縞トラ
「なー、今からどっか行かねえ?」
「悪い、俺今日塾なんだわ」
「そうかー、ならしょうがないなー。俺もたまの休みだし遊びたいんだけど、いかんせんスケジュール合わないよなー」
「本当だよな。遊びたいわー」
「早くしなきゃ! 部活に遅れちゃう!」
「剣道部厳しいもんね。あとやっといてあげるから早く行ったほうが良いよ!」
「ごめんね! ありがとー!」
放課後。教室を飛び交う勉強、部活の言葉。それぞれが辟易としながら教室を出て行く姿を見ながら走太は、自分が好きで入学しておいて何を言う、皮肉にしか聞こえないんだよと心の中で愚痴る。
家に帰ってもどうせ何もしないだろうと考え、凛太郎に半ば強引に勧められて借りたライトノベルを一人教室で読んでいた。読書なんて良くても漫画、国語の教科書くらいしか目を通さないので文字を追うことに慣れずとても苦労した。
内容は主人公の男子高校生の両親が経営するコンビニに、ある日突然異世界から勇者を名乗る青年がロッカーから出現するというハチャメチャなストーリーで、よくもまあこんなものを思いつくなと馬鹿にしながら読んでいたのだが、これが意外に面白く、本の世界に飲み込まれてしまった。
百ページほど読んだところで時計を見てみる。午後四時半。結構読んでいたつもりだったのだが一時間ほどしか経過していないことに自分の読書力の無さを実感する。そして疲れた。これを機に読書を趣味としてもいいかもしれない。思いながら本に栞をはさんでカバンにしまう。
気づけば教室には走太しかいなかった。これくらいの時間帯ならまだ友達同士で駄弁っている連中がいてもおかしくはないのだが、この学校では他校の常識が通用しないという常識がある。
パチンと照明を消す音が教室中に響く。と同時にあかね色の夕日が教室を染めた。嫌に哀愁漂うこの光景に走太はそそくさと教室を出る。
さて、と歩きだそうとした時。
「……まだ誰か残ってるのか。珍しいな」
隣の教室――八組から話し声が聞こえた。別にやましい気持ちがあるわけではないが、そーっと聞き耳を立ててみることにする。
「……いい? 今朝のアレで、もしかしたら感づかれてるかもしれないから、十分に注意しなさいよ!」
「うん、気をつける」
聞き覚えのあるこの声は鞠井と捺のようだ。二人でしきりに今後の何かについて確認を取っているらしい。
「……じゃあそういうことだから。あたしはもう行くわね」
そう言いながら鞠井は教室から出てくる。
もちろんそこには走太がいるわけで。
「……ふう――って、ええええ!?」
振り向きざまに走太がいたことに鞠井は動揺の色を隠せない様子だった。なぜかウィスパーボイスで絶叫する。
服装は淡いピンクのテニスウェアだった。膝上何十センチはあろうかと思われる短いひらひらの付いたスカートから伸びる健康的な脚。鞠井がもう少し、いやもっと、かなり身体的に成熟していた女の子だったのなら走太も見とれていたのかもしれないが、体のラインもはっきりとしない平坦な体つきでは何もこみ上げてくるものはなかった。
「な、ななななんであんたがこんな所にいるのよ! 無能は無能よろしく下校のチャイムと同時におうち一直線でしょうが! あと! なにジロジロ見てるのよ!」
鞠井は右手で胸元、左手で下半身を隠して身をよじらせる。
「本当に失礼な奴だな……それと別に見てもいないし、っていうか見るもんなんて――」
「う……うるっさいわね! あたしはどうせ未発達の女児よ! 何か文句ある!?」
積極的に自らの地雷を踏んできた。
「……何も、ない、です」
「ありなさいよ!!」
「めんどくせえなあ!!」
どうして欲しいのかわからなかった。
「……ところで、何も聞いてないでしょうね?」
鞠井は依然として両手のガードは解かない。
「何も聞いてない」
「本当でしょうねぇ……まあ、あたしも部活で急いでることだし、これくらいにしといてあげるわ。だからとっとと帰りなさい。ゲームセンターとかに寄り道するんじゃないわよ」
「大きなお世話だっつの……」
そう言うと鞠井は駆け足で廊下を去っていった。
鞠井の気配が完全に無くなったところで走太は大きく息を吐いた。やはり女子と一対一で話をするのは相当な労力を要する。未だに肩の力が抜けない。
「っていうか一体何の話だよ。俺に関係あるわけじゃあるまいし」
考えながら八組を後にしようとするが。
「……」
今朝のことを思い出した。自分の軽はずみな言動で鞠井と捺に何かしらの動揺を与えてしまったのは事実だ。その結果、鞠井は沸騰し、捺は絶句している。鞠井はすでにいなくなってしまったが、捺はまだこの教室にいるはずだ。あの時、謝りそびれてしまったから捺にだけは今一度謝っておこう。そう思い走太は扉に手をかける。
照明のついていない暮れなずむ教室。瞳にオレンジのカラーフィルムを貼り付けたような、どこか幻想的な空間の中に、一人の少女がいた。
まさに青春を絵に描いたような光景だった。不思議と心臓の高鳴りも増してくる。
しかし。
