光城の魔人
彼女はイギリス人の父親と日本人の母親から生まれたハーフだ。鮮やかに光り輝くブロンドは父親譲り。瞳は母親の遺伝子を受け継ぎ濃い茶色。肌の色は走太たち日本人と同じであり、髪の毛以外は基本的に母親の遺伝子を受け継いだようである。ハーフということもあり、他の人間よりも分からない程度に顔の掘りが深いが、それが絶妙のバランスを発揮しているため、まさに百人が百人振り返るといった絶世の美少女を生み出していた。
問題は名前である。極度の目立ちたがり屋である彼女の両親は、鞠井という苗字とハーフという理由なだけでアントワネットというド派手な名前を付けてしまった。走太からすれば名前に負けず劣らずの美少女なのだからそこまで気にすることでもないのではないかといった感じである。
そんなお気楽な両親のもとで育った彼女はこんな親のようにはなるまいと自分に厳しく生きていくつもりだったのだが、何を間違ったのか気づけば常に上から目線の高慢ちきな性格になってしまい、その名前も相まってか〝女王様〟だとか〝マリー〟だとか様々な愛称で呼ばれてしまっている。正直なところマリーについては半ば諦めているらしい。
「い……言ったわね……あたしのフルネームを……あたしの前で……」
鞠井は制服の袖で涙を拭きながらわなわなと立ち上がる。
「いい暇つぶしが来たね」
そんな怒り心頭の鞠井を横目に凛太郎が耳打ちをする。廊下にいても凛太郎の言葉を拾う女だぞ。今のだって絶対に聞かれているに決まっている。
走太は恐る恐る鞠井の表情を窺うが、先ほどと変わらず怒っているだけだった。どうやらマリーという単語だけを超人的な聴覚で聞き取っているらしい。いわゆるタブーというやつだ。
「ところでマリー、僕たちの何がそんなに気に入らないんだい?」
「それよそれ! っていうかそんなに親しくもないのに呼び捨てにしないでくれるかしら! その発音が頭に来るのよ! そんな外人みたいなイントネーションじゃなくって、もっとこう日本人らしい発音をしなさい! 鞠井って!」
「分かりにくいなぁ……」
凛太郎は思わず苦笑する。鞠井はひとしきり彼をまくし立てたところで隣のスレンダーな女子に飲み物を要求する。泣いたり怒ったりで喉が渇いたのだろう。すると彼女はオロオロしながらもどこからともなくタンブラーを取り出す。
「ミルクティでしょうね? 砂糖たっぷりでしょうね?」
「う、うん。いつも通り大さじ五杯入れたよ」
「よろしい――うん、冷たくておいしいわ」
そう言って鞠井は喉を鳴らしながらミルクティを飲む。いやミルクティってそういう飲み方しないだろ、と走太はジト目になりながら思う。
どうやら一息で飲み干したらしい鞠井は空になったタンブラーをスレンダーな女子に返した。小さくゲップを漏らしながら一人至福の時間に浸っている。
「……はっ! そういえばなんの話をしてたかしら……?」
今まで自分がどんな理由で怒っていたのか忘れてしまったらしい。人の記憶を忘れさせるほどのミルクティーとは、飲んでみたいものである。
「……そうよ! あたしの名前よ! ……江久蘭はもういいとして――あなたは……」
凛太郎については諦めたらしい鞠井は次に走太へと標的を変えた。
「あらぁ、笛吹走太ね」
その標的が走太だと分かった瞬間、鞠井の表情は一変、怒りから侮蔑のものへと変わっていた。彼女の反応に走太は特に嫌がる素振りを見せず、黙って聞いていた。走太自身、この反応に粗方予想がついていたからだ。
なぜ鞠井は走太に対してそのような態度をとったのか。
ここでもう一度、光城高校の特徴についておさらいしておく。
先ほどの通り、光城高校は女子と言えばはスポーツ、男子と言えば学力といったように、性別で文武の大きな偏りが見られる不思議な高校である。このシステムは学校側が強制していることではなく、なぜか年を追うごとに偏りは大きくなっていき、気づけば暗黙の了解のようなものが形成されてしまっている。
