44話 天上天下唯我独尊
この世界では、人は誰もが「四文字の真名」を背負って生まれます。
その真名は、名前であり、力であり、生き方そのもの。
臨機応変、猪突猛進、医食同源。
三つの真名を持つ少年少女たちは、食べて、迷って、ぶつかって、時々壊して、時々救いながら旅を続けます。
けれど世界には、四文字では収まらない存在がいる。
四天王と呼ばれる強大な真名。
そして、その奥に立つ八文字の王。
これは、まだ何者でもない旅人たちが、自分の真名の意味を選び直していく物語です。
笑いあり、飯あり、戦いあり。
そして少しだけ、命と心に向き合う四文字たちの放浪記。
どうぞ、腹ぺこ一行の旅にお付き合いください。
黒山が震えていた。
生殺与奪の背後に、巨大な亀と蛇の影が広がっている。
亀の甲羅には、無数の名前。
蛇の体には、無数の黒い線。
生きる者。
死にかけた者。
死んだ者。
休む者。
立たされる者。
そのすべてへ、黒い線が伸びている。
生殺与奪は、静かに手を掲げた。
「生きよ」
倒れていた者たちの胸が、無理やり上下する。
「死ね」
別の者たちの息が、ふっと細くなる。
「痛め」
悲鳴が上がる。
「感じるな」
悲鳴が消える。
それは戦いではなかった。
命の糸を、指先で弄ぶ所作だった。
リンは朱雀の短剣を握りしめる。
これまでより、黒い線がはっきり見えている。
イオの手から流れる温かい光が、命の巡りを照らしているからだ。
どの線が命を縛っているのか。
どの線が痛みを奪っているのか。
どの線が無理やり立たせているのか。
どの線が眠ることを許していないのか。
見える。
けれど、多すぎる。
切っても切っても足りない。
生殺与奪は、黒い法衣を揺らした。
「人は迷う」
その声は、黒山全体から響いているようだった。
「人は恐れる」
亀の影が地面を踏む。
「人は痛みに泣き、別れに叫び、死を嫌い、生を持て余す」
蛇の影が空を這う。
「だから、我が握る」
生殺与奪の指が曲がった。
周囲の者たちが、苦しげに体を折る。
「生かすも殺すも、こちらの匙加減」
イオは前に出た。
その手は、まだ淡く光っている。
薬でもない。
料理でもない。
けれど確かに、命の巡りを戻す温かさ。
「違う」
イオの声は、震えていなかった。
「命は、あなたの匙の上にはない」
生殺与奪の目が、ゆっくり細くなる。
「医食同源。お前は見たはずだ。救えぬ命を。間に合わぬ命を。休ませるしかない命を」
「見た」
「ならば知っているはずだ。命は弱い。管理せねば崩れる」
「弱いからって、握り潰していい理由にはならない」
イオは手を広げた。
温かい光が、近くで倒れていた者の胸へ届く。
無理やり立たされていた男が、ようやく膝をついた。
痛みに顔を歪める。
けれど、呼吸は自分のものだった。
「痛い……」
男が呟く。
イオは頷いた。
「うん。痛いね」
「怖い……」
「うん。怖いね」
「でも……息が……」
「自分でしてる」
男の目に涙が浮かぶ。
イオは生殺与奪を睨んだ。
「この人の息は、この人のものよ」
生殺与奪の法衣が揺れた。
「愚かな」
黒い線が一斉に伸びる。
「ならば、全ての息を止めよう」
空気が重くなった。
周囲の者たちが一斉に喉を押さえる。
シンが叫ぶ。
「やらせるか!」
右腕一本で鉄棒を振るい、黒い影を叩き払う。
左腕はまだ完全ではない。
指は動く。
痛みも戻った。
だが、力はまだ戻りきっていない。
イオが叫ぶ。
「シン、左は使わない!」
「分かってる!」
「本当に!?」
「昨日より分かってる!」
