第8話:怨嗟の残滓と「カゲ」の密約
第8話:怨嗟の残滓と「カゲ」の密約
証拠1: 憎悪の発掘:山梨の河川敷、柳の木の冷たい影
まず捜査班が向かったのは、美沙と伊織の実家から車で数十分の距離にある、富士川水系の河川敷だった。ここは藤本と美沙が交際中によくデートに使っていた場所で、背後には山脈が控え、広大な砂利と土の広がりが、捜索の困難さを物語っている。
黒岩刑事は懐疑的だった。「こんな広大な場所で、10年前の凶器など見つかるわけがない。しかも実家から近いとはいえ、ここを選んだ理由が不明確だ。久我先生、当てずっぽうでは困りますよ」
久我は、伊織を自分のすぐ隣に立たせた。伊織は、目を閉じ、先ほどの久我の接触で「上書きされた」記憶を呼び覚ますかのように、悲痛な顔で周囲を見渡した。
「ここよ、久我先生。私、思い出したの。あの日、藤本さんはこの辺りで、何かを……血のついた何かを隠していた情動を感じる。山からの風が冷たかった……」
伊織の言葉は、久我の脳裏に先ほどのサイコメトリーで見た、藤本がナイフを埋めた瞬間のヴィジョンと完全に一致した。
「あそこだ! あの岸辺の柳の木の根元にある岩陰だ! 確かにこの場所だ!」 久我は、他の場所には目もくれず、伊織の情動が指し示す一点を確信を持って指差した。
相田がスコップで岩陰の土を掘り起こす。深さ約30センチの場所から、黒ずんだ柄の短いサバイバルナイフが発見された。刃先には、酸化した血液の痕跡が微かに残っている。
現場は騒然となった。久我は、伊織の情動と、自身の能力による「裏付け」に完全に支配されていた。「藤本は美沙さんを殺害した後、このナイフを凶器として隠したのです。このナイフには、美沙さんの最期の恐怖と、藤本の歪んだ達成感の情動が、鮮烈に残っている!」
「すごい、すごすぎる!」相田は興奮でスコップを放り投げた。「久我先生、本当に見つけちゃった! まさに予言者じゃないですか!」
黒岩は発見されたナイフを掴み、伊織に鋭い視線を向けた。「伊織さん。本当に、藤本はあなたを連れて、この場所にナイフを隠したと? 美沙さんが殺された、その直後に?」
伊織は涙を流しながら頷いた。「はい……。私、藤本さんに利用された。だから、その情動の記憶が、私の中に残っているんです」
黒岩は、相田の熱狂とは裏腹に、発見されたナイフを凝視していた。その顔には、まだ久我の能力を認めようとしない、根強い懐疑心が張り付いていた。「……偶然だ。こんな広大な場所で、何の根拠もなく、一点を指し示すなど……偶然だ!」黒岩は低く唸った。その声には、理性の防波堤が崩れることへの恐怖が滲んでいた。
証拠2:狂気の証明:山梨郊外、葡萄畑の廃アトリエ
次なる標的は、美沙の実家からさほど離れていない、山梨郊外の、かつて葡萄畑に囲まれていたという廃墟のアトリエだった。都心から外れ、人目に触れない環境が、藤本の狂気の巣窟として選ばれた理由を物語る。アトリエの内部は、埃とカビの臭気に、奇妙な「絶望」と「狂気」の情動が混ざり合って充満していた。この情動は、久我の「呪い」を激しく刺激し、彼は興奮と吐き気を同時に覚えた。
アトリエの中央には、埃を被った巨大なキャンバスが置かれていた。藤本は画家を目指していたという。久我たちがそれを覆う布を剥がすと、そこに描かれていたのは、一人の女性の裸婦の油絵だった。
「これは……美沙さんだろうか」黒岩刑事が息をのむ。
絵の中の女性は、確かに美沙に似ていた。特に、豊満で美しい胸(巨乳)が強調されており、首元にはあのペンダントが輝いている。しかし、女性の表情は恍惚と苦痛の中間にあるような、異様なものだった。
久我は、その裸婦画を見つめながら、藤本の残滓情動を読み取ろうと身を乗り出した。「この絵から、藤本の強い執着が読み取れる。彼は、この美しい胸を完全に自分のものにしたかった……という情動が鮮烈だ!」
周囲の刑事たちは、久我の生々しい発言に「え!?」と動揺する。
すかさず、ユウキが冷笑で場を断ち切った。「久我さん、巨乳探偵ですものね(笑)。美沙さんの巨乳触りたかったですよね」
久我は激昂し、顔を真っ赤にして叫んだ。「違う! 私は能力者だ! もし、この絵に描かれた胸に、私が直接触れることができていれば、美沙さんの最期の情動を読み取り、事件はすぐに解決できたという意味だ!」
誰もが久我の興奮に辟易とする中、相田が口元で小さく呟いた。
相田:「 ......いや、僕は、伊織さんくらいの大きさの方が好きですけどね。うん、純粋に」
