私立光城高校
私立光城高校。
全国でも類を見ない【文武単道】を掲げる珍しい高校である。
そもそも文武単道などという言葉はこの高校の創立者が作った文字通りの造語であり、認知度は極めて低く、知る人ぞ知るといったところではないかと思われる。
文武両道などもう古い、これからの時代はどちらか一方をより極めたものが時代を制する。と創立者が声高らかに宣言したのが三十年前。少々時代を先取りしすぎている感じはあるのだが、創立者が外国人であり、常識にとらわれない学校経営が功を奏したのか五年もせずに経営は軌道に乗り始める。現在では全校生徒数二千五百人の超マンモス校にまでのぼりつめたのだ。
では、この光城高校は学業の『文』、スポーツの『武』。どちらに特化した高校なのか。
両方である。
スポーツ面で優秀な生徒、学業面で優秀な生徒――つまるところの文武単道。どちらかが特化した生徒がこの高校に通っているのだ。
どの運動部も全国に名を馳せ、毎年何十人ものトップアスリートを輩出する光城高校。
頭脳明晰、成績優秀。全国模試で上位にランクインする高校は九割がこの光城高校。
そんな『文』と『武』をここぞとばかりに極端にした学校が光城高校なのである。端から見れば文武両道だと思われても仕方がない。
しかし、近年この高校には異変が起き始めている。生徒の傾向におかしな偏りが生まれているのだ。
女子は決まってスポーツ優秀。
男子は決まって学業優秀。
なぜだか分からないが、このような偏りが十数年前から徐々に見られるようになり、現在ではほぼ百パーセントの比率で男女での文武の分別が付いてしまっている。この流れが一向に衰えないのは、女子と言えばスポーツ、男子と言えば学力といった暗黙の了解、裏校則のようなものが出来上がってしまっているからだろう。
「きりーつ、きをつけー、れーい」
クラス委員長が号令をかけて朝のホームルームが終わりを告げる。にわかに騒がしくなる教室。その中に無事走太と雪の姿はあった。彼女の強靭な脚力がなければこの場にはいなかったかもしれないと走太は心の中で感謝する。
九月に入ったというのに教室内は冷房が効いている。実際のところ、この文明の利器が動いていなかったら倒れていたかもしれない。走太はせっせと教室に冷気を送り込んでくれているエアコンに向かって深々と頭を下げ、またも感謝するのだった。
そうしてエアコンからその下にいる雪に視線を移す。クラスメイトたちと朗らかに談笑する姿をなんとなしに眺める。なぜ彼女はあれだけのスピードで自転車を漕いでいたというのに汗一つかいていないのか。訝しむように観察していると不意に彼女と目が合ってしまった。雪は相変わらずのおしとやかな笑みを返してきたのだが、走太は自分が雪を見ていたということにうしろめたさでもあるのか、逃げるようにして一限目の授業の準備に取り掛かるのだった。
「やぁ走太、毎朝予鈴ギリギリに到着する君が、なんでまた今朝は遅刻ギリギリに来たんだい?」
一限目の終了。退屈そうに椅子から立ち上がろうとした走太は自分の名前を呼ばれて後ろを振り向く。
「凛太郎か」
走太が凛太郎と呼ぶ少し小さめの男子生徒はニヤニヤと口の端を吊り上げていた。その表情は何かを企む悪ガキといった様子だ。
「予鈴ギリギリも遅刻ギリギリもあまり変わらないだろう」
「いいや変わるね。一学期、走太の登校時間は全て予鈴の鳴る八時二十五分ぴったりだった。昨日もそうだったよ。これはもはや君の頭の中で無意識のうちにルーチンワークが出来上がってしまっているといっていいね。そう考えると今朝の出来事は非常におかしいんだ」
「お前……暇だなぁ」
走太は憐れみに近い表情で凛太郎を見る。
「ああ暇さ! 人一倍暇だと感じる沸点が低い僕は、少しでも間があったら何か暇をつぶせるものはないかと探してしまうんだ! だから僕は息をするように暇をつぶせるよ! ちなみに最近のマイブームは人間観察かな。走太、僕の暇つぶしに付き合ってくれて本当にありがとう!」
凛太郎は芝居のように大袈裟に動いてからお辞儀をした。
「別に付き合ってた覚えはねえよ……」
走太は凛太郎から視線を外して溜息をつく。
江久蘭凛太郎。聞いた感じとても華やかな名前の彼とは、入学してから知り合い話すようになった。恐らく走太がこの学校で一番よく会話をする人物だ。
凛太郎が男子生徒ということは、彼は非常に頭がいいということだ。特に国語。夏休み前の期末テストで国語に関しては強豪ひしめく光城高校でダントツの一位を取ったとか。
国語が得意だからかは分からないが、凛太郎は暇さえあれば本を読んでいるというイメージが走太にはある。最近はもっぱら人間観察に精を出しているらしいが。
「そこで更におかしいと思った点があるんだ」
凛太郎は人差し指を上げて言う。次の時間の準備もあるし歩きながら話そうぜ、と上げかけだった腰をちゃんと上げて席を離れる走太。
「で、何がおかしかったんだよ」
「そんなこと、君が三郷さんと教室に入ってきたことに決まってるじゃないか」
自分のロッカーに手を掛けた走太はその言葉にびくりと反応する。
