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FILE01.終わったはずの事件

初めまして!


本作『希望院麗華の事件手帖~何でもできるチートご令嬢は推理も戦闘も難なくこなします~』をお読みいただき、ありがとうございます。


本作の主人公・希望院麗華は、国内屈指の財閥に生まれ、あらゆる分野に精通する22歳のご令嬢。


そんな彼女の趣味は、なんと探偵!


優れた頭脳と豊富な知識で数々の事件を解決してきた麗華ですが、今回の事件は少し様子が違うようで……?


推理あり、戦闘あり、友情ありの物語をお楽しみいただければ幸いです!


それでは、第1話をどうぞ!

希望院麗華には、できないことがほとんどなかった。


 国内屈指の財閥――希望院グループ。


 金融、不動産、医療、航空、通信、重工業。


 国内外に数多くの企業を持つ巨大財閥であり、その名を知らない者はほとんどいない。


 麗華は、その希望院家の一人娘として生まれた。


 幼い頃から最高水準の教育を受け、学業成績は常にトップクラス。


 英語、中国語、フランス語、ドイツ語を自在に操り、法学、医学、心理学、経済学をはじめ、様々な分野に精通している。


 乗馬、剣道、水泳、射撃など、運動能力も高い。


 そんな麗華には、一風変わった趣味があった。


 探偵。


 職業ではない。


 あくまで趣味。


 けれど、彼女がこれまでに解決した事件は決して少なくなかった。


 盗難。


 詐欺。


 横領。


 時には警察すら頭を抱える事件まで。


 だから、その夜も。


 麗華はいつものように、自分が事件を解決する側なのだと思っていた。


 ――自分自身が殺人事件の容疑者になるまでは。


     *


「……これは、少し困りましたね」


 午後九時三十二分。


 東京都心にそびえる高級ホテル《グランド・アルシェ》。


 その最上階にある特別応接室で、希望院麗華は静かに呟いた。


 目の前には、一人の男性が倒れている。


 東城和臣、五十八歳。


 国内最大手のIT企業《東城システムズ》会長。


 胸には銀色のペーパーナイフが深く突き刺さっていた。


 床に広がる血。


 麗華は入室した足を止めた。東城から午後九時半に会いたいと呼び出されていたが、まさかこんな光景を目にするとは思わなかった。


 すぐにホテルの緊急連絡先へ通報し、救急車と警察の手配を頼む。電話を切ると、麗華はゆっくりと膝をつき、東城の首筋に指を当てた。


「脈は……ありませんね」


 瞳孔と呼吸を確認する。


 胸に刺さったペーパーナイフの柄に、思わず指を添えた。傷の角度を確かめようとしたが、これ以上動かせば状態を悪化させかねない。すぐに手を離す。刃物は抜いていない。


「死後、それほど時間は経っていないと思いますが……」


 警察が到着したのは午後九時四十二分だった。


「動くな!」


 突然。


 背後から声が響いた。


 麗華が振り返る。


 扉の向こうに、一人の若い警察官が立っていた。


 二十代前半。


 制服姿も、どこかまだ慣れていない。


「その人から離れてください!」


「分かりました」


 麗華は素直に立ち上がった。


「生存確認をしていただけなのですが」


「それでもです!」


「はい」


 両手を軽く上げる。


 その時。


「麗華様!」


 廊下からホテルスタッフが駆け込んできた。


 続いて、複数の警察官。


 最初に現場へ来た若い警察官が麗華の手を見る。


「その手……」


「え?」


 麗華も自分の右手を見る。


 血。


 東城の脈を確認し、凶器の柄に触れた際についたものだ。


 さらに。


 東城の胸には、依然として血のついたペーパーナイフが刺さっている。


 そしてテーブルの上。


 一枚の紙。


『希望院家には渡さない。すべてを公表する』


 東城本人の筆跡に見える文字だった。


 若い警察官が麗華を見る。


「希望院家……?」


「はい」


 麗華は静かに答えた。


「希望院麗華です」


 その瞬間。


 室内の空気が変わった。


     *


 警察署。


 事件の状況は、麗華にとって非常に不利だった。


 午後九時十五分。


 東城が特別応接室へ入室。


 午後九時三十二分。


 麗華が入室。


 午後九時四十二分。


 警察官が現場を発見。


 その十分間、廊下の防犯カメラにほかの人物の出入りは映っていない。しかも警備担当者の説明では、東城が入室した午後九時十五分以降、正面の廊下から部屋へ入ったのは麗華だけだった。