伊織は、その相田の呟きを聞き逃さなかった。彼女はユウキや久我から目線を外し、相田だけに聞こえるよう、囁くような声で言った。その声は、甘く、そしてどこか危険な響きを帯びていた。
伊織: 「ありがとう。相田さんになら、良いですよ......いつでも。触ってみますか?」
その挑発と好意の混ざった言葉に、相田は顔を赤くして「えっ?」と声を出しかけたが、伊織はすぐに表情をユウキの方に戻し、何事もなかったかのように微笑んだため、他の誰もその会話を聞いていなかった。久我の言い訳と伊織の艶めかしい言葉を聞きながら、すかさず、ユウキが口を開いた。彼の瞳には冷たい知性が宿っている。
ユウキ: 「久我先生の考察は、情動の面では正しいのでしょうが、美術心理学的に見ると少々粗雑ですね。僕は一応最高学府と呼ばれてる大学で、今、心理学を専攻しています。断言できます。この裸婦画の女性の表情は、『受動的な服従』と『自己犠牲的な悦び』の中間です。そして、異常に強調された胸部と、その首元に輝くペンダントは、『マドンナ・コンプレックス(聖母崇拝)』と、『所有の証』を表している。藤本容疑者は、美沙さんを理想の『聖母』として祭り上げながら、同時に、彼女を『物』として支配し、その所有を永続させたかった。殺害は、その支配の失敗に対する『自己防衛的な破壊衝動』の表れでしょう。つまり、先生が感じた情動は、『裏切られた聖母への八つ当たりが本質だと見るべきです」
久我はユウキの冷静で理論的な分析に、自身の情動の解釈の単純さを指摘された屈辱を覚えた。
久我: 「ユウキくん、私の能力を否定するのか!」
ユウキ: 「いいえ、久我さんの情動の『感知』は信頼しています。ただ、『解釈』は私の心理学の理論に任せていただきたい。久我さんは情動に溺れすぎです」
その時、伊織が冷たい視線をユウキに向け、切り裂くような言葉を放った。
伊織: 「ユウキさん、あなたって、本当に『血の通っていない』方なんですね。人の狂気を、ただの『論文のテーマ』のように分析して、楽しいんですか? あなたのその完璧な理性は、誰かや何かを愛した情動を感じたことがあるのかしら? 久我先生の方が、よっぽど人間的で、私の情動を分かってくれるわ」
ユウキは表情一つ変えず、静かに反論した。
ユウキ:「 私の目的は、真実を掴み、久我さんの能力を最大限に利用することです。情動の共感は、私の仕事には不要です。それに、伊織さんの情動の裏にある『論理』を探ることも、私の重要な責務ですから」
その緊迫した空気を破ったのは、相田刑事だった。彼は慌てて伊織に優しい笑顔を向ける。
相田: 「ああ、伊織さん、ごめんね。ユウキくんはそういう言い方しかできないだけで、悪気はないんだ。ちょっと人間的にブショネ(欠陥)なだけで。僕ら刑事は、伊織さんの気持ち、ちゃんと分かってるから。藤本容疑者のせいで、辛い思いをさせてごめんね」
相田の、取り繕いつつも根は優しいフォローに、伊織はユウキや久我に見せた冷ややかな笑みとは違う、少しだけ熱を帯びた、甘い視線を相田に向けた。
伊織: 「相田さん、ウフフ……ありがとう。あなたのその優しさは、久我センセッの『理性』を溶かしてくれる、美味しいワインみたいね。......私に、優しくしてくれるのね」
相田はその視線にたじろぎ、久我とユウキは伊織が相田に対してだけ見せる、「弱さ」と「好意」の混ざった情動に、再び違和感を覚える。ユウキはただニヤリと笑い、久我の焦燥を観察し続ける。
狂気の宣言書—床下の密約
その裸婦画の足元には、もう一枚、小さなキャンバスが立てかけられていた。それは、伊織のような小さな女の子を描いたものだったが、その絵は乱暴に塗りつぶされ、顔や体には血のような赤と黒の絵の具が塗りたくられ、恐ろしく歪んだ姿になっていた。さらに、絵の隅には、カタカナで「カゲ」と乱暴に書き殴られていた。
「カゲ、だと?」久我は、その文字を凝視した。「藤本は、この少女を、何かの『影』として見ていたのか? 彼自身の狂気の影、あるいは美沙さんの影……」
「な、なんだこれは……」黒岩が顔を引きつらせた。相田も「怖えぇ……」と呟き、思わず一歩後ずさる。
久我は、その絵から発せられる強烈な「破壊衝動」の情動を感じ取り、藤本の狂気が深淵に達していることを確信した。
ユウキは、塗りつぶされた少女の絵の前で足を止め、改めて考察を口にした。