シンは右腕だけで前に出た。
「でも、右は使う!」
鉄棒が黒い影を打ち払う。
リンはその隙に走った。
朱雀の短剣が、喉を縛る線を切る。
一人。
二人。
三人。
息が戻る。
咳き込む声が広がる。
それは苦しそうで、うるさくて、整っていなかった。
だが、生きている音だった。
ムソウが大きく笑う。
「よい音よ!」
刀を振るい、黒い蛇の影を斬り払う。
「泣け! 咳き込め! 叫べ! それが生者の声ぞ!」
一座の拍子木が鳴る。
カン。
カン。
カン。
「息しろ!」
「こっちだ!」
「座っていい!」
「休んでいい!」
声が飛ぶ。
カズキとハヤテは黒い線の隙間を駆ける。
一騎の蹄音が、千の軍勢のように響く。
「ハヤテ、右」
ハヤテが地を蹴る。
カズキの槍が、黒い線を絡め取るように払う。
「リン!」
「ありがとう!」
リンが線を切る。
イオの光が巡らせる。
切っただけでは、命の流れが崩れる。
巡らせるだけでは、命令が残る。
だから、二人で進む。
命令を切る刃。
命を巡らせる手。
生殺与奪の甲羅に、またひびが入った。
ぴしり、と音がした。
生殺与奪の目が険しくなる。
「なぜだ」
低い声だった。
「なぜ、散らばる命を信じる」
イオは答える。
「信じてるんじゃない」
「では何だ」
「見てるの」
イオは一人ずつ見た。
泣く者。
眠る者。
まだ立とうとする者。
死に向かう者。
生にしがみつく者。
「一人ひとり違うから、見るの」
生殺与奪が手を振る。
甲羅に刻まれた無数の名前が、一斉に黒く光る。
「一人ひとりなど、重すぎる」
黒い線がさらに増える。
「命など、数で見ねば支えきれぬ」
「支えきれなくても」
イオの声が、黒い霧を裂いた。
「数にしない!」
その瞬間、イオの背の四文字が強く光った。
医。
食。
同。
源。
温かい光が、黒山の地面へ広がっていく。
それは波のようではなかった。
火のようでもなかった。
食卓から立つ湯気のように、ゆっくりと。
冷えた手に椀を渡すように、確かに。
命の巡りが、黒い線の下から戻っていく。
生殺与奪の甲羅に刻まれた名前が、ひとつ、またひとつと白く光った。
名前。
ただの文字ではない。
誰かが呼んだ名。
誰かが待っていた名。
誰かが泣きながら呼んだ名。
その一つ一つに、温かさが戻る。
生殺与奪が初めて、明らかに顔を歪めた。
「やめよ」
リンは走った。
「あそこだ!」
甲羅の中央。
最も太い黒い線。
黒山そのものに根を張り、無数の命を束ねている線。
生殺与奪の本体。
リンは朱雀の短剣を構える。
だが、生殺与奪の蛇の影が襲いかかる。
「リン!」
シンが飛び込む。
右腕で鉄棒を振るい、蛇の頭を弾く。
衝撃でシンの体が横へ飛ばされる。
「シン!」
イオが叫ぶ。
「平気!」
シンは地面を転がりながらも立ち上がった。
「左は使ってねえ!」
「そういう問題じゃない!」
「でも約束は守った!」
「あとで怒る!」
「今は?」
「あと!」
「分かった!」
ムソウがリンの前へ出る。
「天下無双!」
刀が亀の影を押し返す。
「行け、臨機応変!」
カズキとハヤテが横から駆ける。
「道を開ける」
千陣裂き。
槍の軌跡が幾重にも広がり、黒い線の壁に隙間を作る。
一座の太鼓が鳴る。
ドン。
拍子木が鳴る。
カン。
カン。
カン。
生きている者の音が、黒山の霧を押し返す。
リンは走った。
だが、黒い線は重い。
近づくほど、体が鉛のようになる。
頭の奥に声が響く。
切っていいのか。
誰が生きるかを決めるのか。
誰が死ぬかを決めるのか。
お前もまた、生殺与奪ではないのか。