 ただし、従業員用の通路側には別の出入口があり、そちらの記録については確認が続いていた。


 さらに。


 凶器からは麗華の指紋。


「触れましたから」


 取調室で麗華は穏やかに答えた。


「胸に刃物が刺さった状態でしたので、救命できる可能性があるか確認しました。柄に触れたのは軽率でした」


「普通、刺さってる刃物って触ります?」


 向かいに座るのは、現場で麗華を発見した若い警察官。


「刺入角度と出血量を確認しようとしたんです。もちろん刃物は抜いていません」


「医学も分かるんですか?」


「一通りは」


「……一通り」


 青年は困ったように頭をかく。


「あ、俺……じゃなくて、自分は綾瀬陸です」


「綾瀬さん」


「はい。今年配属されたばかりです」


「まあ」


 麗華が少し微笑む。


「新人さんなんですね」


「そうです」


「でしたら、少し安心しました」


「何がです?」


「まだ先入観が少なそうですから」


「それ、褒めてます?」


「もちろんですよ」


「本当かな……」


 取調室の扉が開く。


 中年の刑事が入ってきた。


「希望院麗華さん」


「はい」


「現時点では、あなたを逮捕するだけの決定的な証拠はない」


「そうですか」


「だが最重要参考人だ」


「承知しています」


「当面は捜査への協力をお願いしたい。必要なら警察官も同行させるが、応じてもらえるか」


「ええ。私も真相を知りたいので、同行には同意します」


 刑事が陸を見る。


「綾瀬」


「はい!」


「お前が付け」


「俺ですか!?」


「現場で最初に対応したのはお前だ。先輩の指示を受けて、連絡役を務めろ」


「いや、でも俺まだ――」


「よろしくお願いしますね、綾瀬さん」


 麗華が微笑んだ。


「なんで嬉しそうなんですか!?」


「これで、私が気づいたことを警察に伝えやすくなりますから」


「あなた容疑者ですよ?」


「もちろん分かっています」


 麗華は穏やかに答えた。


「だからこそ、自分で身の潔白を証明したいんです」


     *


 翌日から。


 麗華は公開情報や自分の知る関係者を通じて事件を調べ始めた。陸は担当刑事の指示の下で聞き取りに同行し、必要な情報を捜査班へ報告した。


 東城の息子――東城雅人。


 東城システムズ副社長。


 父親とは経営方針を巡って対立していた。


 しかし事件当時は取引先との会食中。


 アリバイ成立。


     *


 東城の秘書――高梨美香。


 事件当日に解雇を言い渡されていた。


 しかし事件当時は別のホテルで会食。


 複数人が目撃している。


     *


 共同研究者――真壁教授。


 過去に東城へ研究成果を奪われたとして裁判を起こしていた。


 しかし事件当時は大学で講義中。


 こちらもアリバイ成立。


     *


 そして。


 東城システムズ専務――久世誠一郎。


「私が会長を殺す理由などありませんよ」


 久世は穏やかな笑みを浮かべた。


「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


「東城さんは亡くなる少し前から、会社の資金について調査していたそうですね」


 一瞬。


 久世の目が止まる。


「何のお話でしょう」


「ご存じありませんか?」


「ええ」


「そうですか……」


 麗華は微笑んだ。


「では、今はそれで結構です」


 久世には、さらに強力なアリバイがあった。


 事件当時。


 同じホテルの大宴会場。


 二百人近い招待客の前でスピーチをしていた。


     *


 三日後。


 希望院邸。


「あと一つなんです」


 麗華が資料を見つめていた。


「あと一つ?」


 陸が尋ねる。


「はい」


「最後の一つが分かれば……」


 麗華はそこまで言って口を閉じた。


「ちなみに」


 陸が少し言いづらそうに続ける。


「明日、捜査会議があるそうです」


「そうですか」


「新しい証拠がなければ、麗華さんについても逮捕状の請求を検討するって。もちろん、そう決まったわけじゃありませんけど」


「……」


「怖くないんですか?」


 麗華は少しだけ考える。


「怖くないと言えば、嘘になります」


