表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
探偵は胸を揉む  作者: リチャード裕輝
探偵は胸を揉む:『霊感(パイ)コメトリー・オブ・ザ・デッド』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/125

第8話:違和感の所在、あるいは日常に潜む論理の穴

第8話:違和感の所在、あるいは日常に潜む論理の穴


朝の探偵事務所。立ち込める珈琲の香りを切り裂いたのは、サヤカの低く、湿り気を帯びた吐息だった。


「……消えましたわ」


洗濯カゴをじっと見つめる彼女の瞳は、絶対零度の輝きを放っている。久我は広げていた新聞を震わせながら、努めて冷静な声で尋ねた。


「何がです? 私の貸した推理小説なら、あそこの棚に――」


「ブラが。一枚。お気に入りの、肌に溶け込むような透ける極薄レースのやつが、跡形もなく」


サヤカの深刻な様子に、ユウキが真っ直ぐな視線を向けて口を開いた。


「……跡形もなく、ですか。あるいは霊の仕業という線はありませんか?」


サヤカは目を閉じ、事務所の空気を静かに探って首を振る。


「いいえ。霊障特有の澱みも気配も感じませんわ。これは明らかに、意思を持った者による人為的な物です。……久我様、何かお知りになって?」


サヤカの冷徹な視線が久我を射抜く。


「ま、待て」久我は新聞を盾にするように言った。「俺は潔白だ。サヤカさんのブラには一切触れていないし、管理もしてない。そもそも、サヤカさんの“は”だな!」


「……『は』?」ユウキがその一言を聞き逃さなかった。「久我さん、今、サヤカさんの『は』って言いましたよね。他人のなら知ってるみたいな言い草だ。あまりに墓穴を掘りすぎている」


「ち、違う! 誤解を未然に防いでいるだけだ!」


「怪しい……。久我さん、右手の指が、獲物の柔らかさを探るようにピクピク動いてますよ。まるで指先が『感触』を記憶しているかのように」


「ええい、疑うなら勝手にしろ! 疑うなら、俺のサイコメトリーの能力でサヤカさんの肌に残った『消失の記憶』を読み取ってやる!」


久我が、本能を剥き出しにした獣の手つきでサヤカの胸元へと右手を突き出した。 「サヤカさん、その聖域に秘めた真実を俺の指先が暴――」


――ドゴォッ!!


「あべしっ……!!」


サヤカの電光石火の裏拳が、久我の鼻梁を直撃した。久我は壁まで吹き飛び、鼻血を垂らしながらズルズルと崩れ落ちる。


「……汚らわしい。女性限定のその能力、今日はその指ごと封印しておいてください」


窓の外の「異形」――沈黙のプロファイリング


「ぐ、ぐぅ……。だ、だが、話を逸らすわけじゃないが、実は朝からずっと気になっていたことがある。あれを見ろ」


久我が這いつくばりながら、震える指で窓の外、向かいのビルを指差した。その声は、一転して真実を追う探偵の重厚なトーンへと変わる。


「あのおっさんだ。見てみろ。昨日までは完全に猫背だったはずだ。過酷な労働で脊椎が湾曲していた男が……どうだ、今日はやけに姿勢が良くないか? まるで、目に見えない強固な芯が、彼の体幹を垂直に矯正しているようだ」


「……確かに」ユウキが窓に寄り、眼鏡のブリッジを押し上げた。


「あの作業着の隆起、不自然ですね。あの方は太っているから、胸が出てるのはそうですが、その胸のラインがやけに綺麗だ。広背筋や大胸筋の盛り上がり方じゃない。重力に抗って、左右から中央へ、そして上部へと脂肪を集約させた、女性特有の曲線アーチが出ている……! 男性ではこんなラインは絶対に出ない!」