ユウキ: 「この二枚目の絵も重要です。この少女は、美沙さんの妹である伊織さんを描いたものでしょうが、乱暴に塗りつぶされ、『カゲ』と名付けられている。これは、藤本容疑者が抱えていた『シャドウ(影)』、つまり彼自身の抑圧された暗い部分、あるいは『拒絶された自己像』の投影です。彼は美沙さんという『聖母』に理想を押し付けた結果、伊織さんという『純粋な存在(妹)』を、美沙さんに対する『代理の復讐の対象』、あるいは『破壊すべき醜い自分自身』として見ていた。この絵の破壊は、彼が殺人へと至る過程で、理性を完全に失った瞬間を視覚化したものと解釈できます」
ユウキは考察の途中で、伊織の顔を、まるでその心理学の概念が彼女自身を指しているかのように、鋭く一瞥した。
ユウキ: 「付け加えるなら、この『シャドウ』は、藤本容疑者の心に宿った伊織さんの情動、とも解釈できます。伊織さん自身が、美沙さんへの愛憎や、家への不満といった暗い情動を無意識に抱えていた場合、藤本容疑者がそれを『カゲ』として描き出し、後に破壊した可能性も捨てきれません。もちろん、これは純粋な心理学的可能性にすぎませんが」
久我は、ユウキの「純粋な心理学的可能性」という言葉の裏に、伊織への冷たい疑念が潜んでいるのを感じた。久我の内心の違和感が再び頭をもたげるが、藤本の殺意のヴィジョンという圧倒的な「情動の証拠」が、その疑念を抑え込んだ。
久我:「 ...分かった。藤本は、美沙さんを殺害した後も、彼の狂気の残滓を、伊織さんに押し付けようとした...」
久我は再び伊織をそばに立たせた。伊織は、その薄暗い空間の中で、涙を流す代わりに、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。伊織の体からは、藤本がメモを隠す瞬間の、強烈な「達成感」と「狂気」の情動が発せられていた。この情動の強さは、久我の能力を完全に支配する。
久我の脳裏には、先ほどのサイコメトリーで見た、藤本が床下にメモを隠したヴィジョンが再び鮮烈にフラッシュバックし、伊織の情動と場所が完全にシンクロした。
久我は伊織の反応を頼りに、アトリエ全体をゆっくりと移動した。伊織の笑みが最も濃くなった場所は、中央のイーゼルの真下にある床板の、わずかな隙間だった。
「ここだ! 伊織さんの『思い出した記憶』が叫んでいる! 私の能力も『ここだ』と叫んでいる! 藤本の狂気の記録がここにある!」 久我は、その隙間を指差した。
黒岩が床板を無理やり剥がす。床下の空間から出てきたのは、美沙への恨み言がびっしりと書き殴られた古いメモだった。
黒岩はメモを読み上げた後、怒りを込めて伊織を見た。 「このメモには、藤本の美沙への憎悪が詰まっている。『裏切者には制裁を』『もう誰も俺から逃げられない』だと……。これも、伊織さん、あなたは知っていたのか?」
伊織は涙を流しながらも、覚悟を決めた声で答えた。 「はい。藤本さんは私に、『私の芸術(狂気)が、このアトリエの床下に隠されている』と、あの時、私だけに教えてくれたんです。美沙に奪われた私の全てを、このメモに残したと……」
久我のサイコメトリーと伊織という「アンテナ」によって裏付けられた証拠が次々と発掘されたことで、黒岩刑事も久我の能力を認めざるを得なくなった。藤本は、「拒絶された女性を標的とする連続殺人犯」として、捜査班に断定され、一行は証拠品を持って、夜の警察署へと戻る。
しかし、夜の警察署へ戻る車中で、久我の胸に沈殿したものは、安堵ではなかった。
藤本の凶器、狂気の絵、床下のメモ。
すべては整合し、誰もが納得していた。
あまりにも、きれいに。
久我は目を閉じ、改めて自分が“読んだ”情動を反芻する。確かにそこには、憎悪があった。狂気があった。
だが、その奥に混じっていた微かな達成感が、どうしても引っかかる。
(……おかしい)
殺人直後の情動にしては、
あれはほんの少し——澄みすぎていた。
まるで、
誰かが「正解を知っていた」かのように。
久我は、無意識のうちに伊織の横顔を見た。
彼女は窓の外を眺めながら、静かに微笑んでいる。
被害者として、妹として、すべてを失った人間の表情だ。疑う理由は、どこにもない。
それでも久我の胸の奥で、
能力とは無関係な、ひどく人間的な疑問が、かすかに疼いた。
「……俺が読んでいたのは、本当に“藤本の情動”だったのか?」
問いは声にならず、闇に溶ける。
車はそのまま、警察署の明かりへと吸い込まれていった。山梨の夜は、何も答えなかった。




