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トマト王子

「伝えなければ」

 雨の森を、女が走る。黒いフードをかぶり、丸まった一枚の紙を大事そうに抱えている。

「伝えなければ」

 女は何度も、同じ言葉を繰り返した。確かめるように、自分に言い聞かすように。

 その表情から血の気は抜けていた。頭から足先までずぶ濡れになるのも構わず、走っていた。

 しかし、足元を気にしなさすぎるのも考えもので。女は、足を滑らせて転んでしまう。それでも、一枚の紙を守るように、抱えていた。泥だらけになって立ち上がる。

 そんな女をあざ笑う声があった。

「美人だぜ、げっへっへ」

 下卑た笑い声だった。


「ミチル大王の命令だ。死んでもらうぜ」


 ミチル大王。この名前を聞いた時に、女の顔面は真っ青になった。悲鳴をあげる事もできずに震えている。

 男の大剣が、空を裂く。雨が激しくなり、雷が鳴った。

 女は目をつぶった。死を覚悟していた。しかし、予想されるべき痛みも、血しぶきもない。代わりに、鋭い金属音が響いた。

 女は恐る恐る目を開ける。

 大剣の動きが止まっていた。青年の細身の剣が受け止めている。 普通なら、青年の剣がへし折られていただろう。しかし、うまく衝撃を殺していた。並々ならぬ技量が窺えた。

「お引き取りください」

 青年が口を開いた。子供に言い聞かせるように、穏やかな口調だった。

「ミチル大王にお伝えください。企画の乗っ取りは、僕が止めてみせると」

「てめぇ、まさか、あのトマト王子か!?」

 トマト王子。この名前を聞いた時に、女の表情が明るくなった。容姿端麗、清廉潔白で、女の子にきゃーきゃー言われるモテモテ王子だ。白い甲冑がお似合いで、野菜王国で一番の剣士でもあった。目の前の、いかにもちょい役の雑魚キャラに負ける男ではないのである。

「畜生! ミチル大王に言いつけてやる。てめぇただじゃおかないからな!」

 圧倒的な見た目の差に打ちのめされ、男は泣きながら走り去っていく。特に何もされていないのが、かえって憐れであった。

「大丈夫でしたか?」

 トマト王子に声をかけられて、女は顔を赤くした。

「は、はい」

「よかったです」

 トマト王子のジェントルマンスマイルに、女は眩暈を感じた。美しさは罪というやつである。

「僕はもう行かなければなりません。さようなら。お元気で」

 トマト王子が背中を見せた時になって、女は正気に戻った。

「待ってください! あなたに渡したいものがあります」

「僕にですか?」

「はい。鼻血王国のキーゼルバッハ王からの手紙です」

 女は、抱えていた紙を差し出す。

「キーゼルバッハ王ですか! 僕も、彼にお会いしたかったのです」

「ああ、よかった。これで、私の役目は無事に終了です。安全な所に逃げます。ご武運を」

 そう言って、女は走り去った。結局、この女もちょい役だったのである。

「安全なところですか……」

 トマト王子は物思いにふける。

「昔のラケン大陸なら、どこにも危険がなかったのに……キーゼルバッハ王が無事だといいのですが」 

 トマト王子はため息を吐いた。キーゼルバッハ王とは古くからのつき合いで、共に笑い、共に泣いた仲だ。しかし今、彼は消息を絶っていた。

 

 逃げ回っているのか、あるいは誰かに囚われたのか。


 紙には、鼻血王国に代々伝わる紋章が書かれている。人間の鼻の絵だ。あまりにリアルすぎて、誰もがドン引きするそれこそ、鼻血王国の王の直筆である証であった。

「今生の別れの挨拶でなければいいのですが」

 トマト王子は、祈りを込めて、ゆっくりと丁寧に紙を広げた。

 短く、こう書かれている。


『元気? いぼじ? 俺、鼻血!』


「いろいろな意味で寒いです」

 暗号か何か、深い意味があるのだと思いたかった。しかし、長いつき合いだ。彼が暗号などという回りくどい事はしないのを、トマト王子は重々承知していた。

「元気そうですね」

 トマト王子の表情は穏やかだった。

「何の気がかりもなく、ミチル大王の討伐にいけます」

 トマト王子は、手紙を丁寧に折りたたんで、胸元にしまった。

 ミチル大王を倒せば、ラケン大陸の平和を取り戻せる。

 そう考える王子に、これからの苦難を知る由もなかった―― 

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