。さっき、ささみ様は確実にドアの向こう側にいたし、鳴いたのだ。じゃなかったら聞こえることも見ることもないのだから。思い、再びドアの方へ視線を向けた。ささみ様の姿はそこになかった。

 すとんと、肩から何かが床に落ちてしまったような気がした。昔話に出てくる、狐やら狸に化かされた人たちはこのような気分になったのだろうか。私の場合、猫に化かされてしまったのだけれど。呆然とドアの方を見ながら、私は置いてけぼりを喰らったような気分になった。

 カリカリとシャーペンがテスト用紙を引っかく音が教室のあちこちでしている。カリカリ、カリカリ。音が教室を埋め尽くしている。そんな無機質な音に囲まれながら、私は幼い頃祭りの会場で迷子になってしまったことを思い出した。

 怖いじゃない。寂しいでもない。あの時感じていた気持ちを、今の私はどう表現することが出来るんだろう。行く人全ての視線に私が映っていなかったあの気持ち。行き交う大きな大人たちがぬらぬらと動く壁のよう思えた。自分が今どこにいるのか、どちらを向いているのかも、進んでいるのか後退しているのか、立ち止まっているのかすら分からない。人の波の中で、私は本当の独りぼっちを経験したのだ。自分自身ではもうどうにもならない孤独感。ああ、孤独だ。限りなく絶望に近い孤独だったんだ。はちきれそうな寂しさを噛み締めて、私はずっと親の顔を捜していたのだ。

 少しだけ色褪せて親しみを持つことが出来るようになったあの時の孤独が、ふんわりと浮かび上がってきたような気がした。

 みゃあ、とまた声がした。目の前をたくさんの足が移動しているような気がした。顔をドアの方へ移動させる。私は強烈な既視感を味わっていた。確かあの夜も、涙が滲み、霞み始めていた私の瞳は、こんな風に鳴き声に引かれて真っ白な猫を見つけたんだった。

 ドアの先にささみ様が座っていた。

 じっと見つめる。穏やかな表情の猫が私を見返している。ああ、もしかしたらささみ様は、また私を誘おうとしているのかもしれない。そんな風に思えてきた。ささみ様が腕を舐め、顔を洗う。澄んだ青色の瞳がもう一度私のことを見つめてきた。すっとその腰が浮く。身体の向きを変えて、ささみ様はドアの先へと歩き出そうとした。歩き出す前にもう一度だけ私のことを見て、ささみ様は廊下の先へと歩いていった。追いかけなくちゃいけない。激しくそう思った。

 椅子から立ち上がろうとして、現状を思い出した。私は教室の中を見て回る。誰もささみ様に気付いた人はいなかった。テストに向かっている。

 冴山先生を見る。まったく動いていない。十中八九寝ているのだろうと結論付けた。

 おそらく、今なら何とかここから脱出することが出来るはずだ。今しか出来ないはずだ。そう思った。思ったものの、一度止まってしまった私の腰は漬物石みたいに重くなってしまって持ち上がらなくなっていた。張り詰めている緊張感と、もしかしたら冴山先生が起きてしまうかもしれないという恐怖心が決断を鈍らせていたのだ。自分の思い切りのなさに呆れを通り越して怒りすら覚えそうになる。どうせならこれ見よがしに船を漕いでくれたらいいのにと、苛立ちの矛先を冴山先生に全部向けた。知らず知らずの内に、親指の爪を噛んでしまっていた。

 そんな時だった。うっすらと、か細い呼吸音が教室の中に響き渡ったのである。さざ波が引くようにして教室の空気が一変した気がした。見回してみればみんながみんな顔を持ち上げて、音の出所を探っている。私も例に漏れず音の発信源を探していた。

 やがて、数十の視線は一点に集中するようになった。冴山先生である。クラスメイトの誰もが冴山先生のことを見つめていた。ゆるりと音を立てて、みんなの表情に余裕とも嘲笑とも取れる侮蔑の色が浮んだような気がした。

 ざわりと、何かが背筋を這った。よく分からないけれど、怖くなった。こんな表情が出来るんだ。普段はあまり見ない裏の顔を見たような気がして落ち着かなくなった。が、徐々にそんな居心地の悪さも消えていった。代わりに脱出のチャンスが決定的になったことが素直に嬉しくなってきた。これでささみ様を追うことが出来るようになったのである。教室の後ろ側で、かつ廊下に近いという好立地な席配置になった自分が苗字に感謝しながら、私はそろそろと廊下へ向かおう席を立つことにした。今なら誰かが教室から出て行っても大丈夫な気がしたのだ。

「どこ行くの」

 椅子から立ち上がったところに小さく声がして、心臓も肩もびくんと跳ね上がった。ぎこちなく振り返る。学級院長のちーちゃんがじと目で私のことを見ていた。首筋の辺りを冷や汗が流れているような気がする。非常に気まずい空気が瞬時に場を支配してしまった。

 沈黙が痛い。ついさっきまで渦巻いていた喜びは、全て消え去ってしまっていた。代わりに心臓の音が身体中の液体全てを振動させている。鼓膜に直接響いてくる。これはまずい。必死で言い訳を考えた。

 他の誰かの視線は感じなかった。幸いなことに、まだちーちゃんにしかばれていないみたいだ。溜まったつばを飲み込む。私はちーちゃんに返事をした。

「ちょっとトイレ」

 緊張が恥じらいに見えればと願った。私の下腹部はもちろんそんなに切羽詰った状況ではなかったのだけれど、変に収縮したような気がした。きりきりしているような感じだった。

 返事を受けて、ちーちゃんは私のつま先から頭までじっくり眺めた。あからさまに訝しがっている。が、一言「そう」と言うとまた机に向き直ってくれた。ほっと一息、ため息が漏れる。私は廊下へ向かって歩き始めた。

「言い訳は自分で考えてね」

 少しだけ共犯めいた色の声にびっくりした。頷いて、廊下へ向かう。ちーちゃんは相手の隙を突く名人なんじゃないだろうかと思った。

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