「……偶然だろ」
「いいや違うね。今朝君はいつになく珍しく……いや、初めて遅刻ギリギリに教室に入ってきた。今まで毎日やってきたことを突然しなくなる。これはきっと走太に何か遅れてしまったような理由があったんだろうと僕は考えたんだ」
凛太郎は走太と同じく自分のロッカーから次の授業に使う教科書なりを取り出しながら揚々と喋り続ける。
「それとほぼ同時に教室に入ってきたのが――そう、三郷さんだ」
「う……」
走太はバツが悪そうに背中を小さく丸めた。そんな時だった。
「あの……今私のこと、呼びました?」
もじもじと自信なさげに凛太郎に尋ねる人影。誰であろう、三郷雪だった。
「ああ三郷さん! 丁度いいところにいてくれた! さあ走太、君の遅刻しかけた理由が判明する時が――」
そう言って凛太郎が勢い良く走太に向き直すと、
「いや、俺はここで聞いてるから、二人でやってくれ……」
走太は凛太郎、雪の二人とは五歩ほど距離を置いて壁に身をあずけていた。
「はいはい。早速走太の女嫌いが発症しましたか」
「うるせえ。それと、その発言は勘違いされるからやめろ!」
肩をすくませて言う凛太郎に走太はツッコミを入れた。別に女子と仲良くするつもりはないが、自分が逆に男好きだと噂されては困る。
「それで、なんでしょうか?」
「うん、ええと……じゃあちょっと手を広げてもらっていい?」
「手……ですか。さっきしっかり洗ったんですけど……汚くてすいません」
雪は胸の前で恥ずかしそうに両手をすり合わせてからゆっくりとその手を広げた。
「――ビンゴだ! やっぱりそうじゃないか走太!」
雪の手を見るや否や、凛太郎は走太に駆け寄り目を輝かせる。何がそんなに楽しいのか走太には全く理解ができなかった。はやく席に着かせて欲しい。
「なんだよ本当に……」
「これを見てもまだ白を切るつもりかい? ほら、三郷さん」
凛太郎は雪を促す。は、はいっ、と雪が上ずった声を上げながらぱたぱたとこちらに寄ってくるので走太はまたも半歩後ずさる。そして雪は両手を前に突き出した。
それこそ雪のように真っ白なはずだった両手は、指先が黒く薄汚れていた。説明するまでもないが、自転車のチェーンに付いていたオイルによる汚れである。
「はい、次に走太」
今度は走太が手を開くよう促される。言われて渋々手を開く。
走太の手も同じように黒く汚れていた。走太の方が雪より汚れて見えるのは雪と違い入念に洗っていないからだろう。
手を見せ合う形になっている二人はお互いの顔を見合わせた。手を真っ黒にした男女がその手を見せ合っている姿はとても滑稽だったに違いない。
「……お揃いですね」
雪は目線だけを上げながら小さく言った。
そんな彼女の仕草に不意を突かれた走太は咄嗟に出していた手を後ろに回す。
「さあ走太、ここまで証拠が出てきて君はどう言い訳をするのかな?」
凛太郎は先程のように意地の悪そうな笑顔を浮かべる。
観念するしかなかった。
「……そうだよ。今朝は三郷と学校に来た。こいつのチャリンコのチェーンが外れてて、それを直してたから遅れたんだ」
全てを白状する殺人犯のように、走太は投げやりに答えた。ただ走太のこの態度は雪と一緒に登校していたことがバレてしまったことによるものではない。凛太郎のそのよく分からない熱意に対してのものだった。
「そうだったんだ。ねえ三郷さん、走太の奴、三郷さんに失礼なこと言わなかった? 見ても分かる通り、この常にダルそうにしている長身男は女の人が苦手だからさ」
女が苦手だということを女に言ってどうする! 喧嘩でも売ってるのか! 走太は頭の中で盛大にツッコミを入れた。それと長身男といっても身長は百八十センチ。そこまで目立つようなものでもない。やけに長身男という言葉だけを皮肉っぽく言っていたのは凛太郎が自分の身長の低さを自覚してのことだろう。
「いえ、失礼なことだなんて。むしろ本当に助かりました」
顔をしかめていた走太はそれが自分に向けて言われているものだと気づくのに数秒の時間を要した。
「ほうほうそれまた珍しいことがあるもんだ。これについても色々と聞きたいところだね走太君?」
「…………」
凛太郎は相変わらずの笑みで走太を見上げている。そんな凛太郎にいよいよ耐えられなくなった走太は教室へと歩きだした。
「いい暇つぶしになったろ? ほらもう二限目も始まる、話はこれで終わりだ」
「む? 本当だ。うん、確かになかなかの暇つぶしだったね。実に充実した時間だったよ」
廊下から教室の時計を見て満足する凛太郎。本当に暇を持て余すことが嫌いらしい。
「提供者に感謝することだな」
「そうだね。ありがとう三郷さん」
「え? 私は別に何も……」
「そこは俺も入れろよ!」
歩き出す走太の後を追うように凛太郎、そのまた後ろをキョトン顔の雪がついていく。まんまと凛太郎の暇つぶしに付き合わされてしまった。どうやら雪はそれにさえ気づいていないらしいが。
教室内は廊下と違い冷房が効いている。走太は廊下で流していた嫌な汗を冷風でごまかして二限目の授業に臨むのだった。