覚醒とこれから
「………………」
遠くで声がしている気がする。懐かしい、耳慣れた声。いつの間にか聞かなくなってしまった声だ。あるべき居場所に戻ったような、ほんわか温かい心地がした。
「…………お……」
声はどんどん近づいてくる。水底から引きずり出すみたいだと思った。私は冷たい水の中に沈んでいる。引き上げる掌は大きくて、とても温かなのだけれど、私はもう少しだけこの水の中に漂っていたい気もしていた。閉じた沈黙に身体も意識もなくなって、溶け込んでいるような気がしていたのだ。
「…………お……い……」
声が近くなる。私は不機嫌になる。もう少し放って置いてくれないのだろうか。ほんのあつ少しでいいのだ。
「…………おい……。……おい、国東。起きろ!」
頭の上から野太い声がして、私は勢いよく顔を持ち上げた。黒板がある。私のことを見ているクラスメイトの顔がたくさんある。椅子がある。机がある。私は教室で机に向かっている。
「昨日はよほど予習に精が出たみたいだな、国東」
恐る恐る見上げた私の隣には、額に青筋を浮かべた冴山先生が笑顔で立っていた。とろとろ動いていた血流が、一気に勢いを増したような気がする。目が覚めたばかりだというのに、背中にはもう嫌な汗が浮かび上がり始めている感触がした。はははっと強張った表情が何とか笑顔を作り出す。一方で、覚醒したばかりの私の脳みそはフル回転で、とにかく言い訳を考え始めていた。
何となく、もう無意味だと言うことも分かっていたけれど。
「授業はちゃんと起きて聞け!」
お叱りを残して、冴山先生は教壇へと戻っていった。卓上に放ってあった教科書を広げて、本文を読み始める。おっさんの口から流暢な英語が次から次へと流れ出した。私は訳が分からなかった。
私はあの場所からどうやって帰ってきたのだろう。テストは、数学のテストはどこへ行ってしまったのだろうか。そもそも今はいつなのだろう。何がどうしてどうなってしまったのだろうか。パニックに陥りかけながら、私はキョロキョロと周りを見渡した。何かが分かる手がかりがあるのではないかと思っていた。
「国東〜ぃ。お前少し落ち着け!」
冴山先生の声がして、教室の中に笑いが起きた。ものすごく恥ずかしくなった。顔が一気に赤くなるのが分かる。私は机の上になぜか出ていた英語のノートを広げて目の前に立てて、どうにかこうにかみんなの視線を遮るしかなかった。
机の上に紙切れが飛んできた。飛んできた方向を見る。隣にはちーちゃんが座っていた。私に紙切れを渡してなんかいなように、まっすぐ黒板を見つめている。
紙切れには『どうしたの?』とだけ書いてあった。折り返しの返事に、なんでもないと書いて、その次が書けなかった。ちーちゃんが寝ていた私を心配しているのは分かりきっていたけれど、だとして何を書けというのだろう。あの道程。変な祭り。ささみ様のこと。どれもこれも、書いたそばから更なる心配を呼びそうなことだらけなのだ。第一、どう考えても日にちがおかしいのだ。悩んだ挙句、どうしようもないので、私は一節しか書かなかった紙切れをそのまま返した。
そうして、そのまま英語の授業が終わった。
「本当にどうしたのさ、国東。なんかおかしいよ、あんた」
昼食のパンにかぶりつたところを、ちーちゃんに声をかけられた。一時停止した口を再び動かしながらむしゃむしゃとパンを咀嚼しつつ、どう説明しようかと考えた。すぐに諦めたけれど。そもそも、私自身何がなんだか分からないので説明のしようがないのだ。だから、ちょっと調子悪くって、と歯切れの悪い答えをするしかなかった。案の定ちーちゃんは納得してはくれなかった。
「だって、国東があんなんになるの初めてじゃんか。本当は悩みとかあるんじゃないの? 最近ぼーっとすること多いし。ほら、相談乗るから。言ってみな」
何やら誤解されてしまったようなので、慌てて本当に大丈夫だと言うことを伝えた。言葉を繋いではみたものの、本当のところでちーちゃんは納得してはくれなかったみたいだった。表面上は一応「そうなの?」と納得したようだったが、心配が顔に滲み出ていた。
本当に大丈夫なんだけどな。苦笑が漏れてしまう。でも、ちーちゃんの優しさが嬉しかった。
「ありがと、ちーちゃん」
「ん。んん、べつにいいよう、礼なんて」
ちーちゃんは、恥ずかしそうに手を振った。いい娘だなと思った。大切な友達だ。
