第23話:深淵なる胎動(最終話)
第23話:深淵なる胎動
事件解決から数週間後。久我とユウキは、厳かな空気が漂う警察署長室へと招かれた。 そこには、まだ顔色の優れないまま正装に身を包んだ黒岩と高木の姿もあった。窓から差し込む午後の光は、廃倉庫の血生臭い闇とは対照的に、残酷なほどに明るい。
署長は重厚な感謝状を手に、二人の前で深々と頭を下げた。
「犯人確保に至らなかったという未完の事実は残る。だが、君たちの貢献は警察の任務遂行において不可欠なものであった。特に、相田刑事の不祥事を最小限に留め、冤罪という名の組織の崩壊を防いでくれた功績は計り知れない」
久我が無機質な手つきで感謝状を受け取った直後、先に表彰を終えていた黒岩と高木が歩み寄った。
黒岩は、かつての敵意を完全に捨て去り、深く頭を下げた。 「久我さん、ユウキさん。……本当にありがとうございました。あの時のあなた方の働きがなければ、藤本は今ごろ殺人犯として地獄に落ちていた。助けていただいた命、感謝の言葉もありません」
続いて高木が久我の前に立った。彼女は視線を泳がせ、真っ赤に腫れ上がった記憶の残る自らの胸元を無意識に押さえるようにして、消え入りそうな声を出した。 「あ、あの……久我さん。あの時は、助けていただいて……本当に、ありがとうございます。あのおかげで、私……意識を繋ぎ止めることができましたから……」
久我は高木の頬の紅潮と、その震える声の裏側に渦巻く情動を読み取り、一瞬、全身を硬直させた。 彼にとって「美しき異性」は、もはや己の精神を破壊する「猛毒」以外の何物でもなかった。だが、今の高木から放たれる波長は、純粋な感謝だけではない。あの冒涜的なサイコメトリーの瞬間、命を搾り取られる苦痛の中で芽生えた、「探偵への歪んだ畏怖と恋慕」が不気味に混ざり合っていた。
それは救いではなく、久我の魂をさらに侵食する、新たな毒の萌芽だった。
黒岩は久我の瞳を射抜くように見つめ、力を込めて告げた。 「相田はまだ入院中だが、奴をこのまま野放しにはさせない。警察は総力を挙げて伊織を追う。次こそは必ず仕留める。……その時は、またあなた方の『力』が必要だ」
久我は彼らの情動を飲み込み、重く沈黙した。探偵業は廃業したはずだった。しかし、自らが解き放ったカゲという怪物を追う「償いの戦争」は、もはや彼の人生そのものを呪いとして塗り潰し、逃げ場のない終焉へと引きずり込んでいく。
終章:深淵の受胎と、未完の傑作
その頃、カゲは世間の喧騒から遠く離れた、静寂の闇に潜んでいた。 鏡の前に立つ彼女は、自らの身体に宿った「藤本の子」の存在を確信していた。彼女にとって、その胎内の鼓動は「愛」などという生易しいものではない。それは、久我の絶望を永遠に完成させるための、新たな作品の鼓動だった。
カゲの情動が、かつて久我が覗き込んだ深淵を通じて、遠く離れた山荘の意識へ届くように響く。
『久我センセッ……。あなたの情動と、私の狂気が交わって生まれた、最高の「作品」がここにあるわ。藤本の情動を継ぐこの子は、次にあなたが読み取るべき、剥き出しの真実。次はね、あなた自身の「愛」を、この子に読み取らせてあげる。その時まで、ずっと待っていてね……。もう、絶対に逃げられないわ』
永遠の償い:残響のミステリー
久我の山荘。ユウキは、テーブルに置かれたままの美沙のペンダントを静かに拾い上げ、その手に強く握りしめた。 ペンダント越しに伝わってくるのは、カゲの嘲笑のような残響と、美沙が遺した悲痛なまでの献身。ユウキはその二つの相反する情動を久我の意識に投げつけるように、静かに言葉を吐き出した。
「久我さん、このペンダントに触れてみてください。あなたが解放した怪物は、犠牲者の血脈さえも、自らの支配下に永遠に繋ぎ止めたのです。これは救いのない、神話的な罪の重圧……。あなたと私の、逃れられない永遠の償いの旅が始まったのですよ」
久我は窓の外、深く暗い森を見つめたまま、動かなかった。 ペンダントから放たれる情動の重圧に耐えるように、深く、深く目を閉じる。
藤本の容疑は晴れ、冤罪は防がれた。だが、真犯人は野に放たれ、その胎内には新たな絶望が宿った。久我の背負う罪は、殺人犯を陥れた小さな悪から、「怪物の血脈を肯定してしまった」という根源的な断罪へと昇華したのだ。
二人の男が歩む道に、光はもう差さない。 久我奏太の呪われた探偵行は、救いのない闇の中で、終わりのない償いへと続いていく。
(物語、完)