リンの足が止まりかける。
その背中に、イオの声が届いた。
「リン!」
リンは振り返らない。
「切って!」
「でも」
「一人で決めない!」
イオの声は強かった。
「私が見る! みんなが支える! だから、リンは切って!」
シンも叫ぶ。
「迷うなら迷え!」
リンの目が開く。
「でも止まんな!」
ムソウが笑う。
「迷いもまた、花道の足跡よ!」
カズキが短く言う。
「走れ」
ハヤテが嘶く。
リンは息を吸った。
迷いは消えない。
怖さもある。
間違えるかもしれない。
でも、疑心暗鬼を越えた時に知った。
疑いは、口に出せば道になる。
朱雀を越えた時に知った。
命令ではなく、自分で選ぶことができる。
生殺与奪の黒い線が、目の前にある。
リンは短剣を握り直した。
「僕は、命を決めない」
朱雀の短剣が白く光る。
「命を決める権利を奪っている命令を切る!」
刃が、太い黒い線に触れた。
重い。
黒山全体を斬っているようだった。
リンの腕が震える。
指先が冷える。
生殺与奪の声が響く。
「切れぬ」
黒い線が、リンの腕に絡みつく。
「命は重い」
「重いよ!」
リンは叫んだ。
「だから、お前一人で握るな!」
イオの温かい光が、リンの背中へ届いた。
腕の冷えが少しだけ和らぐ。
生殺与奪の甲羅に刻まれた名前が、一斉に白く光る。
リンは刃を押し込んだ。
「イオ!」
「うん!」
イオが両手を前へ伸ばす。
温かい光が、黒い線へ流れ込む。
命令を切るのではない。
線に絡め取られていた命の巡りを、外へ逃がす。
黒い線が内側から膨らむ。
生殺与奪の顔が歪む。
「やめよ!」
「やめない!」
イオの声が響く。
「命は、あなたの持ち物じゃない!」
リンの短剣が、さらに深く入る。
シンが黒い影を受け止める。
「おらあああ!」
右腕一本で、蛇の影を押し返す。
左手の指が、かすかに鉄棒へ添えられた。
イオが見て、目を見開く。
「シン!」
「添えただけ!」
「あとで見る!」
「おう!」
ムソウが亀の影の足元を斬る。
「天下無双! 命の花道、ここにあり!」
カズキとハヤテが最後の退路を切る。
「一騎当千」
蹄音が千へ広がる。
一座の太鼓が鳴り響く。
生きている者たちの声が重なる。
「休んでいい!」
「痛いって言っていい!」
「怖いって言っていい!」
「生きていい!」
「眠っていい!」
その声が、黒い線を揺らした。
生殺与奪が叫ぶ。
「命は自由にすれば散る!」
甲羅のひびが広がる。
「また苦しむ!」
さらにひびが走る。
「また迷う!」
蛇の影が暴れる。
「また失う!」
イオは涙を浮かべながら、それでも前を向いた。
「よいなんて言わない!」
声が震える。
でも折れない。
「苦しいし、怖いし、失うのは嫌!」
温かい光が強くなる。
「でも、それでも命は、誰かに握られるものじゃない!」
リンが叫ぶ。
「臨機応変!」
短剣が白く輝く。
「道を変えても、選ぶのは僕たちだ!」
イオが叫ぶ。
「医食同源!」
両手の光が、生殺与奪の甲羅を包む。
「命は、巡る!」
リンとイオが同時に踏み込んだ。
朱雀の短剣が、太い黒い線を断つ。
イオの温かい光が、線に縛られていた命を巡らせる。
黒い線が裂けた。
黒山全体に、乾いた音が響いた。
生殺与奪の甲羅が割れる。
刻まれていた無数の名前が、黒から白へ変わっていく。
一つ。
また一つ。
名前が光になる。
空へ昇るもの。
体へ戻るもの。
眠りへ落ちるもの。
それぞれが、それぞれの場所へ向かっていく。
生殺与奪は膝をついた。
亀の影が崩れる。
蛇の影がほどける。