それから、ちーちゃんとどうでもいいような話で盛り上がって、昼休みを過ごした。私はサンドウィッチと自販機で買った紅茶で昼食を済ませたが、ちーちゃんは結構大きな弁当箱を平らげていた。いわく、何事にもエネルギーが大切なのだそうで、ちーちゃんから見ればクラスメイトの女子が食べている量など少なすぎるのだそうだ。みんな太るのを気にしてるんだよと言ったら、その分運動したらいいじゃないと、至極適切なことを言われてしまった。仕舞いには、あんたらは外見を気にしすぎだとか何とか、クラスの女子を代表して私が説教させられてしまう羽目になった。へえへえと聞き流しながらも私は不公平だなあと思わずにはいられなかった。
と、唐突にちーちゃんが言っていたことを思い出した私は、未だにぶつくさと昨今のダイエットブームを愚痴っていたちーちゃんの語りを遮って尋ねてみた。
「ねえ、さっきさあ、最近ぼーっとすることが多くなったって言ってたじゃん。それっていつごろから?」
「へ? いつごろからか? んー、そうだねえ。ああ、あれだ。あれだよ。あの数学のテストがあった日からだ。だから、二日前からか。あんた、普段通り生活してたつもりなんだろうけどさ、ふと見るとぼんやり外眺めてたりとか、机をじっと見つめてたりさ、ちょっとおかしな様子だったんだよ」
聞いて、急に薄ら寒くなった。二日前。私にその間の学校での記憶はない。あの青い視線をどこから感じた。私は慌てて教室のドアの方を振り返る。開いていたドアからはひんやりとした秋の空気が入ってきているだけだった。
「どうしたの?」
ちーちゃんが不思議そうに声をかけてくる。振り返った私は、満面の笑みでなんでもないと返事をした。なんでもなくはないのだけれど。
「あ、国東。あんた、スケッチブックなんて持って何してんのさ」
悶々と考え始めた私とは対照的なちーちゃんが嬉々として見つけたのは、私の開いたカバンから覗いていた一冊のスケッチブックだった。何か言う前に、するりと動いたちーちゃんの手がスケッチブックを取り出してしまう。目の前に現れたその一冊を見て、私は衝撃にも似た感動を味わった。
それはあの日青年から貰ったスケッチブックだった。
「なにこれ……」
意地悪く笑いながら机の上にスケッチブックを開いたちーちゃんが、目の前に現れた一枚を見て言葉を失っている。スケッチブックには、あのたくさんのものを見ることが出来る青年が描いたささみ様が、こちらの表情を伺うかのように描かれていた。
「ねえ、国東。これあんたが描いたの?」
ちーちゃんが興奮気味に聞いている。私はふるふると頭を振ってその問いを否定した。
「え、じゃあ他の誰かのスケッチを貰ったってこと?」
繰り返しちーちゃんは尋ねてくる。私はその問い掛けには答えず、一枚一枚、広げられた絵をめくっていった。あの、坂道で見た絵と同じ絵がそこにはあった。知らず知らずの内に、私はものすごく幸せな気分になっていた。
そう言えば、あの青年はどうしているんだろう。まだあの公園で絵を描いているのだろうか。無視を決め込む私の傍らでちーちゃんが喚いている。行ってみようかな。そう思った。何があるかは分からない。もしかしたら、青年はいないかもしれない。でも、それでもいいような気がした。
「ねえ、ちょっと国東。無視するってひどくな――」
「ちーちゃん。今度の休み一緒にお出かけしない?」
ほへ、と唖然とするちーちゃんに思いっきり微笑んであげた。
「その絵を描いた人に会わせてあげるよ」
言うや、本当にと言ってちーちゃんは喜んでくれた。絶対行く。絶対行こうねと、手を握って念を押してくるほどだった。その押しの強さに少し気おされた私は苦笑を浮かべるしかない。適当に相槌を打ちながら、ちーちゃんの興奮が収まるのを待つことにした。
そんな時。
にゃあ、と声がした気がした。天井から。天辺から。空の上から。手を握られっぱなしの私は窓の方を向いて、その先に広がる空を見た。秋の空はやっぱり広くて、どこまでも澄み渡っていた。
ささみ様はこの空の上から見守っていてくれているのだろうか。それとも、また気まぐれで地上に降りてきているのだろうか。分からないけれど。
青い空を見ていたらどうでもよくなってきてしまった。所詮はそういったことの積み重ねなのだろうと思った。
にゃあ、と空が鳴き声をあげる。私はそんな空の下で今日も生きている。そしてこれからも。
「もう、分かったから手を離してくれないかな」
未だに手を握るちーちゃんに、私は小さく抗議してみることにした。