三郷雪はサッカー部の一年生レギュラー。数ある先輩たちを退けてエースナンバーの九番を背負いフォワードとしてピッチに立つ。
江久蘭凛太郎は天才文学少年(走太の偏見)。何かと暇を潰すことに没頭しているただのお調子者に見られがちだが、見ての通り男子である。つまり勉強面において突出したものがあり、特に国語に関して右に出るものはいない。
鞠井アントワネット。彼女は硬式テニス部に所属しており、その小柄な体格ながら一年生レギュラー、シングルスの三番手を任されている。テニスというスポーツとその派手な外見から、周りからはまたしても〝蝶々婦人〟だとか数多くのニックネームを付けられているらしい。しかし実力はもちろん本物であり、一年生の中ではダントツで上手い選手である。
その鞠井の斜め後方に従うようにして立つスレンダーな女子。走太は彼女のことは二学期二日目にして初めて見た気がするので素性はよく知らないが、運動神経が良いということは確かである。
「あたしは無能のあなたが未だにこの学校にいることが不思議でならないわ!」
今までの鬱憤を晴らすかのように鞠井は走太に当たり散らす。しかし走太は何も答えない。反論の余地がないからだ。
無能。
無能とは能力や才能がない人間のことを指した言葉である。
ここは文武のエキスパートたちが集う光城高校。無能な人間などいるはずがない。
……いるはずがないというのは勘違いである。生徒数二千五百人を誇る光城高校の九割以上はその道のエキスパートであるが、そうでない生徒だって少なからず在学している。鞠井曰く〝無能〟な人間という奴だ。
しかしこの無能という言葉には大きな語弊がある。無能なのではない。凡人なのだ。彼ら彼女らから見れば何もできない無能な人間だと思われるかもしれないが、無能なのではなく、いたって普通。どこにでもいるような生徒たちなのである。
笛吹走太という人間もその凡人の一人だった。どの世間にもそのような人間は必ずいる。いないということは絶対にありえないのだ。……この学校を除いては。
どこにでもいる凡人という概念が通用しない場所。見渡す限り一面の天才集団――それが光城高校である。
学力は中の中、運動神経も中の中。生徒たちは彼をそういう認識で見ている。そんな彼は学校の中では逆に目立った存在といえよう。
しかしここでの目立つという意味はいいものではない。入学当初ほどではないが、走太は常に好奇の視線を浴びている。女子のように運動神経が良くなければ男子のように頭が良いわけでもない。そんなどっちつかずの状態は悪い意味で中性的であり、世間の風当たりは強かったりする。そのいい例が今現在の鞠井の態度というわけだ。
「おかしな話よねぇ? この学校になぁんの目的もなく入ってくるなんてただの迷惑としか言いようがないじゃない。でしょう? そうでしょう?」
「やめなよ。別にそういう人が入ってはいけない理由なんてないんだからさ」
見かねて仲裁に入る凛太郎。彼の言うとおり、ここは文武単道を校訓として掲げているものの、そこまでの厳しい制約はない。年を追うごとに優秀な生徒が多くなっていき、気づけば天才以外お断りのような風潮ができあがってしまったのだ。
「それはそうだけどっ……江久蘭、あなたはこんな無能と一緒にいて時間の無駄だと思わないのかしら?」
一瞬怯む鞠井だったが、依然として高圧的な態度は崩さない。
走太は誰とも目を合わせないように教室の向こうを見るようにする。たまにこうやって自分の存在を否定されることがあるが、やはり気分のいいものじゃないな、と小さく笑う。ただ単に家から近かったからという理由でこの高校を選んだのが全ての発端になるわけだが。