黒い法衣が、ぼろぼろと土へ還っていく。
「生かすも……殺すも……」
生殺与奪は、なおも言おうとした。
「こちらの……」
「違う」
イオが遮った。
静かな声だった。
「命は、あなたの匙の上にはない」
生殺与奪の目が、イオを見る。
その目に怒りはなかった。
ただ、深い疲れのようなものがあった。
「ならば」
彼はかすれた声で言った。
「誰が、背負う」
イオは答えた。
「一人で背負わない」
リンが隣に立つ。
シンも。
ムソウも。
カズキも。
一座も。
生き残った者たちも、座ったまま顔を上げていた。
「みんなで、少しずつ」
生殺与奪は、微かに笑ったように見えた。
「重いぞ」
「知ってる」
イオは言った。
「でも、あなた一人に預けるよりずっといい」
生殺与奪の背の四文字がほどけていく。
生。
殺。
与。
奪。
一文字ずつ、黒い光から白い光へ。
そして最後に、生殺与奪は空を見上げた。
「八文字の王よ」
その言葉に、リンの肩が震えた。
生殺与奪は、誰かに語りかけるように続けた。
「あなたは、まだ……」
黒い霧が薄れていく。
「この世に、飽いておられるのですか」
その言葉を最後に、生殺与奪は白い光となって消えた。
一座の拍子木が、静かに鳴った。
カン。
見送りの音だった。
黒山を覆っていた霧が、少しずつ晴れていく。
空が見えた。
久しぶりの青だった。
誰もすぐには動けなかった。
リンは膝をつく。
朱雀の短剣を握る手が震えている。
イオもその場に座り込みそうになり、シンが右腕で支えた。
「大丈夫か」
「それ、私の台詞」
「俺は大丈夫」
「左腕」
「痛い」
「よかった」
「まだ難しいな」
シンが笑う。
イオも少しだけ笑った。
だが、笑ったまま立っていられる者はいなかった。
シンの左腕は戻りかけているとはいえ、まだ布で吊ったまま。
イオは覚醒した力を使いすぎて、顔色が悪い。
リンの手は冷たく、短剣を持つ指が震えている。
カズキとハヤテも息が荒い。
ムソウでさえ、肩で息をしていた。
一座の者たちも、倒れた者たちの手当てに走り回り、足元がおぼつかない。
四天王最後の一角を越えた。
けれど、一行はもう、立っているだけで精一杯だった。
ムソウが深く息を吐く。
「見事な幕引きであった」
カズキはハヤテの首を撫でる。
「終わったか」
ハヤテが鼻を鳴らした。
カズキは少しだけ目を細める。
「……いや」
その時だった。
どこからか、行灯の灯りが見えた。
昼だった。
黒山の霧が晴れ、空に青が戻ったばかりの昼。
それなのに、行灯の灯りが揺れていた。
ゆらり。
ゆらり。
リンは息を呑んだ。
「どんちゃん……?」
黒山の道の向こうから、ひょこひょこと一人の旅人が歩いてくる。
くたびれた旅装。
手には行灯。
いつもの、のんびりした顔。
昼行灯のどんちゃん。
「いやあ」
どんちゃんは、いつもの調子で笑った。
「間に合ったような、終わったような」
シンが目を丸くする。
「どんちゃん!」
そしてすぐ眉を吊り上げた。
「また飯時か!」
どんちゃんは腹をさすった。
「少し期待していたんだけどねえ」
イオが疲れ切った声で言う。
「今回は作る余裕ないわよ」
「そうかい。残念だねえ」
いつもの会話。
いつもの空気。
けれど、誰も完全には笑えなかった。
生殺与奪の最後の言葉が、残っている。
八文字の王。
この世に飽いた者。
リンはどんちゃんを見る。
「どんちゃん」
「何だい、リンくん」
「今、生殺与奪が言ってた」
どんちゃんは、にこにこしている。
でも、目が笑っていなかった。
「八文字の王って」