「ですよね」


「でも、焦ってしまうと見えるものまで見えなくなってしまいますから」


「本当に強いですね」


「そうでしょうか?」


 隣で陸がスマートフォンを操作する。


「あー……まだ事件の話題、かなり残ってるな」


「何がです?」


「SNSですよ」


「SNS……」


「麗華さん、使わないんでしたっけ?」


「あまり詳しくなくて」


「やっぱり弱点だ」


「弱点ではありません」


「詳しくないんですよね?」


「……詳しくないだけです」


「同じでは?」


「綾瀬さん?」


「すみません」


 陸が笑う。


「でも、こういう事件ってネットに意外な情報が残ってたりするんですよ」


「そうなんですか?」


「一般人が撮った写真とか動画とか」


 麗華の表情が止まった。


「……写真?」


「はい」


「事件当日のホテルのものも?」


「かなりあると思います」


 麗華は少し考える。


「綾瀬さん」


「はい?」


「見せていただいてもよろしいでしょうか?」


「SNSを?」


「はい」


「珍しいですね」


「お願いします」


 陸からスマートフォンを受け取る。


 麗華は投稿を確認していった。


 料理。


 記念撮影。


 夜景。


 宴会場。


 動画。


 ライブ配信。


「これは?」


「投稿時間です」


「こちらは?」


「引用ですね」


「引用?」


「そこからなんですね……」


「何か問題でも?」


「いえ」


 十分。


 二十分。


 三十分。


 麗華は無言で投稿を見続ける。


「こちらを少し戻していただけますか?」


「この写真を拡大できますか?」


「この投稿は何時頃でしょう?」


 陸には。


 麗華が何を探しているのか分からない。


 やがて。


 一つの投稿で麗華の指が止まった。


「……」


 別の投稿。


 さらに別の写真。


 麗華は三つを静かに見比べる。


「麗華さん?」


「……」


 数秒。


 麗華の表情から迷いが消えた。


 そして。


 静かに微笑む。


「……希望の先に、真実の華が咲きました」


「え?」


 麗華がスマートフォンを置く。


「綾瀬さん」


「はい?」


「皆さんを集めていただけますか?」


「全員?」


「はい」


「犯人が分かったんですか?」


「すべて、分かりました」


「じゃあ教えて――」


「それは」


 麗華が微笑む。


「皆さんが揃ってからにしましょう」


「俺にも教えてくれないんですか!?」


「ふふ。ごめんなさい」


「絶対ちょっと楽しんでますよね?」


「どうでしょう?」


「……絶対そうだ」


     *


 翌日。


 グランド・アルシェ。


 特別応接室。


 事件関係者全員が集められた。


「皆さんに集まっていただいたのは」


 麗華が静かに口を開く。


「東城さんが殺害された夜、何が起きたのかをお話しするためです」


「犯人が分かったんですか?」


 美香が尋ねる。


「はい」


 麗華は防犯映像を映した。


「午後九時十五分。東城さんが入室」


「午後九時三十二分。私が入室」


「それ以降、午後九時四十二分の警察到着まで、正面の扉から誰も入っていません」


「だからあなたが疑われた」


 雅人が言う。


「はい」


「でも」


 麗華は続ける。


「私たちは、一つ大きな思い込みをしていました」


「思い込み?」


「東城さんは、私が入室したあとに殺害された」


「そう考えていましたね?」


 担当刑事が答える。


「死亡推定時刻から考えれば当然だ」


「ですが死亡推定時刻には、ある程度の幅があります」


 麗華がホテルの見取り図を表示する。


「事件当日」


「午後八時五十五分から九時三十五分まで」


「最上階の従業員通路と、特別応接室の裏口を映す防犯カメラが停止していました」


「理由はシステム更新」


「そして、そのシステムを導入した企業は」


 麗華が久世を見る。


「東城システムズです」


「……」


「保守の予定を把握していた内部の人間なら、防犯カメラの停止時間を知ることができた可能性があります。従業員用エレベーターから裏口を通れば、正面廊下には姿を見せずに入室できたのです」