そんなことを思いながら廊下を左右に行き交う生徒たちを眺めて、人間観察も動物園みたいで悪くないな、と考えている時。
視線の進行方向に障害物が立ちはだかった。一年生だというのに色褪せた制服、気品漂う黒髪――三郷雪が教室に入ってきたのである。手に可愛らしい巾着袋を提げている辺り、外で昼食をとっていたのだろう。
げっ、と思わず心の中で呻き声をあげた走太は慌てて視線を外そうとする。しかし向こうのほうが走太を見つける速度が速かったらしく、雪は走太の視線を捕まえた。もう少し気弱な性格かと思ったのだが、さすがの瞬発力である。
目で走太を捕獲した雪は小さく笑顔を浮かべる。それに苦笑いで対応する走太。
雪は次に隣で睨み合っている鞠井と凛太郎に目を向けた。
二人を見た雪は驚いているようだった。そして状況を察したのか彼女は火花を散らせている二人に小走りで駆け寄る。やめろ、お前が行ったところでどうにかなるものではない。
そして立ち止まって一言。
「なっちゃんじゃないですか。珍しいですね、七組に来るなんて」
雪がいつになく楽しそうに談笑している相手。それは凛太郎でも鞠井でもなく、その二人の論争に一人怯えているスレンダーな女子生徒だった。
「ああ雪ちゃん……ここは七組だったんだね」
「それを知らずに入ってきたんですか?」
「いや、なんというか……私はついてきただけというか……」
走太があっけに取られている間も二人の会話は終わらない。一方では睨み合う二人。もう一方では見ていて微笑ましくなるような二人の会話風景。そしてそんな四人の近くにいながら完全に存在を忘れられている走太。端から見れば結構カオスな光景だっただろう。
「むむむ……おや、あなたは――」
ようやく後方が賑やかだと感じた鞠井は雪の存在に気づく。
「あなたは……三郷雪! なんでこんなところに!」
そして雪に向かって大げさに指を差した。先ほどまでの高圧的な態度は消えて、妙にうろたえている。
「な、なんですか鞠井さん。私は七組の人間なんだからここにいてもおかしくないじゃないですか。それと、化け物を見るように指差すのやめてください!」
雪は胸の前で握りこぶしを作り可愛らしくツッコミを入れる。
「ふん、化け物とはいいわね。しかし、たとえあなたが化け物でも、真の天才はあたしよ! それだけは譲らないわ!」
鞠井はここぞとばかりに噛み付く。走太へといい、凛太郎へといい、そして雪へといい、彼女には人と仲良くしようという考えがないのだろうか。しかし化け物とは、雪が天才サッカー少女だとは知っているが、なぜ化け物と揶揄されるのか。走太には見当もつかなかった。
「光城の魔人がよく言うよ、三郷さん」
「ひっ……!」
凛太郎の言葉を聞いた雪は途端に顔を真っ赤にしてしゃがみこんでしまった。どうやら彼の暇つぶしの対象は鞠井から雪に移ったようである。
「魔人……?」
走太は凛太郎に聞き返す。
「そうよ。部員二百名を擁するこの光城高校女子サッカー部には二人の一年生レギュラーが存在する。その一人が……三郷雪よ」
凛太郎が説明しようと口を開いたところで先に鞠井が喋り出してしまった。マリーはバツが悪そうに床にしゃがんでいる雪に向かって顎をしゃくる。先手を取られた凛太郎は顔をしかめていた。走太もなんとなく分かっていたが、この二人はどうも仲が悪いらしい。
しかし、見るからにプライドの高そうな鞠井が雪のプロフィールを詳しく調べている辺り、相当な対抗心が彼女にはあるようだ。それと同時にそれほどの対抗心を燃やすほどの実力とはどのようなものなのか、という興味が走太に湧く。今度雪の部活風景でも見に行ってみよう。
「……で、なぜこの子が〝魔人〟なんて顔に似つかない呼ばれ方をしているのかというと――」
雪が一層顔を低くして聞くまいとする。そして鞠井が言いかけた時だった。
ダンッ!
