マリー・アントワネット
時刻はお昼時。四限目が終了した辺りである。
昨日は二学期初日ということもあり、始業式だけで学校が終わったので授業はしておらず、学校に用のない生徒は半日で帰宅の途についていた。実質二学期が始まるのは授業がスタートする今日からといっていいだろう。
走太は退屈ながらもそつなく授業をこなした。一限から四限まで、各教科の夏休み中の課題を提出できたということが本日の最大の功績と言える。夏休み中、少々凛太郎から教えてもらったところもあるが。
教室にいる生徒はまばらだった。時刻は昼休み。生徒たちは昼食を食べている。
光城高校は比率的に学食派の生徒が多い。学校敷地内の四ヶ所に作られた食堂で食べる幅広いメニューの数々は生徒たちからも大評判だ。よって必然的に昼休みの教室は閑散とするわけである。先程までいた三十九人の生徒たちはほとんどが外に出てしまい、現在は十人ほどが家から持ってきた弁当や購買で買ったパンなどで食事をとっている。走太と凛太郎もその一人で、走太の机のある教室後方窓際の席で昼食をとっていた。凛太郎は走太の前の席を拝借している。これが彼らのいつもの昼休みの光景だった。
「いいかい走太。百六十九センチの人間からすればね、百六十九センチと百七十センチでは雲泥の差があるんだ」
「……またそれかよ。あと一センチを金で買えるとすればいくらでも払うって話だろ? お前それ何回目だよ」
右手に持っていた箸で凛太郎を差しながら走太はツッコミを入れた。何回でも言うさ! とコーヒー牛乳を片手に熱くなる凛太郎に走太はげんなりする。
凛太郎いわく、彼は中学校一年生までは背の高いキャラクターとしてみんなからちやほやされていたらしい。その当時の身長は百六十九センチ。……言わずもがな、凛太郎は中学一年生の時点で既に成長がストップしているのだ。自分を差し置いて次々と身長が伸びていく友人たちに凛太郎は娘を嫁に出す父親の心境になったという。よく分からない。
どうしても残りの一センチを諦めることができない凛太郎は身長を伸ばすために毎日のコーヒー牛乳は欠かさないそうだ。プレーンの牛乳でないのは牛乳だけのあの味が苦手だからということらしい。その時点でもう妥協しているということには気づかないのだろうか。
そんな凛太郎の話を聞き流している時、廊下を歩く生徒の姿が見えた。
教室にいる人間の半分以上が外に出ている今の状況なら、多くの生徒が廊下を行き交う光景は当たり前で、普通はなんとも思わないのだが、なんとも思ってしまう人間が歩いていたのである。
小刻みに揺れる短めの金髪ゆるふわ縦ロール。ツインテールの根本にあしらわれた淡いピンクのリボンがドアのガラス窓からひょこっと飛び出す、その余りにも目立ち過ぎる髪型は走太の注目を引くには十分だった。
「あ、マリーだ」
その金髪を目で追いながら凛太郎は呟いた。
「相変わらず目立つねーあの子……なんだい走太、三郷さんには飽き足らず今度の狙いは彼女? 走太も今日一日で女の子に耐性がついたもんだ」
「お前な……あんな髪の毛の奴、普通チラ見くらいはするだろうが。現に今お前だって見てたくせに」
「おーこわいこわい。悪かったよ、走太の好みがブロンドの女の子だってことは内緒にしといてあげるからさ」
「こいつは本当に……」
肩をすくめながら言う凛太郎に、走太が思わず握りこぶしを作っている時だった。
ものすごい剣幕で開かれるドア。そこに居合わせた生徒たちは教室、廊下を問わず全員がドアの前に立つ少女に視線を集中させていた。
ドアの前には先ほど通り過ぎたはずのちんちくりんな金髪女と、隣には部下を従えるようにしてショートカットで背の高い女子が立っていた。長身の彼女は膝が隠れるほど長めのスカートを履いており、この学校にしては珍しいという印象を受けた。
そんな年の離れた姉妹のような身長差だが、容姿が余りにも似ていないのでそうではないのだろう。長身の女子はみんなの注目を浴びてしまっていることにうろたえているようだった。
彼女の心境などどこ吹く風といった感じで金髪女は声を大にして叫ぶ。
「……だぁれがマリーよ誰が! 私の名前は鞠井よ! そんなことを言った頭のおかしい奴は――お調子者の江久蘭ね……」
教室は締め切られていたのに、凛太郎の呟きを耳ざとく拾ったのかこの女は。地獄耳にもほどがある。
金髪女は声の主が凛太郎だと分かるとあからさまに辟易とした態度になる。確かに走太も、凛太郎は天気屋でお調子者だと思っているが、この反応を見る限り、彼は余程の悪名で通っているらしい。
「ねえ走太」
金髪女の猛抗議に一瞬もひるむことなく凛太郎は口を開いた。もはや無視の領域だ。
「――パンがなければ?」
凛太郎のその言葉に、金髪女の頬がヒクつくのが分かった。
そんな言葉を投げかける凛太郎のあまりの脈絡のなさに走太は一瞬頭が回らなかったが、数秒考えたのち口に出す言葉を決める。パンがなければ? そう言われたらこう答えるしかないだろう。
「……お菓子を食べればいいじゃない」
走太の言葉を聞いた瞬間、金髪女の目に涙が溜まる。と同時にぷるぷると震え出した。
「ご明答! さっすが走太! ぼくとの意思疎通はもはやエスパーの領域だね!」
「気持ちの悪いことを言うな! そもそもああやって言われたら、そう答えるしかないだろ!」
「そう答える? そうって、どう?」
凛太郎はしきりに頬を緩ませていた。その笑みは完全に悪童のそれだった。
「いやだからお菓子を食べれば――」
「やーめーてー! もうやめてえええ!」
走太が言い切る前に床に泣き崩れる金髪女。走太は突然のことにぎょっとする。
「な、なんだ? なんでこいつ急に泣き出して……」
「まだ分からないの? 君も罪作りな男だ」
凛太郎の意味深な言葉にイラっとする走太。
「なんだよ。もったいぶらずさっさと言え」
「はぁ……いくら女の子が苦手な走太でもこの学校に一学期間通ってる人間だったら分かるでしょ? ほら、この子の名前はなんだった?」
凛太郎は溜息をつきながら床に女の子座りをしている金髪女に目を向ける。
この子の名前? さっき言っていたじゃないか。鞠井……鞠井――
そこまで考えて走太の思考は停止する。そうだった。そういえばそうだった。
「鞠井……アントワネット……」
「ぎゃああああああああああああ!」
走太の言葉に耳を塞ぎながらまたも過剰な反応をする金髪女。女の子座りから頭を抱えてそのまま後方にのけぞる姿は狂気すら感じた。
そうなのだ。今ここで、こうして床を転がりまわっているちんちくりんこそ――
鞠井アントワネット――それが彼女の名前である。