「それだけでは証拠になりませんね」


 久世が言う。


「はい」


 麗華は頷いた。


「ですから次です」


 SNSへ投稿されていた動画。


 午後九時二十八分。


 宴会場。


 壇上でスピーチをする久世。


「こちらをご覧ください」


 麗華が映像を停止する。


「後ろの大型スクリーン」


「その右下です」


 表示。


 20:58。


「八時五十八分……?」


「この数字は、スピーチ映像の中に映り込んでいる、壇上脇の時計です。ホテルの時計は一斉に時刻を合わせています」


 麗華が説明する。


「一方、同じ午後九時二十八分に客席から生配信された別の動画では、会場の壁の時計が九時二十八分を指しています」


「つまり、九時二十八分に撮影された客席の動画には、八時五十八分に撮られたスピーチ映像が映っていたんです」


「あなたはスピーチを事前に録画した。そして、その録画を本番の会場で流した」


 久世の表情が少し変わる。


「あなたは事前収録した映像を、会場側の協力者に再生させたのでしょう」


「そして本番では会場を暗くし」


「大型スクリーンへ、その映像を流した」


「音声も録音しておけば」


「客席からは壇上そのものが見えにくく、ほとんどの参加者は大型スクリーンに注目していた。招待客が『スピーチを見た』と答えても、実際にあなたを壇上で見たとは限りません」