「そうだ」久我が重々しく頷く。


「顔を見なければ、妙に完成されたラインだ」

久我は目を細めた。


「男の肉付きじゃない。形を“作られている”立ち姿だ。あれは……実際に装着したことがある人間にしか分からない違和感だ」

「……」 ユウキが一瞬だけ、視線を細めた。


「“装着したことがある人間”、ですか。ずいぶん限定的な表現ですね」


「言葉の綾だ」久我は即答した。「経験則というやつだ」


「へえ」 ユウキの冷ややかな相槌が、事務所の空気を凍らせる。


数分後。事務所に連行されたおっさんは、異常なまでに焦り、胸元を隠すように腕を組んだ。


「な、なんだよ急に! 俺は仕事中だぞ!」


「いいから、その服の下を見せろ」久我が鋭く迫る。


おっさんは顔を真っ赤にして激しく抵抗した。

「ふざけるな! 俺がブラなんてするわけないだろう!? そんなの変態じゃないか! 俺は普通の、硬派な男だぞ!」


しかし、揉み合いの末に、おっさんの作業着のボタンが「弾丸」のように弾け飛んだ。


「あっ……」


そこには、筋骨逞しい体に不釣り合いな、使い古されたベージュのブラが鎮座していた。


「や、やめてくれい! 恥ずかしい……!」おっさんは観念したように、ブラのレースを愛おしそうになぞりながら言った。


「……これは、この間、死んだばあちゃんの形見なんだ。こうして肌を締め付けていると、安心感がたまらねぇんだよぉ……」


「……なるほど」

サヤカはその光景を一瞥し、冷ややかに言い放った。


「あんな生活感の塊のようなベージュ、私のではありません。私のはもっと……肌に溶け込むような、危険なほど薄いレースです」


崩壊する理路――ユウキの告発


「解決、ですね」

……のはずだった。だが、ユウキの冷徹な目は逃がさない。


「……ところで、久我さん。あなたも、さっきから姿勢が良いですよね」


「!?」


久我の肩が、目に見えてビクリと跳ねた。


「久我さん。あなた、以前はもう少し猫背気味でしたよね。それが今はどうです。あのおじさんと同じように、やけに姿勢が良くなって、胸の位置もやけに安定している」


「よ、よせ、ユウキくん! やめろ! 妄想が過ぎるぞ!」


「ギクッとしましたね今。久我さん、そのジャケットの下……『何か』で姿勢を矯正していませんか? 霊の仕業を疑う前に、まず身近な『着用者』を疑うべきでした」


「久我さん?」

サヤカの瞳に、再び絶対零度の冷気が宿る。


「嫌だ! 来るな! これは俺の尊厳だ!!」


ユウキが強引に迫り、バッと久我が自ら上着をはだけた。そこには、肉体を締め上げる白いスポーツブラ。


「…………」

ユウキが静かに言った。

「……まだ、つけてたんですね。あのブラ幻想決戦のやつを。愛用までして」


「うるさい!! 研究だ! 姿勢改善と精神安定のための……『心の防弾チョッキ』なんだよ!!」


「最低ですわ」


忘却の果て、暴かれる真実


サヤカの氷点下の言葉が久我を貫いた、その瞬間。


「あ……」サヤカが、小さく声を漏らした。「私も、でした」


「……は?」


「洗濯物から消えたと思っていたのは、あまりに馴染みすぎていたから。私、今朝からずっと……着けたまま、それを探していました」


サヤカは、自身の柔らかな膨らみをなぞるように視線を落とす。そして、ブラウスの胸元のボタンを一つ、ゆっくりと外した。その隙間から、肌に溶け込むような薄いレースが、僅かに覗く。


「……でも、不思議。今、皆様に指摘されて意識したら、急に……ここが、熱くなってきて……」


サヤカは首を傾げ、ブラのストラップを指で弾き、パチン、と扇情的な音を響かせた。 「そんなに、私の“中身”が気になりますか?」


――ブシュッ!!


「ぶはっ!!」


「ぐっ……!」


久我とユウキ、同時に噴水のような鼻血を噴き出し、崩れ落ちる。


「いや……その……」

久我はティッシュで鼻を塞ぎながら、地獄のような妄想に囚われていた。


(じゃあ……さっきまで『無い』と言い張っていたあの瞬間の彼女は……俺たちの前で、ずっと“何も着けていない”つもりでいたのか……?)


その無防備な精神状態と、現実の肉体のアンバランス。


「ふふ、事件、解決ですね……」サヤカは優雅に珈琲を啜ろうとした――が、再びその動きが止まった。 彼女の顔から、さっきまでの余裕がスッと消え失せる。



「……あら?」

サヤカは一瞬、言葉を失い、眉根にごく僅かな皺を寄せた。


「……何か、足りない気がしますわね」


「ど、どうしたんですか、サヤカさん……」


サヤカは今度は、スカートの裾を少しだけ持ち上げ、自らの腰回りを怪訝そうになぞった。


「……今度は、私のTバッグが消えていますわ。……いえ、違いますわね。霊障でも略奪でもありませんでしたわ」


サヤカは、ひんやりとした虚空を掴むように、自分のヒップを両手で確かめた。


「穿き忘れていました。……今日、私、下はノーパンですわ」


「ブッ……!!!!(爆辞)」


久我とユウキの意識は、今度こそ深淵へと吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