風が止まった。
ムソウの顔から笑みが消える。
カズキがハヤテの手綱を握り直す。
ハヤテが低く鼻を鳴らした。
イオがシンの腕を支えながら立ち上がる。
「どんちゃん」
イオの声は静かだった。
「あなた、何者なの?」
どんちゃんは行灯を軽く揺らした。
中の灯りが、昼なのに妙にはっきり見える。
「何者、か」
どんちゃんは空を見上げた。
「難しいねえ」
「昼行灯じゃねえのかよ」
シンが言う。
どんちゃんは微笑む。
「そう名乗っていたね」
「名乗っていた?」
リンの胸が冷える。
どんちゃんの背後で、空気が揺れた。
最初に浮かんだのは、三文字。
昼行灯。
何度も見た文字。
けれど、それはゆっくりと薄れていく。
まるで、上に被せていた紙が剥がれるように。
その奥から、別の文字が現れた。
一文字。
二文字。
三文字。
四文字。
まだ終わらない。
五文字。
六文字。
七文字。
八文字。
空が、割れたように見えた。
どんちゃんの背に、八つの文字が浮かぶ。
天上天下唯我独尊。
その瞬間、黒山に残っていた霧が一斉に消えた。
音もなく。
ただ、世界が一歩退いたような感覚があった。
ムソウが低く呟く。
「四文字ではない」
カズキが続ける。
「八文字」
イオは息を呑む。
「天上天下唯我独尊……」
シンは鉄棒を握りしめた。
「おい、どんちゃん」
声が震えている。
怒りか。
戸惑いか。
分からない。
「何だよ、それ」
どんちゃんは、困ったように笑った。
「ああ」
その笑い方は、いつもより少しだけ冷たかった。
「ばれてしまったねえ」
リンは短剣を握った。
手が震える。
どんちゃんは敵なのか。
旅の仲間ではなかったのか。
何度も一緒に飯を食べた。
何度も妙なことを言った。
何度も、危ない場所で現れては消えた。
朱雀は彼を見て、震えた。
生殺与奪は彼へ語りかけた。
すべて、繋がっていたのか。
どんちゃんは行灯を下ろした。
その瞬間、空気が変わった。
腹を空かせた旅人の気配が、消える。
目の前に立っているのは、もう昼行灯ではなかった。
天上天下唯我独尊。
この世界でただ一人、八文字を背負う者。
「四天王は倒れた」
どんちゃんの声は静かだった。
「弱肉強食、絶対服従、疑心暗鬼、生殺与奪」
白虎の爪。
朱雀の羽根。
青龍の霧。
玄武の黒山。
これまで越えてきた戦いが、リンの脳裏に浮かぶ。
「君たちは、よく越えた」
どんちゃんは微笑む。
「ならば次は、僕だ」
シンが一歩前に出ようとした。
だが、足がふらついた。
「っ……!」
イオがすぐ支える。
「無理しないで!」
「平気だ!」
「平気じゃない!」
シンは歯を食いしばる。
「どんちゃんが……」
どんちゃんは、そんなシンを見ても表情を変えない。
「今の君たちでは、僕には届かない」
シンの目が吊り上がる。
「なめてんのか!」
「事実だよ」
どんちゃんは静かに答えた。
その声には、いつもの柔らかさが残っている。
けれど、温度はなかった。
「君たちは疲れている。傷ついている。腹も減っている」
「だから何だよ!」
「だから、今は見逃してあげる」
その言葉に、シンが鉄棒を握りしめた。
「てめえ……!」
リンも立ち上がろうとする。
だが膝が笑う。
朱雀の短剣を握る手にも、もう力が入りきらない。
イオはシンを支えるだけで精一杯だった。
どんちゃんは行灯を掲げた。
「この世は、もう十分に見た」
空が暗くなる。
いや、太陽は出ている。
だが、どんちゃんの八文字が空を覆うように広がり、昼の光を押し退けていた。
「力も、命令も、疑いも、命も」
