第四話『傷の残像』
もはやレアノには何もかも分からなくなっていた。
今自分が何処にいるのか、何故これほどの怪我をしているのか。
一番に愛する主の顔さえも地面の冷たさや痺れと混じり、思い出せない。
肩には刺し傷、背中に残る打撲の跡、何度となく鞭のように斬られた体の大きな傷。
しかし固い地面には血跡一つ無く、迷い無き剣の跡だけが残っている。
彼は肩で荒い呼吸をしながら、必死で身を守った。
身体は麻痺により痛みを感じなくなっていたが、それでも体力だけが消えていく。
意識は消えそうでありながら、微かに目は開いていて、眼前の光景を読み取っていた。
心の無い少年達は起き上がれぬ彼を冷たく見下ろし、黙ったまま魔法の欠片を振り下ろす。
レアノはそのまま意識を失った。
*
レアノが襲われる少し前、主は国王の別荘、“華の宮”にいた。
宮の姿形は美しい緑に囲まれた山の狭間に立派に建っていた。
華の宮は、今から300年前にこの国が隣国との戦いに勝利し、この山地を手にした時代記念として建てられたもので、周りを丈夫そうな遺跡の塔と若緑の木々が護っている。
それが時を重ね、今の王まで引き継がれているのだ。
そしてつい今先程、一人の魔師がその宮の大門から出て来た所だった。
そう、他でもない、シルダだ─
彼は門の前に立ち尽くし、溜め息混じりに呟いた。
「思っていたよりも時を使ってしまった。レアノには悪いな」
その顔には疲れが現れており、目にたたえたいつものような光もどこか遠くへ行ってしまったようだ。
静かな日の光がその顔を照らすと、何故か彼は不安を感じ始めた。
目や耳からでなく、心で。
レアノに何か起こる─シルダは直感した。
そして考える間もなく、街へ走り出したのだ。
*
シルダが街道に着いた頃、既にレアノの姿は見えず、深い水色の闇らしきものが辺りを埋め尽くしているだけだった。
シルダは枯れて痛む喉を押さえ、力の限りに叫んだ。
「レアノ!!」
だがその声も思うように出ず、虚しくも夕暮後の暗い空気に吸い込まれて行く。
まだ止まらない荒い呼吸を繰り返すと、白く煙が立ち、上へ上り消えていった。
「レアノ」
力なく崩れ落ちたシルダは、路地裏に何かを見つけた。
這うようにして近付くと、そこには白い羽根のような物が落ちている。
(レアノが印を残したのだ…)
やはり、誰かに襲われたのだろう。
暗い路地裏の奥に、自分の天使がいるのか。
そう思うと、乾いた筈の喉の奥に、熱いものが込み上げた。
自分のせいで、次は天使を失ってしまうのだろうか。
記憶も薄い程幼い時に両親は無惨に殺され、次は大切な天使まで失うというのか。
何故、自分だけがこれほど苦しい思いをしなければならないのだろう。
世に住む者達の運命を決める神は、何故ここまで酷い差別をする?
手の中の白い感触が消える程冷え込んだ空気の中で、シルダは一人、暗い路地裏に再び目をやった。
激しい戦いになるかもしれない、レアノはもういないかもしれない。
それでも、目の前の現状をしっかり受け止めよう。
そう心に誓い、彼は静かに闇の奥へ入って行った。