「そんなことで二百人を騙せると?」


「はい」


 麗華が別の投稿を表示する。


 暗い宴会場。


 スクリーンを見る参加者。


『遠いからスクリーンで見る』


『スピーチ始まった』


「当時の参加者が投稿したものです」


「多くの方が、あなた本人ではなくスクリーンを見ていました」


 久世が黙る。


「ですが」


 麗華が続ける。


「これだけでは、久世さんが犯人だと断定できません」


「当然でしょう」


「だから」


 麗華は一枚の写真を表示する。


「最後のピースを探しました」


 東京の夜景。


「午後九時二十四分」


「外国人観光客が最上階で撮影し、その場で投稿した写真です。投稿記録に加え、元画像の撮影情報も捜査班に確認していただきました」


「窓ガラスをご覧ください」


 薄く反射した人影。


 左手。


 特徴的な指輪。


「東城システムズ創業三十周年記念」


「役員だけに贈られた指輪です」


 さらに。


「そして」


 清掃用ワゴンの金属部分を拡大。


 そこに。


 男の顔。


「……久世」


 陸が呟いた。


「午後九時二十四分」


 麗華が久世を見る。


「あなたは宴会場にはいませんでした」


「この最上階にいたんです」


 沈黙。


「あなたは防犯カメラの停止時間を利用し、従業員通路から裏口へ回った」


「東城さんが午後九時十五分に入室してから、私が九時三十二分に入るまでの間に襲ったのです」


「九時二十四分の写真は、犯行そのものではなく、あなたが最上階にいたことを示しています」


「その後、宴会場へ戻った。スピーチの映像が、あなたの不在を隠していたのです」


「そこへ」


「呼び出されていた私が入室した」


「私は通報して生存確認をした際、凶器の柄に触れてしまった。刃物を抜いたわけではありませんが、指紋を残してしまったんです」


「だから」


 担当刑事が呟く。


「希望院さんの指紋が残った。だが、それだけでは犯行時についた指紋とは言えない」


「はい」


 麗華は頷いた。


「そして久世さんには、完璧なアリバイが残るはずでした」


 麗華はスマートフォンを見る。


「ただ」


「あなたには一つだけ誤算がありました」


「このホテルには」


「防犯カメラ以外にも、たくさんのカメラがあったんです」


「一般の方々のスマートフォンです」


 久世がゆっくり目を閉じた。


「……完敗ですね」


「久世!」


 雅人が叫ぶ。


「私が殺しました。従業員通路から裏口へ入ったのも、会場で録画を流すよう手配したのも私です」


 久世は静かに言った。


「会長は私の横領に気づいた」


「十一億円ですね」


 麗華が言う。


「そこまで……」


「はい」


 久世は乾いた笑いを浮かべる。


「なら、これで終わりです」


「いいえ」


 麗華が答える。


「まだです」


 一枚の資料。


「東城さんは、あなたの横領とは別に」


「ある資金の流れを追っていました」


「総額七百八十億円」


 雅人が息を呑む。


「複数の海外企業を経由し」


「最後は行き先が分からなくなっています」


 そして。


 一つの印。


 黒い円。


 その中心を貫く白線。


 久世の顔色が変わる。


「この印」


「ご存じなんですね?」


「知らない!」


「今、明らかに驚かれました」


「俺はただ金を流しただけだ!」


「誰にです?」


「言えない!」


「なぜ?」


「殺される!」


 室内が静まり返る。


「誰にですか?」


「知らない!」


「全部ネットだ!」


「毎回違うアカウントから指示される!」


「数分後には消える!」


「東城さんは?」


 麗華が尋ねる。


「何を知ったんです?」


「あいつは……」


 久世の声が震える。


「金の行き先を見つけた」


「どこです?」


「知らない」


「ただ……」


「会長は言ってた」


 久世が麗華を見る。


「この国がひっくり返るって」


 その瞬間。


 照明が一度明滅した。


 机の上。


 捜査員が証拠品として保管し、通信を遮断していたはずの久世のスマートフォンが突然起動する。


 送信者――不明。


『失敗を確認しました』


 続いて。


『希望院麗華』


 さらに。


『次は、あなたが対象です』


 画面が消えた。


「……」


「麗華さん」


 陸が彼女を見る。


 麗華は黒い印を見つめていた。


「どうやら」


 静かに言う。


「私たちは、とても大きな事件の入口に立ってしまったみたいですね」


     *


 それから三週間。


 久世は逮捕された。


 東城殺害事件は解決した。


 少なくとも。


 表向きには。


 麗華は事件後も独自に調査を続けていた。


 七百八十億円。


 黒い紋章。


 消えるアカウント。


 そして。


 《PROJECT:ZERO》


 その名前へたどり着くまでに、さほど時間はかからなかった。


 だが。


 それ以上が分からない。


 ネット上に存在する情報は、見つけた直後に消える。


 企業名。


 口座。


 人物。


 すべてが存在していた痕跡ごと消えていく。


「……随分と用心深いんですね」


 深夜。


 希望院邸の書斎。


 麗華は一人でパソコンを見ていた。


 陸から電話が入る。


『麗華さん、まだ調べてるんですか?』


「はい」


『もう夜中ですよ』


「あと少しだけです」


『そう言って昨日も三時まで調べてたでしょう』


「よくご存じですね」


『監視役だったんですよ、俺』


「もう監視は終わったでしょう?」


『そうですけど……』


 麗華が小さく笑う。


「心配してくださっているんですか?」


『そりゃしますよ』


「ありがとうございます」


 その時。


 画面に、一つのデータが表示された。


「……?」


『どうしました?』


「少し待ってください」


 見覚えのないファイル。


 送信者不明。