その心臓の高鳴りは、穴を塞いでいないビーチボールのようにゆるやかにしてしぼんでいった。というのも――
「……トランクス?」
決して国民的少年漫画の話をしているわけではない。走太はありのままのことを口にしたのだ。
少女――捺は着替えの真っ最中だった。恐らくはサッカー部部室に行って着替えるよりも、ここで着替えて一直線にグラウンドに向かいたかったのだろう。走太に背を向けているため彼の存在には気づいていない。
スカートのホックを外してファスナーを下ろす。すとんと床に落ちるスカートに目を奪われながら、走太は視線を上げる。
綺麗に日に焼けたふくらはぎ、太もも――走太は喉が鳴るという衝動を抑えることが出来なかった。そして――
瞳に映ったのは水色のストライプ模様。某界隈で言われるところの〝縞パン〟というやつだろうか。
ただその形状が明らかにおかしい。通常女子の履くパンティーというものは三角の形をしていて、体のラインにぴったりと収まるものである。その点、捺の履いているものはおかしかった。ダボダボなのである。さらに三角とは程遠い、言うならば横長の長方形。あれはまさに――
「……トランクス?」
縞トランクスだった。
「んー? マリーちゃんまだいるのー?」
スカートを脱いだ捺はハーフパンツを履こうとしていた。そのため尻が走太に突き出される形となって向けられる。正直喜んでいいのかわからない。気まずいという気持ちの方が何倍も勝っていた。
「いや……鞠井じゃないんだがな……」
走太は頬を掻きながら気休めに窓の外を眺める。遠くの山々が黒く染まり、夕日のせいもあって切り絵のような風景が出来上がっていた。
「え? 男の人……?」
捺は尻を突き出したままぎょっと後ろを振り向いた。
……。
「……走太……くん? え? え?」
しきりに目をしばたかせている捺に向かって走太は一言。
「あ、いや……流行ってるのか? トランクス」
遠くでカラスの鳴く声がする。
「……」
「……」
二人の間をなんとも形容し難い間が流れた。実際はほんの数秒だったのかもしれないが、もしかしたら何時間も固まっていたのかもしれない。
「わ……わああああああああああああ!!」
その静寂を切り裂いたのは捺だった。このフロア全体に響き渡るほどの絶叫。ちなみに尻は突き出したままである。
鼓膜を直接殴られているのではないかという錯覚に襲われ、走太は思わす耳を塞ぐ。
「な、なんで!? なんでこんな所に走太くん!? え!? え!? だってここは部室だし……なんでなの本当に!」
とても混乱していた。
「わ、わたたたた!」
そして前のめりにすっ転んだ。
「お、おい大丈夫かよ!」
走太はなるべく捺の尻を見ないように駆け寄った。
「終わった……私の高校生活が……」
顔面を床に貼り付けたまま捺は朦朧とした口調でつぶやく。
「いやいやいや! たかが女子がトランクス履いてたくらいで高校生活終わりにならないから!」
走太はツッコミを入れるとともに必死にフォローをする。トランクスを履いている女子なんて珍しいものではないだろう。日本は広いんだ。もしかしたら本当にこれが流行っているのかもしれないし。初めて見たけれど。
「うう……うう……」
しまいには泣き出してしまった。もしもこの場に誰かが入ってきたら、確実に学校から何日かの暇を出されてしまう。
「ほら泣いてないで、とりあえずズボン履ききれよ」
捺を立ち上がらせ、履きかけのハーフパンツを履くよう促す。
「このことは誰にも言わないから。な?」
そう言って捺の肩をぽんと叩いて励ます。女の子の体はもっと柔らかいものかと思っていたが、捺の肩を叩いてみると体つき以上にガッチリとした筋肉の感触があった。やはり全国区のサッカー選手は体の鍛え方が違うのだなと感心する。
「それにここでウジウジしてたら部活に遅れるぞ」
「あっそうだ……部活……」
いままで走太の言葉に目立った反応をしなかった捺だったが、部活という言葉に虚ろだった目がカッと開かれた。
「早く行かなきゃ……また雪ちゃんに怒られちゃう……」
言いながら捺はいそいそと脱いだスカートなどをエナメルバッグに詰め込み始め、あっという間にドアの方へと走っていった。そして教室を出る前に、
「……走太くん。明日の昼休み、理科室に来てくれないかな」
「理科室?」
「うん。色々と話さなきゃいけないことができちゃったし……だめ?」
トランクスを見られたことがそんなに恥ずかしいのだろうか、捺は走太に目を合わせず尋ねる。
「わかった。行く」
「……それじゃあね」
捺は上はワイシャツ、下はハーフパンツという妙な服装で教室を出て行った。廊下を見てみるとその姿はもう無く、まさに疾風のようだった。
日は落ちようとしていた。先ほどまで鮮やかに染まっていた教室も次第に光が失われつつあり、得も言われぬ焦燥感に駆られる。
また謝りそびれてしまった。それどころか謝ることがまた増えた気がする。
何かをしようと動くとなぜか悪い方向へと物事が向いてしまう。どの世界においてもこれは変わらないものだな、そう思いながら走太は足取り重く家路に着いたのだった。