教室内で何か大きな衝撃音が発せられた。瞬間、水を打ったように静まり返る教室。走太たち四人は同時に肩をびくっと上げその音の主を凝視する。
教室前方の、最も扉と一番近い席に座っていた男子生徒――音の主は机に両手をついて立ち上がっていた。机を思い切り叩いた音だったらしい。
「イヤホンから音楽を聴いていてもここまでうるさいとは、いい加減にしてくれないか」
男子生徒は誰を見るわけでもなく淡々と喋っているが、その矛先は走太たちに向かっているものだということは明白だった。
「うげ……湯村……泉」
鞠井は苦虫を噛み潰したような表情になる。こいつ色んな顔すんなーと走太は感動すら覚えてしまったが、今はそれどころではない気がするので何も言わないことにした。
「か……帰るわよっ、捺!」
そして鞠井は小ぶりな金髪縦ロールを揺らしながら努めて冷静に教室を後にする。声音が彼女の狼狽具合を如実にあらわしていた。
その鞠井にスレンダーな女子――捺はおどおどついていくのだった。
もとはといえば鞠井のせいでこのような事態になってしまったのだから、彼女が事の収拾を図らなければいけないのに、当の本人が逃げ出してしまってはどうしようもない。
教室はなんとも言えない空気に包まれてしまった。すごく居づらい。
湯村泉という男子生徒は溜息をつくと静かに着席して、再び耳にイヤホンをかけた。それで固まっていた空気は幾分か和らぎ、その場に居合わせていた生徒たちは徐々にそれぞれの会話に戻っていく。
見れば湯村泉はせっせとシャーペンを動かしている。どうやら勉強中のようだ。
確かに、自分が真剣に勉強をしているときに周りが騒がしかったら机の一つでも叩きたくなるな、と走太は同情する。しかし教室で自習など俺がするわけがないのではないかと苦笑した。
湯村泉。走太の中での彼の印象は、一言で言えばガリ勉である。
さらりと流した前髪には清潔感が漂っており、何が楽しいのかワイシャツは一番上のボタンまで留めるという気合の入れよう。銀縁のメガネも大いにその存在感を発揮しているため、真面目キャラのテンプレートのような容姿になっている。湯村泉と言えば百人が百人、ガリ勉だと答える自信が走太にはあった。まあ実際ガリ勉なのだが。
一学期の期末テストは国語を除く全てにおいて学年一位の成績。要するに総合成績も彼が一位だったというわけである。国語は何を隠そう江久蘭凛太郎の専売特許だ。あの天才をも退ける才能が彼にはある。
秀才の他、ルックスも相当なもので、走太より若干高い身長と、その端正な顔立ちから彼に想いを寄せる女子は多い。しかし先ほどのとおり、性格に難があるため近寄ろうとする女子は皆無で、その叶わぬ恋に枕を濡らす女子が後を絶たないという罪作りな男でもある。
「クラスに一人はいるよね、ああいうの」
凛太郎は辟易としながらずずず、とコーヒー牛乳を飲み干す。
「でもさ、普通あの手のクソ真面目キャラって、自分の意識の高さを振り回して委員長になったりとか、なんでも率先してやるイメージない?」
「まぁ確かにな。あいつが委員長でもなんの文句もない」
「ただ、僕は湯村ほど勉強以外のことに無関心な人間を知らない」
「ガリ勉だからな」
「そんな生半可なことじゃないんだよ走太。友達との友好関係、年頃の高校生ならいくらか備えているだろう恋愛感情、その他諸々の、日常生活を送っていく上で必要な多くのことよりも、勉強を最優先に取るような男なんだよ、彼は」
「そんな大袈裟な……」
走太は苦笑いを浮かべながら無心でシャーペンを走らせる湯村の背中を見る。結局湯村は昼休み終了のチャイムが鳴るまでも椅子から立ち上がることはなかった。