 麗華は送信情報を保存したうえで、隔離した端末を使って慎重に開く。


 一枚の地図。


 そして。


 一つの住所。


『麗華さん?』


「綾瀬さん」


『はい』


「明日、お会いできますか?」


『え?』


「少し、分かったことがあります」


『なら今教えてくださいよ』


「まだ確証がありません」


『……一人で行ったりしないですよね?』


 麗華は少しだけ黙った。


『麗華さん?』


「もちろんです」


『その間、絶対怪しかった!』


「ふふ」


『笑ってごまかさないでください!』


「では、明日」


『麗華さん!』


 麗華は電話を切った。


「……ごめんなさい」


 小さく呟く。


 住所を見つめる。


 東京都内。


 使われていないはずの研究施設。


 そして。


 そこには。


 あの黒い円と白い線の印が添えられていた。


     *


 翌日。


 午後十一時。


 廃研究施設。


 麗華は一人で中へ入っていた。


「……綾瀬さんには、あとで怒られてしまいますね」


 スマートフォンのライトで周囲を照らす。


 何年も使われていないように見える。


 しかし。


 床には新しい靴跡。


「最近、誰かが来ていますね」


 奥へ進む。


 一枚の扉。


 電子ロック。


「……」


 麗華は電子ロックの状態を調べた。


 端末の表示は生きていたが、扉の固定金具は劣化している。傷んだ箇所を慎重に動かすと、ロックが外れた。


 扉の先。


 地下へ続く階段。


「これは……」


 地下。


 大量のモニター。


 サーバー。


 資料。


 そして中央。


《PROJECT:ZERO》


 麗華の表情が変わる。


「やっと……」


 机の上に資料。


 ページをめくる。


 世界各地の企業。


 政治家。


 研究者。


 軍事施設。


 そして。


 不可解な項目。


《WORLD:01》


《WORLD:02》


《観測成功》


《接続実験》


「世界……?」


 麗華が眉を寄せる。


「どういう意味でしょう……」


 次のページ。


 そこには。


《希望院麗華》


 自分の名前。


「……私?」


「見つけると思っていました」


 声。


 麗華が振り返る。


 暗闇。


 一人の人物が立っている。


 顔は見えない。


「あなたは……?」


「素晴らしいですね」


「東城和臣の事件から、ここまでたどり着いた」


「PROJECT:ZEROの関係者ですね?」


「ええ」


「目的は何です?」


「あなたには、まだ知る必要がありません」


「では」


 麗華が静かに相手を見る。


「私をここへ呼んだ理由は?」


「確認するためです」


「何を?」


「あなたが」


 一歩。


「本当に鍵として使えるのか」


「鍵?」


 麗華の目が細くなる。


「何を――」


 パンッ。


 乾いた音。


 麗華の身体が揺れた。


「……え?」


 胸。


 赤い染み。


 銃弾。


 身体から力が抜ける。


 床へ倒れる。


「どう……して……」


 息が苦しい。


 視界が霞む。


 足音。


 男が近づく。


「あなたには」


「次の世界へ行ってもらいます」


「次の……世界……?」


「そこで」


「もう一度、鍵になってください」


 麗華の意識が薄れていく。


 脳裏に。


 陸の顔が浮かぶ。


『一人で行ったりしないですよね?』


「……綾瀬……さん」


 約束を破ってしまった。


 謝らなければ。


 でも。


 声が出ない。


「……ごめん……なさい……」


 視界が暗くなる。


 音が消える。


 そして。


 希望院麗華の命は。


 そこで途絶えた。


     *


「……」


 暖かい。


 不思議な感覚。


 麗華はゆっくり目を開けた。


「ここは……?」


 真っ白な空間。


 上も。


 下も。


 何もない。


「目が覚めましたか」


 声。


 麗華が振り返る。


 一人の老人。


 白い衣。


 長い白髪。


 柔らかな笑み。


「どなたでしょう?」


「神です」


「……」


 沈黙。


「神?」


「はい」


「……そうですか」


「驚かないのですか?」


「驚いてはいます」


「そうは見えませんが」


「状況を整理しているところです」


 麗華は自分を見る。


 身体。


 傷はない。


「私は……死んだんですよね?」


「はい」


 神が静かに頷く。


「本来」


「あなたはあそこで死ぬ運命ではありませんでした」


「どういうことでしょう?」


「あなたの死には」


 神が少し険しい表情になる。


「この世界の理から外れた力が介入しています」


「……」


「私にも、すべては分かりません」


「神様にも?」


「ええ」


 麗華は少し考える。


「では」


「私はどうなるのでしょう?」


「元の世界へ」


 神が答える。


「そのまま戻すことはできません」


 麗華の表情がわずかに曇る。


「そうですか……」


「ですが」


「別の世界で生きることはできます」


「別の世界?」


「あなた方が言う」


 神が笑う。


「異世界、というものですね」


「……異世界」


「姿も」


「記憶も」


「知識も」


「すべてそのまま」


「今のあなたの姿で、向こうへ送ります」


 麗華は少し考えた。


「拒否することは?」


「できます」


「拒否した場合は?」


「ここで魂として眠ることになります」


「……」


 麗華は目を閉じる。


 まだ。


 知りたいことがある。


 PROJECT:ZERO。


 自分を殺した人物。


 陸。


 家族。


 そして。


 なぜ自分が「鍵」と呼ばれたのか。


 目を開ける。


「分かりました」


「行くのですね?」


「はい」


「まだ」


 麗華は静かに微笑んだ。


