第五話『シルダの傷』
冷たいレンガの壁づたいに、シルダは進んでいった。
その先にあるのは希望か絶望か。
どちらであっても、それを受け止める──彼はそう心に決めていた。
吐く息は白く凍りついて暗い空へと昇っていく。
温もりを求めて、シルダは灯を灯した。
氷のように冷えていた指先が、徐々に感覚を取り戻す。
それでも、心だけは元のようには溶かせない。
冷たい不安が、その心に纏わりついていたのだ。
「ああ…」
彼の脳裏に、忘れ去ろうとしていた恐ろしい過去の記憶が蘇る。
原形をとどめなくなった肉体、床や壁や天井までもを覆い尽くす紅、血の滴り落ちる音、鉄の臭いすら生々しく瞼の裏に再び焼き付いた。
「私は何故…」
何故、自分ばかりが。
両親を失い、孤独に生き、やっと手に入れた天使という友までもが、自分によって死ななければならないのだろう。
このまま、何も起こらずに共に過ごしていける筈だった。
これ以上、大切な者の死を見たくない。
もう、残酷な運命を辿りたくはない。
シルダが、齢14の頃だった。
友達がいなかった彼は普段のように近くの原に行き、透き通る小川を眺めながら野草を採りに行った。
その場所は丘のようになっていて、そこから自分の家も小さく見えた。
空は澄み渡り、日の光が暖かい昼下がりだ。
緑色に輝く菜を摘み取り、茹でて食事にできる。
あまり裕福ではなかったシルダの家では、菜は貴重な食料だった。
彼が淡い緑の中で黙々と菜を摘んでいると、自分の家の方向から、人々のざわめきが聞こえて来た。
立ち上がって顔を上げると、家の前に人集りが出来ている。
彼らは叫んだり、怯えたり、驚いたりしていた。
目の良いシルダが目を凝らす。
人集りの足元に、家の入口から赤い物が流れていくのが僅かに見えた。
それを見たシルダは途端に家へ走り出した。
『お父さん…お母さん…』
胸が今にも引きちぎれそうになるのを必死で抑えながら、草の中をひたすら走った。
彼の細い脚に引っ掛かる枝が、浅い傷をつくる。
そんなことは気にも留めず、シルダは走り続けた。
頭の中が真っ白だった。
人の群れを押しのけ、前へ進む。
家一面に赤い血が飛び散り、無残な姿となった家族の残骸が床に横たわっていた。
激しく脈打つ心臓の音が繰り返し耳の奥に響く。
荒くなった呼吸が落ち着かない。
それよりも、目の前の残酷な現実は少年の心をを闇の底に堕とした。
小さな部屋の中に、血の海で倒れている父と母がいる。
体中の深い切り傷、千切れた手足。
その光景はあまりにも酷く、彼の心をざっくりと切った。