どんちゃんは淡々と言う。
「どれも、僕を満たさなかった」
リンは息を呑む。
「満たす……?」
「ひとりで眺める世界にも、飽きた」
どんちゃんの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「だから、終わらせよう」
行灯の火が揺れた。
その火は、今までのような温かい灯りではなかった。
世界の灯を消すための火に見えた。
「天も、地も、人も、真名も」
八文字が強く光る。
「すべての灯を、僕が消す」
イオの顔が青ざめる。
「本気で言ってるの?」
「本気でなければ、つまらないだろう?」
どんちゃんは笑った。
それは、どんちゃんの顔をした別人の笑みだった。
シンが叫ぶ。
「ふざけんな!」
「ふざけてはいないよ」
「一緒に飯食っただろ!」
「食べたね」
「笑っただろ!」
「笑ったね」
「じゃあ何で!」
どんちゃんは少しだけ黙った。
そして、軽く首を傾げた。
「美味しかったからといって、世界を残す理由にはならない」
シンの顔が歪んだ。
イオが唇を噛む。
リンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その言葉が本音なのか。
嘘なのか。
分からない。
でも、今のどんちゃんは、確かに世界を終わらせる者としてそこに立っていた。
「止めたければ来るといい」
どんちゃんは遠くを見た。
黒山の向こう。
雲のさらに上。
青い空の奥に、一本の高い山が見えた。
山頂は白く、雲海を突き抜けている。
富士にも似た、けれどこの世のどの山とも違う霊峰。
その頂に、小さく何かが建っていた。
城のようでもあり。
楼閣のようでもあり。
社のようでもある。
天に最も近い場所に、ぽつんと立つ建物。
どんちゃんは言った。
「天上閣」
その名を口にした瞬間、遠い山頂の建物に灯りがともった。
昼なのに、行灯のような灯りが。
「天に最も近く」
どんちゃんの声が響く。
「地から最も遠い場所」
空の八文字が、その山頂へ道を示すように伸びていく。
「そこで、君たちの四文字が、僕の八文字に届くか見せておくれ」
リンは遠い山を見つめた。
「天上閣……」
どんちゃんは行灯を揺らす。
「僕はあそこで待つ」
その声は、魔王が勇者を城へ誘うようだった。
「そこから、この世界の灯をひとつずつ消していこう」
イオが拳を握る。
「させない」
「なら、登っておいで」
どんちゃんは淡く笑う。
「休んで、食べて、眠って、傷を癒して」
シンが歯を食いしばる。
「敵にそんなこと言われる筋合いねえ!」
「そうだねえ」
どんちゃんは、ほんの少しだけいつもの口調に戻った。
「でも、腹ぺこでは勝てないよ」
その言葉に、イオの目が揺れる。
いつものどんちゃんだった。
ほんの一瞬だけ。
すぐに、八文字の王の顔に戻る。
「最後の旅の前に、ちゃんと腹を満たしておいで」
リンは短剣を握りしめる。
「どんちゃん」
「何だい」
「僕たちは、君のために旅をしてきたわけじゃない」
「知っているよ」
「君を楽しませるために、戦ってきたわけじゃない」
「知っている」
「みんな、苦しんだ」
「そうだね」
「死んだ人もいる」
「そうだね」
「そうだね、じゃない!」
リンの声が震えた。
「分かってるなら、どうして!」
どんちゃんは答えなかった。
ただ、行灯の火を見つめた。
「リンくん」
しばらくして、どんちゃんは言った。
「天上天下唯我独尊とは、どういう真名だと思う?」
リンは答えられない。
どんちゃんは自分の背の八文字を見上げるようにした。