「知らないことが多すぎますから」


 神も笑った。


「あなたらしい答えですね」


「ただ」


「はい?」


「一つお願いがあります」


「何でしょう」


「もし可能なら」


 麗華が静かに言う。


「元の世界のことを、忘れたくありません」


「……」


「綾瀬さんたちがどうなったのか」


「家族がどうしているのか」


「できれば」


「知りたいんです」


 神がしばらく麗華を見る。


「分かりました」


「できる限りのことをしてみましょう」


「ありがとうございます」


「では」


 神が手を上げる。


 光。


 麗華の身体を包む。


「希望院麗華」


「次の人生が」


「あなたにとって良きものとなりますように」


 麗華は目を閉じた。


     *


 風。


 草の匂い。


 鳥の声。


「……ん」


 麗華が目を開ける。


 青空。


 広大な草原。


 遠くには巨大な山。


 空には。


 二つの月。


「……」


 麗華はゆっくり起き上がった。


 自分の身体を見る。


 服装も。


 髪も。


 顔も。


 すべて以前のまま。


「本当に……」


 周囲を見る。


「異世界なんですね」


 その時。


 遠くから。


 大きな獣のような鳴き声。


「……」


 麗華がそちらを見る。


「少し」


 困ったように微笑む。


「情報が足りませんね」


 立ち上がる。


 まずは。


 この世界について調べなければならない。


 言語。


 文化。


 地理。


 生物。


 政治。


 法律。


 魔法が存在する可能性もある。


「やることが、たくさんありそうですね」


 歩き始めようとした。


 その時。


「……?」


 目の前。


 空中に。


 突然。


 映像が浮かび上がった。


「これは……?」


 透明な窓のようなもの。


 そこに映っているのは。


 見覚えのある場所。


 希望院邸。


「……え?」


 映像が切り替わる。


 大勢の人。


 黒い服。


 花。


 中央。


 自分の写真。


 麗華の表情が止まる。


「私の……」


 葬儀。


 母親が泣いている。


 父親は俯いている。


 そして。


 少し離れた場所。


 陸。


 ただ一人。


 麗華の写真を見つめていた。


「綾瀬さん……」


 映像の中。


 陸が小さく呟く。


『俺が止めてれば……』


『一人で行かせなければ……』


 麗華が思わず手を伸ばす。


「違います」


 届かない。


「綾瀬さんのせいではありません」


 声も。


 届かない。


 陸は拳を握る。


『絶対に見つける』


『麗華さんを殺した奴を』


『俺が必ず』


 麗華は黙って映像を見る。


 そして。


 映像が消える。


「……」


 草原。


 異世界。


 二つの月。


 麗華はしばらく立ち尽くしていた。


「神様の計らい……でしょうか」


 答える者はいない。


 だが。


 確かなことが一つある。


 自分は異世界にいる。


 それなのに。


 元の世界を見ることができる。


 なぜ?


 偶然?


 神の力?


 それとも――。


「……」


 麗華の脳裏に。


 最後に見た資料が浮かぶ。


《WORLD:01》


《WORLD:02》


《観測成功》


《接続実験》


 そして。


 自分を撃った人物の言葉。


『次の世界へ行ってもらいます』


『そこで、もう一度鍵になってください』


 麗華の表情が変わった。


「……まさか」


 風が吹く。


 長い髪が揺れる。


「私がここにいることまで」


 一瞬。


 黒い円。


 それを貫く白い線。


 あの紋章が脳裏をよぎる。


「偶然ではない……?」


 その時。


 草原の向こう。


 森の中。


 一瞬だけ。


 何かが光った。


 麗華が目を向ける。


「……」


 木の幹。


 そこに刻まれていた。


 黒い円。


 その中心を貫く。


 一本の白い線。


「……!」


 麗華がゆっくり近づく。


 指先で紋章へ触れる。


 見間違いではない。


 現実世界で追っていたものと。


 まったく同じ印。


 麗華は静かに目を細めた。


 そして。


 ほんの少しだけ微笑む。


「なるほど……」


 異世界。


 自分の死。


 PROJECT:ZERO。


 現実世界を見ることができる謎。


 すべては。


 まだ始まったばかり。


「どうやら」


 麗華は紋章を見つめる。


「こちらでも、探偵を続けることになりそうですね」


 希望院麗華。


 国内屈指の財閥令嬢。


 殺人事件の容疑者となり。


 その身の潔白を証明し。


 巨大な陰謀へと足を踏み入れ。


 そして。


 一度、その命を失った少女。


 しかし。


 彼女の物語は。


 死では終わらなかった。


 むしろ――。


 ここからが。


 本当の始まりだった。


――第1話・完

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


第1話、いかがだったでしょうか?


殺人事件の容疑者になってしまった麗華でしたが、持ち前の推理力で見事に事件を解決!


しかし、それで終わりではありませんでした。


謎の組織《PROJECT:ZERO》、そして異世界への転生。


麗華を待ち受ける運命とは、一体……?


第2話からは異世界を舞台に、麗華の新たな物語が始まります!


今後も推理や戦闘だけでなく、様々な人物との出会いや日常など、幅広い展開を描いていく予定です。


少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると、とても励みになります!


次回もよろしくお願いします!

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