「誰にも並ばれず」
一文字ずつ、空に浮かぶ。
「誰にも命じられず」
八文字が重くなる。
「誰にも疑われず」
風が止まる。
「誰にも生かされず、殺されず」
どんちゃんの目が、リンたちを映した。
「ただ一人、上に在る」
ムソウが低く呟く。
「それが、天上天下唯我独尊……」
「そう」
どんちゃんは笑う。
「世界で一番、退屈な真名だ」
その言葉だけは、なぜか冷たくなかった。
ほんの少しだけ、寂しかった。
リンはその違和感を掴みかける。
だが、どんちゃんはすぐに背を向けた。
「もう行くよ」
シンが叫ぶ。
「逃げるのか!」
「待つんだよ」
どんちゃんは振り返らない。
「僕の城で」
天上閣の灯りが、もう一度揺れる。
その時、どんちゃんの背の八文字の中で、一文字だけが強く光った。
独。
たった一文字。
けれど、その光は、八文字の中でいちばん冷たく、いちばん寂しく見えた。
リンは思わず息を呑む。
「独……」
どんちゃんは振り返らない。
その背中は、誰よりも高い場所へ向かう者の背中だった。
そして、誰とも並べない者の背中だった。
「止めたければ、天上閣へ来るといい」
どんちゃんの体が、行灯の灯りに溶け始める。
「君たちの四文字で」
八文字が空を覆う。
「僕の八文字を越えてみせておくれ」
最後に、独の一文字だけが残った。
ひとり。
ただ、ひとり。
その文字も、やがて消えた。
風が吹いた。
黒山の霧は晴れた。
だが、世界の上に、もっと大きな影が落ちた。
四天王の戦いは終わった。
けれど旅は、まだ終わらない。
腹ぺこ一行の前に立ったのは、かつて共に食卓を囲んだ旅人。
そして、この世界でただ一人の八文字。
天上天下唯我独尊。
どんちゃん。
その者は、天に最も近い楼閣で待っている。
世界の灯を消すために。
誰も並ばない場所で。
たった一人で。
リンは遠い天上閣を見つめた。
朱雀の短剣を握る手は、まだ震えている。
イオはシンの左腕を支えたまま、静かに息を吐いた。
「まずは」
イオが言った。
「休む」
シンが小さく笑う。
「飯は?」
「作る」
「食えるのか?」
「食べるの」
イオは遠い天上閣を見上げる。
「最後の旅の前に、ちゃんと」
リンは頷いた。
「うん」
ムソウが刀を収める。
「ならば、ここからは休息の幕よ」
カズキがハヤテの首を撫でた。
「ハヤテも休ませる」
一座の誰かが、静かに拍子木を鳴らした。
カン。
見送りではない。
終わりでもない。
次の幕へ進むための音だった。
黒山を降りる道が、目の前に伸びていた。
その先に、休息がある。
そしてさらにその先に、天上閣がある。
天上天下唯我独尊。
どんちゃん。
世界を終わらせると言った王が、待っている。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、「四文字の真名」を持つ者たちが、自分の名前に縛られながらも、その意味を少しずつ選び直していく旅です。
臨機応変は、流されるための力ではなく、自分で選んだ道を変え続ける力へ。
猪突猛進は、ただ突っ込むだけではなく、止まり、退き、それでも進む力へ。
医食同源は、すべてを救えるわけではないと知りながら、それでも目の前の命に手を伸ばす力へ。
旅の中で三人は、多くの真名と出会い、戦い、食卓を囲み、迷いながら進んでいきます。
笑える場面も、苦しい場面もありますが、最後には少しでも温かいものが残る物語にしていきたいと思っています。
引き続き、腹ぺこ一行の旅にお付き合いいただけたら嬉しいです。




